38
アルバイトを終えて急いで四軒茶屋へと向かう。昨日、暁くんと別れてから自分に出来ることは何なのかを考えていた。怪盗として心を盗むことはできない。部屋にも入ることはできない。カレーもあの味は出せない。唇を噛みしめながら、答えの出ない問を考え続けた。
「遅くなりました」
「バイトお疲れさま!」
「悪ぃな、急いで来てもらって」
七月の日中。駅からそんなに長い距離でもないのに、走ったことで汗が滲む。制服ではなく淡いブルーのVネックワンピースに薄手のカーティガンを羽織っていたため、熱がこもらずに済みそうだ。手で首元を仰いでいると隣に立っていた暁くんが半歩離れた。アルバイト終わりのため、髪に匂いがついているかもしれない。
「すみません、油臭いかもしれないです」
「いや、全然」
こちらからも少し暁くんと距離を取る。と、目の前の喜多川くんが私服じゃないことに気がついた。洸星高校も学校があったのだろうか。
「どうして喜多川くんも制服なのです?」
「洗濯したら、これしか着るものがなかったんだ」
「わたしも制服で来ればよかったですね」
「いやいや、そういう問題じゃねえわ……」
制服と言っても、暁くん以外みんな気崩し過ぎていてわたしだけ私服でも浮いてはいないのだが、せめて現実世界では統一感が欲しかった。パレス内ではわたしだけが怪盗服になれないから。
「もう、話を進めるわよ。パレスのキーワードを見つけるには手がかりが少なすぎるわ」
「だから、直接双葉んとこ行って聞こうぜ」
「何て言って入れてもらうの?」
「忍び込む」
「本気で言ってる、竜司?」
「っていうか、瀬那がいるんだから、入れてもらえばいいんじゃない?」
「それは難しいです、今はよっぽどのことがない限りは部屋から出てこないので……」
「鍵開けはワガハイに任せろ。今回ばかりはやむなしだろう」
「マスターに出食わしたら? 今度こそ誤魔化しは利かないわよ」
「この時間なら双葉ちゃんが呼ばない限り、家には戻らないと思います。万が一、惣治郎さんが戻ってきたときは、わたしがどうにかします」
「どうにかって……」
「瀬那だって怪盗団の一員だ、信じよう」
「……それしか、ないのよね」
他人の家の鍵を開けて勝手に入ることに戸惑う新島さんはごく普通の反応をしている。しかし、わたしたちはなりふり構っていられないのだ。それは彼女も理解している。意を決して、実行とした。
双葉ちゃんの部屋まで案内をし、また拒絶を示す扉の前に立った。暗い廊下、きっと彼女の部屋の中もモニタのライトだけで照らされているのだろう。
「双葉ちゃん? いるんでしょ?」
まず新島さんが扉をノックし声を掛ける。わかってはいたが返事はない。続けて高巻さんも声を掛けた。
「双葉ちゃん、いる? 昨日、びっくりして叫んでごめんなさい。暗くて怖かったから」
「無反応だぞ」
そういえばいつもの凛とした雰囲気とは違い、新島さんは取り乱して暁くんにしがみ付いていたような気がする。わたしも同じような状況だったので、あまり見ている余裕がなかった。そうだ、あのとき、暁くんに……。嬉しい、とは違うもやもやを感じるのは何故なのか。
「こりゃ骨が折れそうだな……、瀬那に代わってもらったらいいんじゃね」
「昨日、話ができたって言ってたし、頼む」
「……会話ができたわけじゃありませんが、やってみます」
余計なことを考えている場合ではない。そのために来たのだ。できるかわからないが、やってみなければ。新島さんと位置を代わり、わたしは扉の前に立って控えめにノックをした。
「双葉ちゃん……、話だけでも聞いて欲しくて来ました」
返事はないが、続けて話しかける。
「双葉ちゃんとして話をしにくいなら、アリババでも構いません。どうしてもあなたの協力が必要なんです」
暁くんが携帯を取り出す。その画面の中で口の大きな黒猫のアイコンが話していた。
『なぜ、来た』
「反応があったぞ! のんびりしてるヒマはねえ、セナ、キーワードを聞いてみろ」
わたしへの返事をメッセージでくれるため、読みやすいように暁くんが隣で画面をかざしてくれた。
「もう知っていると思いますが、心を盗むにはキーワードが必要なんです」
「直接顔を見せなくてもいい、このままメッセージでいいから答えてくれ」
補足するように暁くんが扉の向こうへ話しかけた。
『何が聞きたい?』
佐倉惣治郎宅、佐倉双葉、このふたつは確定しているワードだ。あとひとつ、佐倉惣治郎宅をどう見ているのか。それがわかればパレスへと侵入できる。
「あなたにとってこの家がどういう場所なのか知りたいんです」
『寝泊まりする場所だ』
「それ以外は?」
『抽象的過ぎて意図がつかめない』
「……居心地は、どうですか?」
『苦しい』
「苦しいなら出てもいいんです、ここには無理に引きとめる人間はいません」
誰も出ていけとも、居ろとも強要したりなんてしない。惣治郎さんは双葉ちゃんをひとりの人間として見ているのだから。では、彼女をこの家に、部屋に縛り付けているのは。
『出られない』
文面がアリババから双葉ちゃんが話しているかのように変わっていく。
『出ないまま、ここで死ぬの』
「ちょ、死ぬって……」
『まだ続くのか?』
縛り付けているのは彼女自身だ。母を殺したと懺悔する小さな女の子。
「どうして……そう思うのですか?」
『ここが私の墓場だから』
「は、か……?」
ここは二人が楽しそうに暮らしていた家だ。温かくて、明るい、そんな家だったはずだ。それなのに、どうして。だって、わたしの自室と全然違うのに、いつの間に同じような単語が思いつくようになったのか。
「それだ!」
「リュージ、『墓場』で入力してみろ!」
『入力ヲ受ケ付ケマシタ。目的地マデノるーとヲ検索シマス』
「きた……!」
『どうした? これでいいのか?』
「……」
パレスへの侵入が可能になったことで坂本くんとモルガナが喜びの歓声をあげる。成功と協力の礼を言うべきなのに、喉が乾いて引っ付き声が出ない。開くことはない扉に縋りつくと、わたしの携帯が震えた。わたし宛のメッセージがひとつだけ
。
『瀬那、ごめん』
「双葉ちゃんが……謝る必要なん、て……どこにも……」
視界が歪む。これは、わたしだけなのか。それとも……。目の前の扉が消え、体の支えを失った。前のめりに倒れそうになったが強い力で引き寄せられ、突然の眩しさで目がくらんだ。先ほどまで暗い室内にいたというのに、気がつけば雲ひとつない晴天の下、見渡す限り続く砂漠の上にわたしたちは立っていた。
「立てるか?」
支えてくれた腕に触れると、頭上から声が聞こえた。見上げると暁くんが心配そうな顔をしている。支えながくても立てることを確認した彼の腕がわたしの体から離れ、そのまま頬に触れた。親指で優しく拭われる。
「わたし……」
「誰も気づいてない、大丈夫」
自分自身も気づかなかった。まだ泣くことができたなんて。暁くんは何事もなかったようにわたしを背に隠して、現状把握をする他の皆の会話に加わった。拭ってくれた頬に自分でも触れる。痕が残っていなければいいのだが、鏡がないので確認できない。落とさずにいた携帯を両手で握りしめて、辺りを見回してみた。暑い、日差しが痛い、現実ではないが砂漠という場所が再現されている。砂だけで木も草もない、荒漠たる風景。自室の外には一切興味がないような世界。これが双葉ちゃんの心。
「瀬那ーっ! 置いていくよー」
振り返ると、高巻さんが大きく手を振っていた。その隣には黒いワゴン車があり、青いヘッドライトがキョロキョロを動いていた。
「この車……」
「ワガハイ、車になれるんだぜ」
「前に言ったでしょ、メメントスではモルガナに乗って移動するって」
よく見ると、車のルーフに猫の耳がついていた。後ろには尻尾もありそうだ。パレスの中は認知の世界、猫は車になれる、というのは一般常識的なものなのだろうか。
「馬鹿竜司のせいで、瀬那まで巻き込んで。ホント何やってんのよ」
「悪かったって言ってんだろ……」
「気にしないでください。こちらの双葉ちゃんにも会える機会ができました」
わたしがいつも通りに戻っているのを見てから、暁くんはモルガナの後部座席に乗り込み、それに坂本くんも続いた。喜多川くんと新島さんは既に乗り込んでいて、新島さんは運転席に座っているのがフロントガラス越しに見えた。高巻さんに促されるようにして、新島さんの隣に乗る。運転席と助手席は座席が繋がってはいたが、足元に機材があるため少し出っ張りがあり、足を座席に上げて乗ることにした。現実世界では色々違法になるが他に乗る場所はないし、わたしが一番小柄なのだから致し方ない。双葉ちゃんに警戒されていないため怪盗団は未だ制服のままだった。
「……どこに向かうのです?」
「向こうに、建物が見えたの……、多分……ピラミッドね」
砂漠の墓、か。新島さんの推測は当たっているだろう。それにしても、この状況は、どうにかならないのだろうか。
「……冷房、ガンガン効かせるんじゃ……、なかったのかよ……」
「全然涼しくないな……」
後部座席から坂本くんと喜多川くんの絞り出すような声が聞こえる。車内は蒸し風呂状態だ。モルガナは頑張ってくれているが、それでも灼熱の太陽には勝てなかった。背中が張り付くのを嫌がって、前に座る二人はダッシュボードとハンドルに両腕を乗せてぐったりしている。わたしは目を閉じて横向きに座席に頭を預けていた。駅から走ったときなど、比較にならないくらいの不快な汗が滲む。耐えきれずに高巻さんが皆が我慢していた単語を発する。
「暑い……」
「言わないで……窓開けて、五十度の熱風に当たるよりマシ……」
はあ、と高巻さんはため息をつくと、座席がぎしっと音を立てる。きっと彼女が座席にもたれかかったせいだろう。小刻みに動いている気配がしていたが、それが止まったのと同時に何かに気づいたのか変な声を出した。頭上で複数人の息遣いが聞こえる。なんだろう、顔を上げようとしたとき。
「何見てんのよっ――くらえ!!」
「きゃっ!?」
「くっ!!」「いってええ!!」
背もたれと一緒にわたしも前のめりに倒れ込んだ。
「ああ!! ごめん、瀬那、大丈夫!?」
どうやら、高巻さんが背もたれを倒すレバーを引いたらしい。どこもぶつけたりはしなかったが、目を閉じていて予想できなかった行動に驚いていた。後部座席の三人は背もたれに押され倒されたようだ。どこかしら打ち付けて痛めたらしく、各々耐えている。大丈夫、と声を掛けて体を少し起こすと、目の前で額を押さえる暁くんと目が合った。
「……大丈夫、です?」
その視線がゆっくりと下がっていく。
「白……、いや、薄桜色だ」
眉根を寄せて喜多川くんが頷きながら言った。その視線はやはりわたしの顔より下。何の話をしているのか。薄桜、色……ピンク? ワンピースは薄い青なの、に……。はっ、とその意味に気がついてすぐに姿勢を正した。ピンクと聞いて思い浮かんだのは、身に着けている下着の色。倒れ込んだ態勢のせいで、襟元が広がり見えてしまっていたようだ。
「見苦しい、ものを……」
「何を言っている、眼福の極みだ」
「……サイッテー」
高巻さんは倒した背もたれを元に戻しながら喜多川くんに吐き捨てた。新島さんは呆れと暑さで声も出ないといったようだった。そうは言われても、気恥ずかしさは消えずに前を向き膝を抱えて座り直す。
「お前、何その手の動き」
「そういえば、あの時……着けてなかったな、と」
「どの時だよ、なんの話だよ……」
それは意図せずに暁くんの部屋に泊まった日の話だと、理解できるのは当事者であるわたしと彼だけだ。確かに濡れてしまった下着を風呂上がりに着けたくなくて、あの夜、上だけは暁くんから借りた服だけを着ていた。それを今ここで思い出さなくてもいいのに。後ろを向けなくて、坂本くんが言う手の動きの謎は一生解けることはないだろう。
(2019/3/10)
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