18


視界が歪んで暗転した直後、浮遊感から自身が落下していることに気づいた。どこからか高巻さんの絶叫だけが聞こえる。どちらが上か下かもわからず身を任せていると、パレスへ入ったときと同じように視界が歪み、暗闇から煌びやかな金色が混ざり合って一気に明るくなった。そうして自分が頭から落下していることに気づく。このまま地面とぶつかるとまずい。回避するにはどうすればいいのか、受け身を取ればいいのか。混乱し思考が停止したとき、一際大きな声が聞こえた。

「御守さん!!」

両手を広げてわたしの落下地点で彼は待ち構えていた。
受け止めてくれるの?
その手を信じていいの?
思い浮かんだ言葉は全部飲み込んだ。きっと、彼なら――。

「――っ」

わたしは両手を広げてその身を来栖くんへと預けた。
受け止めた勢いを緩めるためぐるっとわたしたちの体が半回転すると、そのまま来栖くんを下にして床に倒れ込んだ。無意識に呼吸を止めていたらしく、急に酸素を取り入れて心臓が破裂しそうなほど動き出す。大丈夫、どこも痛くない。
苦しかったが、現状わたしが動かなければ来栖くんは起き上がれない。上半身を起こして彼の無事を確認するために声を掛けると、ゆっくりと彼も体を起こす。

「怪我はありませんかっ?」

「……ああ、御守さんは?」

「大丈夫です、来栖くんのおか――」

「よかった」

何の言葉も紡げなくなった。いつの間にか来栖くんの声が耳元から聞こえる。背中に回された両腕で力強く抱きしめられ、身動きが取れない。
こんな風に誰かの温もりを感じたことなんてなかった。物理的にも精神的にも苦しくて、居心地が悪い。早く離れたいのに、来栖くんの力に抗えなかった。その胸の押して拒絶を表せばいい、それだけなのに。

「おーい、大丈夫かー?」

気の抜けるような声に来栖くんははっと我に返る。抱きしめる力が弱まり、お互いの体を離した。受け止めてくれたときに回転したせいか、坂本くんからはわたしが抱きしめられてる状況は見えていなかったらしい。先に立ち上がった来栖くんは振り返ることなく、声を掛けてくれた坂本くんに返答をしながらわたしへ手を差し伸べた。

「御守さんは大丈夫だ、杏と祐介は?」

「問題ないよ!」

「俺は頭が痛い……」

「ワガハイの心配もしろ!」

「って感じだな」

三者三様の返事だったがみんな無事のようだ。喜多川くんが何故か頭をさすっているのが見える。

「……御守さん、ホントに何ともない?」

いつまでも地面に座ったままのわたしを心配して高巻さんが駆け寄ってきた。差し伸べられる手が増える前に急いで立ち上がり、スカートの裾を払った。

「大丈夫です」

「そっか!……どうしたの、暁?」

「いや、なんでもない」

取られることのなかった来栖くんの手が拳を作って降ろされたのが視界に入る。高巻さんもその姿を横目で訝し気に見ていた。
彼の顔を見られない、あの手を取ることがどうしてもできなかったから。

「それで、ここが先生の心の中というのは信じがたいな」

「ウソじゃねえ、これがヤツの本音なんだよ」

目に痛いほどの金色で作られた天井、壁、扉。とても芸術的とは言えない。これら全てがお金を指しているとすれば、それこそ坂本くんが言う亡者と呼べるのではないか。

「でたらめを言うな!」

喜多川くんは理解することを拒絶するかのように声を張り上げた。落ち着いて欲しくて、ゆっくりとわたしと高巻さんで話しかける。

「喜多川くんも本当はおかしいと気づいていますよね?」

「信じたくないかも知れないけど、ここは班目が見ている『もう一つの現実』……班目の本性なの」

「こんな、おぞましい世界が……」

険しい顔で喜多川くんは周囲を見回した。

「……それでも十年置いてもらった恩義だけは……消えない」

「許すってのかよ!?このままじゃお前……!」

「竜司、落ち着け」

詰め寄る坂本くんを来栖くんが制した。急にパレスに連れてこられ、親代わりの人間の真実を知らされたのだ。そうすんなりと受け入れられるはずがない。それが長年見ないふりをしていたことだとしたら、尚更だ。嘔気があるのか、うう……、と呻いてうずくまった。思わず駆け寄り、その背をさする。

「大丈夫です……?」

「頭の理解に、気持ちがついていかない……」

顔色が真っ青だ。早く現実世界に戻り、喜多川くんを休ませなければ。

「悪いが、のんびりしていられないぜ!すんごい警戒されてる、さっさとズラかるぞ!」

非戦闘員が二人もいて敵に囲まれてしまえば逃げることは難しい。セキュリティ解除という目的が達成された今、一度パレスから出るべきだ。
来栖くんが肩を貸すと申し出たが、喜多川くんはそれを強い口調で断りふらふらと立ち上がる。隣にいたわたしは彼を支えようとその腕に触れたが拒否されることはなかった。先に出口へ向かっていた坂本くんとモルガナを追うように庭園のような部屋を出る。戦闘にならないように気を付けて進むと、沢山の人間が描かれた展示室へとたどり着いた。

「ここも、先生の心の中……だと言うのか、こんな……虚栄にまみれた、美術館が……」

悲痛な面持ちで呟く喜多川くんの声は暗闇に中に吸い込まれてしまいそうだったが、辛うじて彼を支えていたわたしの耳には届いた。そして一つの人物画の前で立ち止まる。

「この絵は……!」

学生服を着た女の子の絵だった。その表情は無、としか言いようがなかい。眉根を寄せて、高巻さんが尋ねる。

「見覚え、あるんじゃない?昔、同じ弟子だった人たちでしょ?これ……」

「なぜ、彼らの、絵が……」

「絵じゃねえ……そいつが『弟子本人』さ」

「物扱いなんだよ、マダラメにとっちゃな……ちなみに、お前のもあるぜ」

弟子は人間ではなく自身の作品である、班目の認知はそうなのだとモルガナと坂本くんは教えてくれた。喜多川くんは何も言わず、ただじっと自分と同じ弟子の絵を見つめていた。
行きましょう、と先を促すと、その先は中心に黄金の作品像と天井から『班目展』と大きく書かれた垂れ幕が吊り下げられている円形のホールだった。中二階から階段を下りて出口の扉をくぐろうとしたとき、赤い飛沫を上げて床から警備員の恰好をした仮面の影が出現した。

「出口は目の前だってのに!」

モルガナが愚痴る。戦闘が始まるかと思ったそのとき、背後から男の高笑いが聞こえた。喜多川くんの肩が大きく震えわたしの腕を払って振り返るが、驚きのあまり声が出ないようだ。代わりに高巻さんと坂本さんが反応した。

「誰!?うっそ……」

「フザけたカッコしやがって!王様の次は殿様かよっ!」

二体の影の警備員を引き連れて、男は立っていた。金色の和服に身を包み、髪は後頭部で髷にして、真っ白の顔に不自然に黒く太い眉と深紅の口紅の化粧を施している。怪しく光る金色の瞳でわたしたちを見下していた。

「ようこそ、班目画伯の美術館へ……」

「先生……なのですか?その、姿は……?」

「あんなみすぼらしい格好は『演出』だ。有名になってもあばら家暮らし?別宅があるのだよ……オンナ名義だがな」

そう言って小指を立てて見せびらかすように主張した。
これが真実。これが裏。表からにじみ出るものではなく、純粋な裏。
自分のためなら何でもする。周りの人間などただの物でしかない。あの人の影がちらついて眩暈がした。が、わたしの体は床とぶつかることはなく、力強く肩を支えてくれる来栖くんが背後に立っていた。彼の低く鋭い声がすぐ真上から放たれる。

「策士だな」

「フン、心にもないことを」

「なぜ、盗まれたはずのサユリが保管庫に?なぜたくさんの模写を!?」

「まだ気付かんのか、青二才め」

喜多川くんの悲痛な叫びに対して、班目は飽きれたように勝ち誇ったように饒舌に語りだす。

「『盗まれた』など、私が流したデマだ!全部、計算し尽くされた『演出』なのだよ!」

本物が見つかったが公にできない事情がある、特別価格で譲りたい。そんな甘い言葉を囁き、『特別感』で審美眼を持たない人間を騙す。そうして班目は、サユリの贋作を作っては大金に代えていた。嬉々として芸術は金と名声のための道具だと語る。喜多川くんの才能すらも、班目にとっては金を稼ぐためだけに育てていただけだと。

「さっきから金、金、金……どうりでこんな気持ちのワリい美術館ができるわけだぜ!」

「てか、あんた芸術家なんでしょ!?盗作とか恥ずかしくないわけ!?」

俯いたまま喜多川くんは動かない。握りしめた拳を震わせて、絞り出すような声だけが聞こえた。

「こんな……ヤツの、世話になっていたとは……!」

「ただの善意で引き取ったとでも思っておったのか?有能な弟子を集め、着想を吸い取れば、才能ある目障りな新芽も摘み取れる……着想をいただくなら、大人よりも、言い換えせん子供の将来を奪った方が楽だ。家畜は毛皮も肉も剥ぎとって殺すだろうが。同じだ、馬鹿者め!」

「師としても、育ての親としても慕ってくれた方を騙して……。お金に取りつかれたあなたの方が、よっぽど愚かです……」

この人のせいで中野原さんも、彼の兄弟子も、あの人物画に描かれていたたくさんの弟子たちも、全てを諦めていったのか。それを道具だ、家畜だなどとのたまう人間が他にもいたことに吐き気がした。

「……許せん」

微かだったが、力強く凛とした意志が空気を震わせた。

「許すものか……お前が、誰だろうと!!」

「長年飼ってやったのに、結局は仇で返すか……くそガキめ!者ども、賊を始末しろ!」

喜多川くんは真っすぐに班目を見据える。高巻さんが喜多川くんへ下がるように喚起するが届いていないようだ。ふっと自嘲気味に笑っていた。

「面白い……、事実は小説より奇なり……か」

「喜多川くん!?」

「そんなはずはないと……長い間、俺は自分の瞳を曇らせてきた……!人の真贋すら見抜けぬ節穴とは……まさに俺の眼だったか……――っ!?」

突然喜多川くんが頭を抱えて苦しみだす。その瞳は金色に光っていた。この光景は前にも見た。今彼の名を呼んだ高巻さんが……ペルソナを手に入れたときに……。
わたしを背に庇うように来栖くんが半歩前へ出る。喜多川くんを取り巻く異様な雰囲気に班目は怖気づいていた。
崩れ落ちるように膝をつき、爪を立て引っ掻いた床には彼の血の筋が残る。ゆっくりと上げた顔には狐の面が付けられていた。

「……よかろう」

何かにもがき終わりふらりと立ち上がると、赤に滲んだ指先を面へ添えて勢いよくそれを剥がした。面は肌に直接張り付いていたかのように、剥がした痕から赤い何かがしたたり落ちる。喜多川くんの呼び声に応え、面も顔の痕も光に包まれた。

「来たれよ、ゴエモン!」

冷たい突風が巻き起こる。来栖くんが壁になってくれたおかげで、わたしは辛うじて立っていることができた。目を開けると喜多川くんの背後には歌舞伎役者の出で立ちをしたペルソナが構えていた。喜多川くんも制服ではなく、狐の尻尾を腰から下げて白と黒のスーツに変わっていた。青い手袋を身に着けた両腕を広げ、見えを切るように班目に相対する。

「絶景かな、まがい物とて、こうも並べば壮観至極……悪の華は栄えども、醜悪、俗悪滅びる定め……!」

空を切るように腕を横に振ると、冷気が警備員の影に向かって一直線に放たれた。影は一瞬で氷に包まれ吹き飛ぶ。

「貴様を親と慕った子供たち、将来を預けた弟子たち……いったい何人踏みにじって来た?幾つの夢を金で売った!?俺は貴様を……絶対に許さない!」

来栖くんがわたしをホールの隅に行くよう目線で誘導したあと、喜多川くんと並び合う。リーダーとして、怪盗団の叛逆の狼煙を上げるのだ。

「お手並み拝見だ!」

「望むところだ!」
(2018/10/13)

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