黒革の腕時計の時刻を確認する。
時刻は午前8時。
日は上がり、光が露の様に木々の合間を縫って差し込み、山麓にあるこの地では澄んだ空気が流れている。
今回の任務で同行する五条さんの到着を待ちながら、目頭の間を軽く摘む。着任してからここ最近、空くことのないスケジュールをこなしたおかげで疲労が少しずつ積み重なっていた。送迎から資料作成、事後処理から報告連絡まで、関わった任務全ての雑務を一人でこなすというのは、正直まともなタスク量ではなかった。補助監督の過酷さは百も承知で引き受けたものだったが、この仕事量ははっきり言って予想していなかった。
だからと言って弱音を吐くつもりも投げ出す気もさらさらないが、どこかで休養は取るべきだと漠然と感じる。それがいつになるかは定かではないが、他の補助監督達に一度話を聞いてみるのもいいかもしれない。
頭の中にある現状で把握しているスケジュールを思い返しながら、目頭を抑える力がより加わったところで、「はよーっす」と軽快な声が耳に届き、それに弾かれるように傾いていた顔を上げる。
「おはようございます、五条さん」
「…おー」
「8時4分…。今日も記録更新ですね」
「またそれかよ。お前が毎回タイム記録言ってくるから変に意識するようになったじゃねーか」
「いい傾向ですよ」
「るせー」
陽光を反射させ煌めく白髪を乱雑に掻きながら車へ乗り込む背を見送り、気を引き締めろと自戒する。五条さんが挨拶をかけてくれるまで彼が近づいているのに気がつかなかった。来るまでもう少しかかるだろうと予想していたというのもあるが、朝から気を抜きすぎていた。
それにしても、本当に早くなったなと思う。
当人がよく言う"プチ遅刻"というのも、10分に満たないものが着任初期は多かったが、最近は5分に満たないものへと変化している。私としては嬉しい変化に、毎回タイム記録を開示する作戦が上手くいったのだと手応えを感じていた。
「ていうか、寝不足?さっき珍しく険しい顔してたけど」
「あ、すみません。やっぱり見られてたんですね」
「この前のスッ◯イマンぶりに険しい表情してたぜ」
「あの味は…忘れられません…」
「俺もお前のあの時の顔忘れらんねーわ」
ケラケラと楽しそうに笑う五条さんに、未知の食べ物を食べた甲斐があったなと私も頬が緩む。おそらく半分悪戯で買ってきたものを食べさせられたのだろうけど、酸味は強かったものの、味は美味しかった。駄菓子というものをほとんど食べた事がなかった私にとって、新鮮な経験をさせてもらったといえる。
「てかまだ今日どこに向かうかも聞いてねーけど、朝からって事は結構時間かかりそうな内容なワケ?」
「いえ、五条さんであれば特に時間はかからないかと思うのですが…。概要を説明しますね」
念の為と都度まとめていた任務についての資料も、ここ最近は五条さんのみであれば省く事にしていた。理由は簡潔だ。彼はそういった資料は見ないからだ。それよりも口頭で説明してもらう事を望むので、私もそのスタイルに順応していった。一度説明すれば彼は完璧にインプットし、多少強引なりとも確実に任務をこなしてくれる。調査報告の確認を怠りはしないが、彼は起こり得るイレギュラーさえもものともしない。数多の可能性を凌駕する力量が、五条さんにはあった。
頼もしい。
端的に言えばこの一言に尽きる。
けれど、彼はまだ若い。
その若さ、幼さを、端々に感じることはあれど、唯一無二の肩書きが、それを保たせてはくれない。彼の肩には、一体どれほどの重責があるのだろう。
誰よりも自由に振る舞っているように見える五条さんを見て、窮屈ではないのだろうか、そんな事を頭の隅で思った。