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昨日は双葉ちゃんが起きたために丸一日潰れてしまった。アルバイトが休みだったのでルブランを手伝おうと思っていたのだ。予定が変わったことは特に問題ではなかったけれど、暁くんとの関係がもっと拗れてしまった気がする。自分の責任だというのに、ルブランへの足取りは重かった。昨日の今日で会いにくかったが惣治郎さんに変に思われてしまうのは嫌だった。午後からのアルバイトまで、短い時間だが顔だけでも出しておこう。
開店前に訪れると、惣治郎さんが穏やかに迎え入れてくれた。幸い暁くんはまだ寝ているらしい。起こそうかと問われたが、丁重にお断りしておいた。
テレビではメジエドと怪盗団のニュースが繰り返し流れている。これが双葉ちゃんなりの、程ほどの成果だった。流石本物のメジエドだ。そんな中、コーヒーカップを磨いていると来店を告げるドアベルが鳴った。顔をあげると見知った怪盗団の皆だった。
「お、瀬那だ」
「瀬那! よかった、元気そうで……」
坂本くんの後ろから高巻さんが飛び出し抱き締められた。背の低いわたしはすっぽり胸に収まる。そういえば、パレスのあとに眠ってしまってから、実際会うのは喜多川くん以外今日が初めてだ。心配、かけてしまった……。
「杏、そんなに力入れたら、瀬那、息できないんじゃないかしら」
「あっ、ゴメン」
「だ、大丈夫です、息できてます」
「とりあえず座ったらどうだ。おーい。友達来てんぞ。サッサと降りてこい」
朝から賑やかなことに加えて、彼らの目的であろう人物が未だ降りてこない状況に困り、手近なボックス席へ誘導したあと二階へと上がっていった。
「ほら、杏、離してやれって」
「えー、瀬那ってば、ふかふかでいい匂いなんだもん」
再び優しく抱きしめられて、身動きが取れなくなる。わたしよりも高巻さんの方がいい匂いだと思う。彼女の感想はまるで布団を指すようで理解できないが、悪い気はしない。満足したのか、高巻さんはわたしを解放して、ボックス席に腰を下ろした。
「いいよなあ。俺もふかふか味わいてえ」
まだ立ったままの坂本くんがため息交じりにぽつりと零す。その言葉が耳に入った高巻さんと新島さんが、嫌悪の視線を向けていた。
「……変態」
「いやいや、違うって、真! 羨ましいなーって思っただけだって! 思うだけならいいだろ、な、祐介?」
「妄想は自由だな」
「祐介に同意を求めるのは間違ってると思う」
「杏の言う通りだわ……」
がっくりと肩を落とす姿を見ていると、だんだんと気の毒になってきた。すごすごと席に向かう坂本くんを目の前にして、わたしは控えめに両手を広げてみせる。
「へ……、マジで?」
「高巻さんの感想とは違うと思いますけど……」
「だめだよ、瀬那。竜司にそんなことさせたら、何されるかわかんないよ?」
「何……? 高巻さんと同じことするんですよね」
「本人がいいならいいけど……嫌がることしたら、殴るわよ」
拳をならして凄む新島さんの向かいの席で、喜多川くんが恨めし気な目でこちらを見ていた。坂本くんは力いっぱい否定する。
「しねえって、大丈夫だって」
この身なんかで喜んでもらえるのなら、抱きしめるのなんて造作もない。あの安心感はわたしでも誰かへ与えることができるのものなのだろうか。そういえば不可抗力とは言え、以前暁くんに抱きしめられたことがあった。高巻さんとは全然違う、感覚、だった気がする。一瞬であまりよく覚えてはいない、けれど。
「えーっと……んじゃあ……」
「はい、どうぞ」
わたしに手を伸ばし徐々に距離を詰められ、坂本くんの妙な緊張感が伝染してくる。触れられる直前に、不意に後ろへ引かれ、何かに背中をぶつけた。遠くなった坂本くんの顔が引きつっている。前にも見た光景、ということはぶつかったものは。
「おまたせ」
「おお、おはよ……、暁」
坂本くんが誤魔化すような乾いた笑い声を上げ、暁くんはそれに軽く答える。その間でわたしはまだ身動き出来ずにいた。腰には坂本くんではなく、暁くんの手が回され、接触している背から彼の少し早い鼓動がわたしに伝わる。ゆっくりと顔だけ振り向くと視線が交わった。支えている大きな手の感覚、高巻さんとは全然違う。湧いてくるのは安心感ではなかった。顔が熱い。
「起きんのが遅かったのに、急に焦って、何だってんだ?」
二階から惣治郎さんとモルガナが下りてきた。瞬時に暁くんがわたしから離れる。
「いえ、別に……」
「もうちょっとだったのに……いやいや、冗談だって」
残念そうに自分の手を見下ろしているのを暁くんに真顔で見られていたことに気づいた坂本くんは、急いで喜多川くんの隣に座った。その様子に惣治郎さんが眉根を寄せて、カウンターの中へと戻っていく。
「喧嘩すんなら外でやれよ。ったく、夏休みだからって寝すぎだ」
眼鏡のせいで暁くんの表情がよく見えない上、顔を真っ直ぐ見ることができない。しかし、誤解はきちんと解かなければ。
「言い出したのは、わたしです。坂本くんは――」
「うん、まあわかってたけど」
それならばどうして、怒っているらしいのに責めないのだろう。今もまだわたしと微妙な距離を保ったまま、隣に位置取っているのだろう。出会ったときのように素直に問えればいいのに。
付いたままだったテレビからニュースが流れている。それが、今日は何度も聞いた内容に移った。
『……本日未明、ハッカー集団『メジエド』が開設するHPが、改ざんを受けているのが発見されました。トップページには怪盗団のものと思われるマークが提示され、『メジエド』のメンバーと見られる日本人男性の個人情報が、不正に公開された模様です』
「またこの話題か」
惣治郎さんはもう聞き飽きたのだろう。わたしがルブランに着いてからも何度もやっているのだから。
『なお、『メジエド』が予告していた犯行ですが、今現在までに行われたとの情報はありません』
「朝からずっとメジエドばっか」
高巻さんの声は嬉しそうだ。間接的とは言え正体不明で散々言いたいことを言ってきたメジエドを退治できたのだ。そう思っているのは彼女だけではない。
「揃い揃ってニヤニヤしやがって……」
「気のせいです」
事実であるせいか、暁くんの誤魔化し方もなかなかに強引だ。意図的なのかわからないが、坂本くんの大きな声が店内に響き、話題が代わる。
「つか気づけば、夏休み終わっちまうよ!」
「どっか行きたいけど、双葉ちゃんを放っては行けないよね」
「杏の言うとおりね。気になることもあるし。例の『研究』とか……」
ドアベルが鳴る。いらっしゃいませ、と招く前に、その女の子はスタスタと店内を進んできた。大きな丸い黒縁眼鏡、明るい髪色。装いも黒のタンクトップの上に白のTシャツと軽装だ。今回は普通の睡眠時間で事足りたらしい。娘の姿を見て、惣治郎さんの顔が綻ぶ。
「おっ! 今起きたのか?」
双葉ちゃんが軽く頷く。それを見て新島さんが優しく声と掛けた。
「おはよう」
「……」
「……双葉ちゃん?」
彼女は返事をせずに通り過ぎ、隣り合うわたしと暁くんの腕を引き隙間を埋めて、新島さんからの視線を遮る。丁度良く壁にされてしまった。
「警戒されているようだな……」
「なんつーか、そうしてっと三人きょうだいみてえ」
「マジか!」
壁にしていたわたしたちの間から嬉しそうに顔を出す。双葉ちゃんは左手にわたしの、右手には暁くんの腕を組み満足気だが、暁くんは不服そうに見えた。当たり前だ。双葉ちゃんはともかく、素性の知れない迷惑ばかりかける人間なんて、嫌だろう。
「ねえ、上行かない? お客さん来たら、双葉がますます縮こまっちゃうわ」
好き嫌いで物事を判断したことはなかった。その言葉を意識し始めると、息が詰まる。
「双葉、こいつらと遊んでやってくれ。常連さん来る時間だし、店に居座られちゃ迷惑だ」
そうか、わたしは、暁くんに……。
「瀬那も行くよな?」
最初から何かを望んだことが間違いだった。思考が、一気に現実へと引き戻される。
『CMのあとは、各分野からゲストをお招きして詳しいお話を伺います。なんと、今国民から圧倒的な支持を受けている、あの衆院議員が――』
「ごめんなさい。わたし、午後からアルバイトに行かないといけないので……」
「えー!?」
双葉ちゃんの抗議がわたしの心を通り過ぎていく。何を言われても無理なのだ、予定があるから、このままここに居たくないから。引き止められていた手を放すよう惣治郎さんが宥めてくれたので、わたしもだめ押しを添えた。
「我儘言って、瀬那ちゃん困らせたらだめだ」
「また来ますから、ね」
「……わかった」
渋々、といったところだ。解放され、別れを告げて早々にルブランを出た。はっきりと聞きたくなかった。見たくなかった。今、あの家のことをルブランで思い出したくなかった。アルバイト先にテレビはない。スクランブル交差点は違うものを放送してくれていることを祈った。
(2019/5/6)
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