46
『選択肢がなかった』
何の話だろう。前後がないと全くわからない。そのあとの連続的に続くメッセージから簡潔に纏めると、引きこもっていた双葉ちゃんのために外と接する練習をし、怪盗団と親交を深め、最終的にぱーっと遊ぶ計画、らしい。
『瀬那も一緒に来てくれるよな?』
『というか、参加決定だから二十九日は空けといて』
文字を打つのが速すぎる。返信を考えているうちに、わたしの選択肢もなくなってしまった。そもそも最初から聞く気もなかったと思われる。
『どこに行くのです?』
太陽、傘、かき氷、波と絵文字が次々と送られてくる。何かの遊びだろうか。浮き輪、水着、そこで途切れた。連想されるものは。
『海?』
『大正解!』
『水着なんて持っていません』
『同じく。杏たちが選んでくれるらしい。瀬那にもすぐに連絡いくと思うぞ』
ああ、確かにこれは双葉ちゃんの言うとおりだ。
『な、選択肢ないやつだろ?』
『ですね』
それでも、わたしの頭の中はどうやって断るべきか、が占めていた。怪盗団のみんなが楽しむべきなのに、わたしが参加してしまっては暁くんは不快に思うだろう。双葉ちゃんには言いにくいので、高巻さんにそれとなく行けないと告げよう。
『瀬那は明日アルバイト?』
『休みです』
『じゃあ、明日、ルブランで待ってるから』
何がどうして、じゃあ、になるのか。読み逃したのかと思い、何度かスクロールしてみても文面が繋がらない。明日の予定は特にないので、行けないことはないが……。でも。
『昼のルブランでの手伝い特訓だ! 絶対瀬那も来て! サラダバー』
他人と接する練習なのか。確かにそこまで多く人の出入りがない慣れた場所であるルブランならば、特訓には適している。惣治郎さんと……暁くんも多分一緒だろう。彼と会いたくないから、海に行くのは断ろうと思っているのに、それ以前の問題だった。しかし、アルバイトが休みだと既に答えてしまっているので断る理由がない。諦めて、明日はルブランに行くことにしよう。双葉ちゃんのためなら暁くんも納得してくれるはず。その夜のうちに高巻さんから予定を聞くメッセージが届いた。双葉ちゃんの予想は侮れない。
かくして、惣治郎さんを説得するところから双葉ちゃんの特訓が始まった。
「双葉に店を手伝わせるだと? んなの、今までさせたことねえぞ。出来るのか?」
自身では道楽でやっている、と言ってはいるが、実際のところ本格的なコーヒーを提供している経営者だ。遊び気分では、と強めの口調になるのも当然だった。
「俺と瀬那がついてます」
名を呼ばれただけなのに、胸が苦しくなる。今はそんなこと、気にしている場合ではない。断られてしまえば、今日一日の特訓がなくなってしまう。手伝い程度の二人が何を言っているのか。そんな呆れたため息が惣治郎さんから聞こえる。
「猫の世話とは違うんだぞ」
「だ、大丈夫だ。高校一年、夏のバイトって思えば、も、問題なしっ!」
「初めて会う人と接する機会を設けたいんです。お皿洗いでもいいのでさせてください」
双葉ちゃんも無理やりではなく、自分の意志で頑張ろうとしている。そんな彼女の力になれるのなら、わたしは惣治郎さんに頭を下げた。
「まあ、そういうことなら……いいか、無理はすんなよ」
惣治郎さんは唐突な話に怒っていたわけではなく、心配していたようだ。今まで自室すら出てこなかった娘がいきなり接客したいと言い出したのだから、そう思うか。惣治郎さんは双葉ちゃんの保護者だった。
お皿洗いなら技術がなくても問題なく、対人の雰囲気から見ることができる。ルブランはチェーン店のように忙しくはないので、ゆっくりこなせばいい。ただカウンター内はあまり広くはない。双葉ちゃんへ教えるのは暁くんが引き受けてくれたので、わたしはそろそろ来店する常連客へ向けて、コーヒーの準備を始めた。
双葉ちゃんだけでなく、惣治郎さんも居てくれるおかげか、今までの自分を疑問に思うほど平常心でいられた。そう、これが『わたし』だ。落ち着く。香ばしいコーヒーに匂いを嗅いでいると、ガチャンと甲高い音がした。
「ひぃ!」
「おい、大丈夫か?」
双葉ちゃんが流し台で食器を落としてしまったらしい。どうやら、割れてはいなかったので惣治郎さんも安堵していた。怪我でもしたのでは、と心配して駆け寄る惣治郎さんと暁くん。温かい家庭、思いやる家族。これが多分普通なのだろう。佐倉家にわたしは相応しくない、わたしは異物だ。
カラン、とルブランの戸が鳴る。来客は常連の男性だった。片手を挙げる気軽な挨拶でボックス席へ向かっていく。
「いらっしゃいませ」
「マスター、いつものね。濃いめで頼むよ」
「はいよ」
暁くんに双葉ちゃんを託し、惣次郎さんはサイフォンに手をつけた。アドバイスでも耳打ちしたのか、イエッサー、と言いながら双葉ちゃんは泡の付いた手で暁くんへ敬礼している。その様子を見て男性客は笑っていた。
「その子、新しいバイトかい? 相変わらず隅に置けないな。瀬那ちゃんといい、何人目のボンドガールだい、マスター?」
「そんなんじゃないよ」
「いつも、熟したのばっかりなんだろ? たまには若いのも欲しくなるもんさ。ガテマラ・ピーベリーと同じだよ。酸味と甘味が新鮮なのさ」
流石、喫茶店に通い詰めているだけあって詳しい。上手く例えられたことに満足気だが、惣治郎さんは娘をそう見られて困っていた。水を運ぶついでに、適当にはぐらかそう。
「それはわたしの甘味だけでは足りないってことでしょうか?」
確かに双葉ちゃんの方が年下だが、男性客にとっては余り違いはない。首を傾げる様を見て、焦って声を上げた。
「いやいや、そんなことないよ! 瀬那ちゃんなら甘すぎるくらいかな……」
「ふふ、ありがとうございます」
そうだ、ちゃんと仮面はここにある。落としてなんかいなかった。では、どうして上手くできないときがあるのか。思い返せば、全て彼が関わっているときだ。その人物が気になりカウンターの奥を盗み見ると、何故か彼一人しかいなかった。皿を洗っていたはずの双葉ちゃんは?
「悪いけど、今日はブレンドだ。……おい、コーヒー早く持ってけ。ボーっとすんな、冷めちまうだろ」
惣治郎さんの指示通りに、ボックス席にコーヒーカップが置かれる。細い露わになった腕。その顔を見た男性客が驚愕の声を上げた。
「わ、わひぃっ!?」
「ふた……え?」
運んできたのは怪しげな面を被った双葉ちゃんだった。あの面は部屋で見たことがある。
「へい、コーヒーお待ち」
「おい双葉、それ被って人前に出るなって、何度も言ったろ」
何度も、ということは以前も惣治郎さんの前で被っていたのか。呆れて頭を抱えていた。面を被っていたとしても、他人の前に自分から出ることが出来たのだから特訓の成果だ。でも接客するのなら、直すところは直してもらわねば。
「あと、運ぶときは『お待たせしました』ですよ」
「へい、コーヒーお待たせした……ました」
「あ、ああ……どうも」
言い直してみても、どうにもぎこちない。その様が微笑ましくて、頑張っているのに申し訳ないが頬が緩んでしまう。話が出来るようになるのはまだまだ先の様だ。
「見たか、ちゃんと仕事できたぞ!」
「よく出来たな」
「お疲れさまでした」
「ふふん!」
暁くんとわたしに褒められ、双葉ちゃんは胸を張っていた。未だに面は被ったままだ。いつ取るんだろうか。惣治郎さんも最初は心配で反対していたが、嬉しそうだ。
「しかし、双葉が客前に出てくなんてな。面はアレだが、驚いたよ。人ってのは、変わるもんなんだな」
「そうじろう! もっとコーヒー持ってこうか?」
「その面は取れよ」
「ぐ、ぐぬぬ……わかった」
観念してゆっくりと面を取る。不服そうな顔をしていたが、ボックス席に面を置くと反転してわたしに抱きついた。
「来てくれて助かった、瀬那のおかげで頑張れた!」
「お役に立ててよかったです」
「せっかくの休みなのに、ありがとう」
目を合わせないように気を付けていたが、反射的に話している相手を見てしまった。間に居た双葉ちゃんがわたしの視界から消えたので真正面から暁くんを捉えてしまう。視線が泳いでいるのが自分でもわかる。ぐっと双葉ちゃんを抱きとめていた手に力がこもった。
「あ、いえ、いいんです。ルブランに来るのは仕事に入らないので……」
「……?」
双葉ちゃんの身体が離れていく。行動の不自然さに怪訝な顔でわたしを見ていた。
「コーヒーでも飲んでいくか?」
「すみません、わたし、今日はもう帰ります」
「じゃあ、私も一緒に帰る」
まだ二人は残ると思って惣治郎さんの誘いを断ったのに、特訓はこれで終わりらしい。
「おお、そうか。暁、送ってってやんな」
だめだ、どうやっても避けることができない。二人きりではない、ここは諦めて大人しく提案を受け入れることにしよう。
双葉ちゃんの提案で自宅の遠いわたしから送ってくれることになった。彼女と並んで他愛のない話をしながら歩く。暁くんはわたしたちの一歩後ろだ。
「瀬那の家、相変わらず何もないの?」
「双葉ちゃんが物多すぎるんです」
「失礼な、どれもお宝だぞ!」
最低限の必需品しかない部屋。初めて双葉ちゃんが来たとき、殺風景すぎる、と驚かれた。趣味はないし、娯楽もわからない。物を揃えても永住できるわけではないのだから、寝泊り出来れば十分だった。後ろ手に組んだままくるっと半回転し、だんまりだった暁くんへ双葉ちゃんが話題を振った。
「気になる? 暁の部屋と同じくらい何もないよ」
正直なところ、それ以下だ。わたしの部屋にはテレビも観葉植物も、誰かから貰った物を飾る棚なんてものもない。彼は軽く相槌をするだけで、これといった感想はなかった。
「送ってくれてありがとうございます」
「気にすんな―」
「あの……海のこと、ですけど」
本当は高巻さんに言おうと思っていたけれど、やはり双葉ちゃんに黙ったまま参加しないのは申し訳ない。原因も目の前にいるのだが、そこは言わなければいい。
「わたし、行けません」
「え!? なんで! バイト?」
前のめりで理由を聞かれる。アルバイトは幸か不幸か休みだ。首を振る。
「海、嫌いだった?」
行ったことがないからわからない。でもそれも今は違う。
「……暁、なんかした?」
俯いたまま口を開かないわたしを見て、双葉ちゃんは気づいたのかもしれない。それはとげとげしさを含んだ口調だった。顔を上げると、思い当たることがあるのか彼女の視線から逃れるように顔を逸らしていた。
「……ん、その……」
「――何も……何もありません。でも、海には行けませんから」
直接聞きたくなかった。それに、わたしが何かしてしまったのだ。責められるべきでもない。とにかくそれだけを伝えて、わたしは別れを告げ自宅へ速足で向かった。双葉ちゃんの戸惑いながらも引き止める声が聞こえる。ごめんなさい、自分でもどうしていいのか、わからないのだ。
「瀬那が行かないなら、私も行かないから!!」
(2019/5/11)
prev / back / next