「瑠川にこのスッ◯イマン、この前食わせたんだけどよ、そしたらあいつ、サスペンス劇場さながらの険しい顔したんだよ!」
「え?食べさせたのかい?可哀想に」
「食ったことねーって言うからやっただけだよ。あいつは喜んでた」
「本当に?そんな顔してた?」
「ありがとうございます、って言ってた」
この頃最近、二人の口から"瑠川"、と言う名前はよく聞いていた。
コロコロと変わる担当補助監督の名前を、覚えもしなかった五条が珍しく口にしていたので、面識もない人物の名前を、自然と私も記憶していた。
そんなに面白い人なんだ、と私が聞くと夏油は愉快そうに「そうだね、硝子も気に入るんじゃないかな?」と笑った。それってあんたも?と聞き返そうとして、やっぱりやめた。聞かなくても、何となく分かった。
大きく振りかぶった手は、避けようと思えば避けれる速さだった。日頃見ている同級生男二人の組手を思えば、欠伸が出るレベルだ。でも、ここで一発打たれておけば、この後何とか丸く収まるかと、そんな事を考えるくらいには、余裕があった。血の昇った相手には、こうしておけばいいだろう、と。
だから、突然視界を遮ったスーツ姿の背に、目を見張った。見覚えのない後ろ姿。自分よりも数センチほど高い頭を眺めながら、もしかしてと、ある人物の名前が脳裏を掠めた。目の前を遮る人物は彼の手首を掴み、じわじわとその腕を相手側へと押し返していた。華奢な体躯から伸びる腕は服の上から見ても細く、彼と比べれば明らかに力で劣っていそうなのに、均衡していた腕力勝負は掴み上げた人物の方が優勢で、それは呪力を纏ったものだとすぐに分かった。
「っう、あ、て…めえ!誰だよ一体!」
「すみません、急に。でも流石に見ていられず。私はただ彼女をお迎えに上がっただけの、運転手みたいなもので」
「うんてん、しゅだぁ?んだよそれ、引っ込んでろよ!関係ねえだろ!」
「貴方が落ち着けば、すぐに消えますよ。でも見る限り、今日はもうやめておいた方が良い。まともに話したいなら、後日に。貴方のためにも」
丁寧な口調で実直さを纏った声は、淡々とも聞こえるが、凛とした響きを持っていた。男にしては高く、女にしては低い。でも、相手を諭すように放った言葉は彼の勢いを弱めたらしく、力が抜けたように腕を下ろすと、「…分かったよ…。また、連絡する…」と言い残し去っていった。あまりの呆気なさに何だそれ、と呟きそうになったが、今は去った元彼の事よりも、目の前の人物への関心の方が勝っていた。
「はじめまして、担当補助監督の瑠川です。出過ぎた真似をして、すみませんでした」
細身の体でありながらぴったりとサイズの合ったスーツは彼女によく似合っていた。黒のシンプルなスーツをここまで着こなせるのは、それだけ身体が引き締まっている証拠だ。他の補助監督にはない洗練された雰囲気を持つ彼女は、改まった口調で会釈をした。路地に差す僅かな陽光に振られた漆黒は揺れ、光を纏った毛先は透き通って見えた。思わずため息を零しそうになるほどに、綺麗な人だと思った。
「えっと…こちらこそ、ありがとございました。でもどうしてここに?」
「夏油さん達から何となくの話は聞いていたので…。それで声が聞こえて、何かあったらと思い、ついここまで」
表情は乏しいが、彼女が善意で動いてくれた事はよく伝わった。あいつらには人の交際事情を容易く話すなと言いたいが、今回ばかりはそのおかげで助かったので、不問にしておくことにした。
「お世話かけてすみません。前々からああいう感じでカッとなったら手がつけらんなくなるところあったんですけど、今回は過去一ひどかったっていうか」
「お怪我がなくて良かったです」
「まあ、一発もらってあげれば目が覚めてパッと別れられるかなとも思ってたんで、助かりました」
我ながら今回は落ち度を認めるしかない。来る者拒まずで受け入れるとしても、見る目がなさすぎた。もっと見極めて選ぶべきだったと反省して髪を掻き上げる。初対面の相手にはできれば見られたくなかったところだなと若干の気まずさを感じて、「遅れた分働くんで、もう行きましょうか」と通りの方へと足先を向ける。背後から聞こえる革靴特有の地面を高く鳴らす音に自分も一歩踏み出そうとしたが、それよりも先に前を行く影が制止するように止まった。
「もし、また今回みたいな事があるようでしたら、気軽に私を呼んでください」
「え?何で…ですか?」
「男性が仲裁に入るより、同姓の私が入る方が丸く収まりやすいかと思いますし…。それになにより、家入さんが心配なので」
彼女が自分を差す真っ直ぐな眼差しに、一瞬息を止めた。その後ふっと伏せられた長い睫毛にさえ目を奪われて、低めのヒールの踵が地面を鳴らすまで、ただ立ち竦んでいた。仄暗かった路地の中で映る背景は色褪せて見える筈なのに、彼女の黒橡色のスーツは目から離れなかった。
路地から陽光の当たる光の境界を踏み越えた後、振り返った彼女が「家入さん?」と自身の名前を呼ぶ声に、心地よく胸が鳴るのを感じた。長い睫毛が瞬くのを眺めながら、震えが首筋を抜けていくのを感じ、確信へと変わった。思わず、可笑しくて笑ってしまった。