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「宇宙のように昼夜無し、ビッグバン・バーガーへようこそ」

お決まりの挨拶をし、四五度のお辞儀。マニュアル通りの対応でお客さまを迎える。お買い得なメニューを薦める文句が続くはずだったが、カウンター越しにいるのが彼だったため言葉が途切れた。

「こんばんは、瀬那」

「来栖くん、こんな時間に珍しいですね」

もう日は落ちて、もうそろそろわたしの退勤も迫っている時間だ。喜多川くんが加わってから怪盗業も忙しそうで、たまにルブランで会っても少し疲れた顔をしていた。なので、わたしからパレスの話をすることはなかった。解決したなら、きっと来栖くんから話をしてくれると思っていたから。秀尽学園の教師のときのように。

「ワンコインで食べられるって聞いたんだけど、ホント?」

「ビッグバンチャレンジのことです?」

こくりとひとつ頷く。彼もこのような大食いイベントに興味があるのか。このチャレンジは三人分程のハンバーガーを三十分以内に食べきるというものだ。頼んでいる客を見たことがあるが、かなり注目されるので度胸や何やら色々なものが付きそうだなと思ったことがある。
初回のコメット・バーガーなら高校生の男の子は案外丁度いい量なのかもしれない。会計をしながら、来栖くんへ空席で待つように案内する。しかし、彼は店内へ進まずに再びわたしに向き直った。

「食べ終わったら待ってるから、家まで送るよ」

「……え」

「終わったんだ、だから時間くれないか」

「ちょうど制限時間くらいに上がりなので、待っていてください。……ミッションの成功をお祈りしています」

ついでだとしても、今度は直接話をしてくれることに自分の声が弾んでしまっていた。気づかれないよう、チャレンジをする客に対し贈る言葉に笑顔を乗せて、マニュアル通りだと装うことにしたのだった。




わたしが渡した成功報酬である二等航海士バッヂを鞄に着けた来栖くんと並んで帰路へ着く。ルブランまでは当たり障りのない会話が続いた。店内には惣治郎さんがカウンターで雑誌と睨み合っていた。客はもうおらず最低限の灯りに、テレビが明滅して音を立てている。明日の準備もし終わっていて、来栖くんが帰ってくるのを待っていたようだ。
もう当たり前になったただいまと、おかえりの挨拶を二人が交わしたあと、惣治郎さんはわたしがいることに驚いていた。アルバイト終わりにルブランに寄ることはほぼない。たまたま駅で会ったと誤魔化したが追及されることはなく、遅くならないうちに帰るように告げると惣治郎さんは帰宅した。
どうぞ、と来栖くんがカウンター席に座るように促した。それに従うと彼の鞄から出てきたモルガナがわたしの隣の椅子に飛び乗る。

「お勤めご苦労だったな」

「わたしよりも、怪盗団の皆さんのほうが大変だったでしょう?」

カウンターの向こうで背を向けた来栖くんがサイフォンを取りだし、準備を始めた。ヒーターのオレンジ色がフラスコに反射して、ほっとする。来栖くんがコーヒーを淹れてくれている間、邪魔にならないようモルガナと待つことにした。青い瞳が胸を張ってわたしを見上げている。

「ユースケも加わって頭数が増えたことで、無事マダラメのオタカラを盗むことに成功した」

「オタカラは……なんだったんです?」

「……『サユリ』だった」

フラスコ内の泡がチェーンを伝っているのを見ながら、来栖くんはゆっくりと聞かせてくれた。
喜多川くんの母の自画像、それが『サユリ』だったこと。それを奪うために彼女を見殺しにして、喜多川くんを育てたこと。『サユリ』の塗りつぶされた部分には産まれたばかりの喜多川くんが描かれていたこと。
『サユリ』に励まされて生きてきたと彼は言っていた。母の顔を覚えていなくとも、何か感じるものがあったのだろう。

「……喜多川くんは母親に会えたのですね」

「そういうことになるのかな」

少し羨ましかった。慈愛に満ちた顔で子供を見つめている自画像。それは喜多川くんを大切に想っていたことを示していた。家族というものは、こういうものなのだろう。彼は母の愛を確かに受けていたのだ。手元に帰すことことができてよかった。

「喜多川くんを助けてくれて、ありがとう……」

彼が救われて、自身も救われたと思えたから。錯覚だとしても、わたしはこれで満足だった。

「ちょっと焼けるな」

その言葉の意味が理解できず、小首を傾げる。コーヒー液がフラスコ内に全て落ち、それをカップに注ぐと、どうぞ、と差し出された。コーヒーの豊かな香りが漂い、来栖くんはもうサイフォンでの淹れ方を習得し終わったことがわかる。お礼を言って口に
含むと苦みも渋みもなく、まろやかで落ち着く甘味が広がった。

「瀬那、祐介のことすごい気にしてるから」

「アイツは顔だけはいいからなあ」

「モルガナまで何言ってるんです。共感しているだけで、他意はないですよ」

自身と同じ境遇の彼に何かしら感じているのは確かだったが、所謂特別な感情というものではなかった。そもそもそれがどういうものなのか、わたしには理解できない。好きか、嫌いか、それ以外のそれ以上のものがあるというのだろうか。
考えていてもわからないものが理解しようがない。目の前のコーヒーを堪能することのほうが、今の自分にとって有意義なものだ。話題を長引かせたくなくて、未だに喋り続けている機械に頼ることにした。

「飲み終わるまでテレビ観ていてもいいです?」

「ああ」

どこかの国の話題や、スポーツの勝敗、動物の誕生などが続き、少しずつカップを傾けていた。そしてアナウンサーが今日起こった出来事の原稿を読み始めると、わたしはくぎ付けになった。

『――によりますと、原因は心不全とのことです。葬儀は既に近親者のみで、』

画面の左側に出ている人物が亡くなったらしい、その男は有名な実業家で世間に疎いわたしも知っている。そうだ、知っていて当たり前だ。忘れられるはずもない。ただその知らせに驚くばかりで、悲しみなど一つも湧きはしなかった。一時でも、婚約者だった男だというのに。

「――瀬那!」

「っ!?ご、めんなさいっ」

「火傷してないか?」

「はい、わたしにはかかっていません……」

意識が飛んでいたらしく、手に持っていたカップからカウンターの上に黒い水溜まりができていた。それは小さな川を作って数滴ずつ床へと零れ落ちていく。
気づいた来栖くんがカップを持っていたわたしの手を水平に支え直してくれたが、中身は少しだけになってしまった。せっかく彼が淹れてくれたというのに、台無しだ。
わたしは零れてしまったコーヒーをただ見つめていた。頭では片づけないといけないと理解しているのに、動けない。それは乾いた血の色で……誰の?ズキンとこめかみに鈍い痛みを感じ手で押さえる。その掌を見ると真っ赤に染まっていた、ように見えた。ぐっと手を握りしめもう一度開くと赤は消えていた。そう、これは今のことじゃない。

「どうした、急にボーっとして……真っ青だぞ」

「……なんでもありません。机、拭きますね」

わたしはモルガナの頭を撫でて、心配ないと笑う。来栖くんが床を拭いてくれていたが、わたしが汚したのだからわたしが掃除すべきだ。広がった黒い液体をダスターに吸い込ませていくと、頭の中も落ち着きを取り戻していく。

「コーヒー、だめにしてしまってすみません」

「気にしないで、瀬那ならいつでも淹れていいって惣治郎さんも言ってる」

「そう、なんですか。嬉しいですね」

大丈夫だ、上手く笑えているはず。
婚約話が立ち消えたのとあの男が亡くなったのは偶然なのだろうか。結婚自体が出世を有利に進めるためのものと聞いている。こうなることを知っていたから?しかし人間の死期など知りようがない。それこそ神か、人為的なもの以外は。浮かんだ疑惑を消し去るように頭を振って、わたしはテレビの電源を消した。
(2018/10/28)

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