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その日来栖くんからメッセージが届いた。
『上手くいった、あとは結果を待つだけ』
今日が決行日だと知っていたので、一日落ち着かなかった。自分を取り巻く何かが変わる、そんな予感がしていたのかもしれない。だから、こんなにも気になっている。返信に迷っていると再度携帯が震えた。来栖くんからだ。
『今日はバイト?』
『はい』
『終わったらルブランに来れる?』
『遅くなってしまいます』
『大丈夫。駅まで迎えにいく、何時に終わるか教えて』
簡単に彼はわたしの領域に踏み込んでくる。それが全く嫌ではないのは、きっとわたしのことを考えての行動だからだ。今晩時間を作ってくれるのもわたしがパレスのことを気にしていると思って、来栖くんが配慮してくれたのだろう。
定時の時刻を手早く送り仕事へと戻る。来栖くんの報告を楽しみにしながら。
少し小走りに四軒茶屋の改札から出口へと向かう。先日の武見診療所のときと同じように、携帯を触りながらわたしのことを待っていた。鞄を持っていないところをみるとモルガナとは一緒ではないらしい。
「すみません、お待たせしました」
「バイトおつかれさま……もしかして急いで来てくれた?」
わたしの息が少し乱れているのに気づき、彼の猫毛に隠れた眉が下がったのが見えた。しまった、息を整えてから声を掛けるべきだった。
「……待っていてくれていると思ったら、無意識で」
来栖くんは眼鏡の奥で黒い瞳を瞬かせたあと、口元を手で隠すようにして顔を背けた。思案せずに口に出してしまったので返答の仕方も間違えたのかもしれない。
「このまま立ち話もなんだし、とりあえずルブランに行こう」
くるりと身を反転して来栖くんは歩き出した。わたしもその後ろを一歩遅れてついていく。背中しか見えないため、不快な思いをさせてしまっていたらどうしようと不安になった。彼との上手な付き合い方がわからずに苦悶する。何の見返りも求めず、わたし自身を見ている同年代の異性とはどういう距離感を築いていけばいいのだろうか。
このままルブランに着いてしまえば解決できないままになってしまいそうで、わたしは目の前で揺れる来栖くんの腕を掴んだ。
「あのっ、すみません」
「え、何、どうかした?」
驚いて彼の足が止まる。思っていたよりも強く引きとめてしまい黒縁眼鏡がずれてしまっていた。それを直しながらわたしに問いかける。
「歩くの早かった?」
「いえ、そんなことではなくて……」
「後ろだと俺が歩きにくいから、隣にいてもらっていい?それなら歩きながら話せるし」
こういうときは隣を歩くものらしい。腕を離したことで彼はまた歩き始めた。言われた通りにその隣に位置取り歩くわたしの歩幅に合わせるように、ゆっくりと。疑問を聞くタイミングを逃してしまった。
「急かしてるみたいでごめん、御守さんに頼みたいことがあって」
「道具作りです?」
「いや、パレスとか関係ないことなんだけど……」
「わたしでお役に立てるならお手伝いします」
「御守さんならそういうと思った」
ふっと優しく来栖くんは微笑む。機嫌を損ねてしまったというのは思い違いだったらしい。わたしは自分の足元を見ながら彼へ聞きたいことを話し始めた。
「先程の腕を掴んでしまったのは……来栖くんがすぐ顔を背けてしまったので、不快になることを言ってしまったのかと思って」
「さっき?……ああ、あれか、そっか……ごめん」
「どうして謝るのですか?」
あーとか、うーんという歯切れの悪いものが来栖くんの口から発せられ、見上げると今度は彼がわたしの視線から逃れるようにそっぽを向く。
「不快にもなってないし、怒ってもいない」
「ではどうして?」
「言わなきゃだめ……か」
彼は悩んでいたが、ちらりと不安そうなわたしを見てぽつりと小さな声で告げた。
「思いのほか、嬉しそうな顔してたから、……迎えに行くって言ってよかったと思って」
そういうと来栖くんはわたしの手首を軽く持って半歩前を歩き出した。隣の方が歩きやすいと言っていたのに、疑問に思って横から覗き込むと耳が少し赤くなっているのが見える。こういう反応をされるのは初めてで、わたしも気恥ずかしくなってしまい互いに触れ合っている自身の手に視線を落とした。
わたしの感情が誰かに影響を与えることもあるのか。どんな顔をしていたのか鏡がないのでわからないが、その感情も、わたしに触れる誰かの温もりも、本当は感じてはいけないと抑えていたものだった。この二年、家を出てから随分と人間らしくなったなと、今の現状を後押ししてくれたクラスメイトに感謝しつつ、元に戻るタイムリミットとルブランへ着くことを重ねて考えてしまった自分に嫌気がした。
来栖くんがわたしに頼みたいことというのはコーヒーの試飲だった。彼も惣治郎さんから教わり始めたという。サイフォンの使い方のコツを教えて、彼が淹れてくれたコーヒーを頂く。
「まだ少し雑味があります、抽出する時間を気持ち短くするといいかもしれません」
「……なるほど、雑味か。ありがとう、勉強になるよ」
「いいえ、わたしも惣治郎さんに教えてもらったことです」
「美味しくなかったら無理に飲まなくてもいいから」
「大丈夫です、美味しいですよ」
「そうか、よかった。……あのさ、鴨志田のことだけど」
カウンターを挟んで来栖くんがパレスであったことを話してくれた。
パレスの最奥で悪魔と化した鴨志田のシャドウを倒したこと、オタカラを盗めたこと、それは金メダルだったこと……。鴨志田のシャドウが現実の鴨志田に戻ったことでパレスは消滅し、現実の彼は学校を無断欠勤しているらしい。そのため改心が成功したのかどうかは未だ不明。しばらく様子を見るしかないとのことだった。
「……そうですか、教えてくれてありがとうございます」
「きっと気にしてると思ったから、報告するならこうやって会ってしたかったし」
「オタカラを盗んでからその鴨志田……先生、が学校に来なくなったのなら、何かしらの変化があったのは確かですね」
「ああ、早く確信が欲しいところだけど、焦って不用意に動くのは不味いと思って」
パレスのことなど誰も信じないだろうが、だからといって公にできることではない。頭がおかしくなってしまったと思われたり、心を改めることができると知られたら何に使われるかわからない。
「相手の出方を待ってるんだけど、落ち着かなくて」
「それで、サイフォンの使い方を聞いたのですね」
「そういうこと」
別のことで気を紛らわそうとしたのだろう。
軽く笑った来栖くんはサイフォンを片づけ終わり、カウンター内からわたしの隣の席に移動して腰を下ろした。結果がわからないことに少なからず不安を感じているだろうが、決行前のよりも落ち着きがある。彼の中で確かな手ごたえがあったのだ。
「また付き合ってもらってもいいかな」
「わたしでよければいつでも」
練習とはいえわたしに淹れてくれたコーヒーをゆっくり味わいながら、ルブランの穏やかな空気をこの身に感じていた。
(2018/8/4)
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