43


倒れるように眠りに落ちて、翌日。わたしは佐倉家の一室で目が覚めた。双葉ちゃんのことを思い出し、部屋を訪れると彼女もまた眠っていた。その物音でわたしが起きたことに気づいた惣治郎さんが顔を除かせ説明してくれたので、パレスから戻ってきた後に何があったのか、理解した。パレスの中だけでなく現実世界で、しかも惣治郎さんにまで迷惑をかけてしまった。深々と頭を下げたが、次の言葉で上げられなくなる。

「運んだのは暁だ、礼はアイツに言いな」

穴があったら入りたい、とはこういうことなのだろうか。以前のときと違って意識がなかった分更に重かっただろう……。双葉ちゃんを一人で行かせるよりもいいと思ったが、こんなことになるのなら言われた通りに待っていた方がよかったのかもしれない。終わってしまったことを言っても仕方がない。惣治郎さんに話を聞いたと、暁くんと顔を合わせた際に謝罪した。

「気にしないで」

微笑んで一言、それで終わり。違和感があった。妙な隔たり。それに何かを思うのは筋違いだ。だって、最初から壁を作っているのはわたしの方。仮面を付けて演じているのも、『わたし』が暴かれるのを怯えているのも、全てわたしの方。
蒸し返すのは止めて、いつも通りに振る舞うことにした。こういうのは得意だ。そのはずなのに、ちっとも上手く笑えている気がしなかった。




Xデーまであと数日。双葉ちゃんは体力回復のため、未だに眠りから覚めない。ペルソナの覚醒に随分と消耗してしまったらしい。世間の怪盗団への当たりも厳しくなる中、今からメジエドへの対抗策を見つけることは難しい事、そして、双葉ちゃんが約束を守ってくれると信じ、彼女を待つと判断した。
心配ではあるが日常は続いていく。夏休みのため多めのアルバイトと、ルブランの手伝いという日々を過ごしていたある日、喜多川くんから時間を作ってくれないか、とメッセージが送られてきた。気分転換にちょうどいいかもしれない。渋谷駅で待ち合せをして、着いたのは緑溢れる憩いの場、井の頭公園だ。喧騒から離れたベンチで隣合って座る喜多川くんは何故だか沈んでいた。悩みがあるのなら、聞くだけしかできないわたしなんかよりももっと適役がいるだろうに。なかなか話出さないので、適当な話題を振ってみることにした。

「そういえば、今度の公募展の作品は決まったのですか?」

「……いや」

「前に言っていた描きたいものっていうのは、だめなのです?」

「そのことなんだが……」

確かピラミッドでの会話だったはずだ。あの時は生き生きしていたのに、この短い期間で彼に何があったのだろうか。俯いて会話が続かないため心配になって覗き込んだ瞬間、喜多川くんは勢いよく上げた顔を寄せ、わたしの手を自身の両手で握りしめた。

「頼む、モデルになってくれ!」

「……は、……え?」

「記憶の中の瀬那を描いてみても、どうにも纏まらないんだ。やはり実物を見て描かないと意味がない! 君を描けば何のために絵を描くのか、分かるかもしれない!」

「ちょ、ちょっと、待って、近いです!」

「マスターの家ではもっと密着していたじゃないか」

「そう、じゃなくて、顔が……」

「だめか!? 瀬那が俺の運命を握っているんだ! 断られたら、もう一生絵が描けないかもしれない!」

「わか、わかりましたっ」

鼻先が触れそうなくらい言い寄られた上、あの喜多川くんにそうまで言われてしまっては頷くしかない。了承を確認するとやっとわたしの手を放してくれた。持ってきた荷物からスケッチブックをいそいそと取出し、絵を描く準備を始める。それにしても、わたしをモデルになんて……。

「あの――」

「喋らないで、じっとしていてくれないか」

「はい……」

聞きたい事はあったが、勢いに押されたとしても引き受けた以上、彼の指示に大人しく従う。こんな風にじっくりと観察されることなんてない。細部まで見られているかと思うと、羞恥心が湧いてくる。向き合っていないだけまだいい方だ。喜多川くんはしばらく無言で筆を走らせていたが、一つため息をついて腕を下ろした。やはりわたしではだめなのだ。運命なんていう大それたものを握っているはずがない。

「こんなモデルでは納得のいく絵は描けないでしょう?」

「そんな訳あるか!」

「でも手が……」

「休憩だ、瀬那も疲れただろう」

それならば何か飲み物でもと思い、近くの自動販売機でお茶を購入して一つを喜多川くんへ渡した。喉を潤したことで話しやすくなったのか、握りしめたペットボトルを見つめてぽつぽつと打ち明ける。

「……忘れられないんだ。あのあばら家で過ごしたこと……、あの男を、師匠として……沢山の絵を描いてきたことを」

わたしが誘われた理由がわかった。わたしたちは境遇が似ているため、幾分か話しやすかったのだろう。

「あの頃は、『描きたいから』……ただそれだけだった。だが、俺の目に映っていたのは、上辺だけの張りぼての世界に過ぎなかった。班目と決別し、真実が見えるようになったと思っていたのに……、俺は今も、あの男に支配されたままだ」

「何が、あったのです?」

「欲にまみれた、絵しか……描けないんだ」

握りしめたままのペットボトルが悲鳴を上げた。

「評価が欲しい、他人を見返したい。才能を認められるためなら、なりふり構わない……、俺も所詮、班目と同じだ」

「それのどこがいけないのです? 欲がない人間なんていません。その中に何を見るか、です」

喜多川くんはやっと顔を上げた。すぐさま否定したわたしを不安気に見つめている。
他人を顧みず私利私欲なのか。それとも、己が認められるために努力をするのか。それは欲でも大きな違いだ。喜多川くんの欲は人間らしいもので、羨ましくもある。

「瀬那は……班目が、どうして俺を引き取って育てたのだと思う?」

「それは、本人にしかわかりません……」

「そうだな……。もしかしたら、班目にもわからないかもしれない。俺は、あの男を、憎みきれない……」

心は不確かなものだ。白黒つけられたら、悩みもなくて楽なのかもしれない。でもそれが人間らしさともいう。人形にはない、感情。

「それで、いいと思います。周りに合わせて、無理に憎む必要なんてありません。わたしたちは世間で知られている班目しか知らないけれど、喜多川くんには喜多川くんにしか知らない班目さんがいるはずです。それが嫌でないのなら……大切に、していけばいいのではないでしょうか」

わたしと彼の決定的な違いだった。大切にされていた思い出が彼にはある。わたしには無い。それでもあの人に感謝していることには変わりない。生きていくにはお金がかかる、全て生きるための代償なのだ。

「喜多川くんに残っている思い出は、無理に消す必要はないと思います。それも、きっと今の喜多川くんを形作っているものですから」

「俺を……形作るもの……」

「大切なものがあるから、喜多川くんの見る景色は素敵なんです」

「そう思うか?」

「はい」

緊張感が解れたのか、喜多川くんはベンチの背もたれによしかかり、片手で顔を覆って笑い始める。

「最初の時より、綺麗に笑うようになったな……」

自覚はないが、前に暁くんにも同じことを言われた。不自然なく笑えるようになったのは有難いはずなのに、何故か不安が付きまとう。

「また、モデルを頼んでもいいだろうか」

「わたしよりも高巻さんの方がいいですよ」

「瀬那には儚さ故の美しさを感じる。それを描きたいんだ。……その中に希望を、君が感じられるような……そんな絵を」

何を、言っているのか。頭が理解できない。静かに、だけれども瞳の奥に確かな熱を感じた。

「俺は……、瀬那を描きたい。それが今の俺の欲だ」

まるで愛の告白だ。いつも冗談みたいなことも本気で口にしてしまうのだから、今回もそうなのだろう。しかし、真剣な眼差しで見つめられたうえに、わたしのため、と言ってくれる頼みを断るなんて出来るはずがない。

「美しさなんて、そんなものありませんが……わたしで、よければ」
(2019/4/21)

prev / back / next