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大勢で騒ぐ一日というものはあっという間だった。午前の早い時間にアルバイトを入れたため、少しだけ欠伸が出てしまう。そのままルブランにお邪魔すると、珍しく暁くんが出迎えてくれた。遅めの昼食に特性カレーとコーヒーを頂いて、カウンター席で一息ついていると、勢いよくドアベルが鳴る。誰だろう。そんなに急いで入ってくるだなんて、よっぽどお腹が空いているのだろうかと、自分の状況に重ねて考えてしまう。招き入れるべき客をカウンター越しに暁くんが静かに見据えているので、何事かと思った。
「明智くん?」
「ああ、よかった。瀬那さんに会えた」
こんにちは、と軽く会釈しながら、真っ直ぐわたしの隣に腰を下ろした。
「急に予定が空いたんだよ。連絡取れるかわからなかったから、一か八か、来てみたんだ」
ルブランで手伝いをしていると話していた。その口ぶりからすると、暁くんに会いに来たわけでも、コーヒーを飲みに来たわけでもなさそうだ。
「……もしかして、約束、覚えてない?」
了承したつもりはないのだが、断っていないのも事実で。忘れてもいなかったが、まさか本当に守るとは思わなかった。ただ驚いてると、声をあげて笑われてしまった。
「本気だよ。瀬那さんとのデートをその場のノリで誘うだけなんて、そんな勿体ないことしないよ」
「デートだなんて、大袈裟過ぎます」
どこかに行こう、それだけだったはずだ。暁くんと知り合ってから、明智くんの言葉選びには何か意図的なものを感じてしまう。綺麗な笑顔がわたしから惣治郎さんへと移った。面倒くさそうに新聞を読みながら明後日の方を向いている。
「彼女、少しお借りしてもいいですか?」
「瀬那ちゃんは手伝ってくれてるだけだからな、俺の許可なんか必要ねえよ」
「そうですか……こういうことは、君に聞いた方が良かったかな?」
どうして暁くんまで巻き込むのだ。ここではあまり揉め事を起こさないでもらいたいのに。絶えない笑顔を冷ややかな目線で見返していて、見ているこちらの方が気が気でない。
「……本人が良ければいいんじゃないか」
「確かに。それじゃあ、失礼します」
置いておいた鞄を手にする暇もなかった。わたしの手を引いて、来た時と同じように真っすぐ出口へ向かっていく。
「待って、明智くん! すみません、少し出かけてきます」
惣治郎さんが手を振ってくれたのが閉まる扉の隙間から見ることが出来た。
明智くんはどこに行く気なのだろう。手ぶらのため、わたしは提案も何もできない。ルブランを出たすぐの角で立ち止まって、周囲を見渡し始める。その視線の先に最近再開した映画館があった。
「明智くん、お財布持ってきますから、少し待ってて」
「僕が出すからいいよ。近場だけどあそこにしよう。ごめんね、夜には戻らなくちゃいけなくて」
「それなら家でゆっくり休んでいた方が……」
「僕、瀬那さんとデートするの結構楽しみにしてたんだけど、迷惑だった?」
生産性のないものよりも、身体を休め、仕事に備えた方がいいに決まっている。最近はよくテレビ番組にも出演しているのだ。加えて、捜査に学校となれば、いつ寝ているのかわからない。今はまだ夏休みだが、それももう終わってしまう。休めるうちに休むべきなのに。どうして、あんな約束を優先するのだ。悲し気な瞳で見つめられれば何も言えなくなりそうになるが、一つ言っておかなければ。
「迷惑……ではないですけど、暁くんのこと怒らせるの、やめてください」
「うーん、どちらかといえば牽制なんだけどな。彼、ずるいからさ」
どういう意味だろう。ずるい、だなんて思い当たることはない。彼は誰よりも真っすぐで、優しくて、困ったときは手を差し伸べてくれる人だ。あの背中に何度助けられたか。……顔が熱い、そういえば今が一番暑い時刻だ。自由が利く片手で頬を覆っていたのを、明智くんが覗き込んでいた。
「……あの、何でしょう……?」
「いいや、何でもない。楽しそうな映画、やってるといいね」
「そう、ですね」
越してきたときからこの映画館は建っていたが、何かの理由で休館していた。それが最近になってまた再開したのだ。入口には上映しているタイトルのポスターが貼られており、アクションとサスペンスの二種類しかなかった。小さい映画館なので、スクリーンも少ないのだろう。探偵と名乗る彼にとって面白いかわからないが、後者を観ることにした。それなりに埋まっている座席の中、隣あって座る。
恋人と親友を殺された主人公の女の子が犯人を見つけ出すという物語。別れたあとも仲の良かった元恋人が、主人公の父に唆されて殺人を犯していた。最後には主人公の父も殺されてしまう。元恋人は主人公のことを忘れられず、今の恋人を気に入らなかった父と利害が一致したというわけだ。
多分ありふれた内容なのだと思う。映画を観る機会がなかったわたしにとっては、推理場面での長回しや、犯人の狂気の演技など、常軌を逸したものがあって楽しんでしまった。
「結構真剣に観てたけど、面白かった?」
「はい、テレビとは音とかが全然違うんですね。吃驚しました」
設備の違いがこんなにも臨場感を表現できるとは。映画館に足しげく通う人たち理由がわかった。
「でも、明智くんはつまらなかったですよね……」
「そんなことないさ。推理の披露の仕方とか、勉強になったよ」
「わたしなんて、推理どころじゃなかったです」
物語を追うのに必死で、犯人が誰なのかなんて考える余裕はなかった。それを聞いて、明智くんはお腹を抱えて笑うのを堪えていた。よく笑う人だとは思っていたが、そんなに面白いことだっただろうか。一息つくと、いつもの笑顔で真正面からわたしを捉える。
「瀬那さんは冗談がうまいね、本当は犯人も、その後ろの陰謀にも気づいているだろう?」
「……まさか、そんなこと、ありません……よ」
映画の話をしていた、はずだ。それなのにこの緊張感はなんだろう。目を逸らしてしまうことに、ふつふつと恐怖心が湧く。目の前にいるのは、一体誰なのか。
「おっと、清掃が入るからそろそろ出ようか」
終演後も居座ってたわたしたちを、従業員が迷惑そうな顔で遠くから眺めていた。差し出された手を恐る恐る取り、映画館を後にする。この背中は学校内でみるものと一緒だというのに。
外に出ると陽はまだ落ちきっておらず、まだこの時間が続くことを意味していた。明智くんはわたしの手を放し、携帯で時間や連絡などがないか、確認をしているようだ。触れられていた部分を胸元に持って行きさすってみる。痛みはない、変色もしていない。彼がそんなことをするとは思えなかったが、あの人と重なった。視界がチカチカして、少しだけ息が苦しい。
「まだもう少し時間があるけど、どうしようか……、瀬那さん、大丈夫?」
「……はい」
「ルブランに戻ろう、あそこなら落ち着いて話もできるし」
この手はもう一度繋がれることはなく、ゆっくりと進む彼の背を後ろから追いかけた。
店内には暖かい照明灯されており、戸を開けると、思っていたよりも早い帰宅に驚かれてしまった。元々わたしが座っていた席に落ち着き、惣治郎さんがそれぞれにコーヒーと水を出してくれる。水で喉を潤し、先ほどの恐怖心を奥へと流し込む。隣で立ちのぼるコーヒーの香りを相まって、過ぎた思考も一緒に呑み込まれていった。
「やっぱり、ここのコーヒーは美味しいですね」
「そりゃどうも」
無愛想な返事だが、満更でもなさそうだ。それよりも、わたしたちが戻ってきてから一言も発しない暁くんを気に掛けているように見える。暫くは課題やテレビ取材、メジエドのことなど他愛のない話をした。捜査内容についてはやはり口を滑らせることはなく、一緒に観た映画の話も、もう触れることはない。
「そういえば、少し焼けたみたいだけど、どこか行ったの?」
気を付けてはいたが浜辺の日差しには勝てず、羽織もので隠せなかった腕が少しだけ赤くなってしまった。
「海に連れて行ってもらいました」
「来栖くんたちと?」
「はい」
「その様子だと楽しかったみだいだね」
恥ずかしながらその通りで首を縦に振るしかない。わたしとしては、海をこの目で実際に見れただけでもう十分すぎることだった。
「写真、撮ってないの?」
「あまり好きではないので……」
「そうなんだ。残念だなあ、水着見たかったのに」
「明智くんも同じこと言うんですね」
「へえ、誰とだろう?」
暁くんの名前を出す前に携帯が震えた。双葉ちゃんから画像が送られてきている。読込が終わったので、指で軽く触れて開いてみると、海に行った日の写真が一枚、届いていた。浮き輪に乗ったわたしと、視線を合わせて笑っている暁くんが綺麗に収まっている。こんなもの、一体いつ撮ったのか。
「……なんだ、ちゃんとあるじゃないか」
携帯を見つめたまま動かないわたしを不思議に思い、明智くんが顔を寄せて画面を覗き込んでいた。このタイミングで送ってくるということは、未だにここは盗聴されているということだ。双葉ちゃんはわかっていてこの写真を送ってきたのか。
「瀬那さんもこんな風に笑うことあるんだね、初めて知ったよ。……でも、僕が見たいのとは違ったみたい」
「……」
わたしも知らなかった。画面の中にははにかんでいる普通の女の子がいた。一緒に写っていた男の子は、目の前に座る二人に見上げられて困惑している。撮られていたことを暁くんも多分知らないのだろう。見られる前に携帯のライトを消して、画面を下にしてカウンターに置く。すると背後から名を呼ばれ、振り返ると白いジャケットと帽子を被った惣治郎さんが申し訳なさそうに立っていた。
「デート中にすまんが俺は用事があるんだ。店は閉めるが、好きなだけゆっくりしてきな」
デート、ではないのだが……、訂正する時間もなかった。戸の看板を『CLOSE』に反し出ていく背を見送っていると、明智くんも席を立った。
「ごめんね、僕も時間切れだ」
「外までご一緒します」
「うん、それじゃあご馳走様でした」
暁くんは軽い会釈だけで見送った。外は黄昏に染まっているのに、これから仕事だなんて、学生という本分を忘れてしまいそうだ。
「今日は楽しかったよ、付き合ってくれてありがとう」
「こちらこそ、わざわざ時間を作ってくださってありがとうございました」
「ねえ、瀬那さん……」
「はい?」
その先を待てども、言葉は続かない。明智くんの瞳が一度閉じられて、再び開けられたとき、悲しそうに見えた。逆光のせいかもしれない。何となく、言いたいことがわかってしまい、つい口に出た。
「また、どこか行きたいですね」
言われる側になると思っていなかったのか、言葉を失っていた。敏い彼は、きっとわたしの言葉も、ただ望まれたから紡がれたものだと気づいているだろう。
「……そうだね。冬が終わるまで、まだ時間はあるから」
苦笑しながら答えてくれた。見上げたままの姿勢でいると、距離を詰め両肩に手を添えられた。そのまま彼の顔がゆっくりと降りてくる。互いの頬に寄せるようにして、耳元で囁かれた。
「またね、瀬那さん」
「はい、また学校で」
満足そうにほほ笑み、明智くんは手を振って速足で駅に向かって行った。存外近くで聞いてしまった甘い声が耳に残ってしまい、むず痒くて掌で押さえる。やはり彼のすることはいまいちよくわからない。
見送っていた姿が見えなくなったので店内に戻ると、エプロン姿の暁くんがわたしが座っていた席で待っていた。
「すみません、片づけまでしてくださって」
「いや、好きでやってるから。それより、何してたの?」
「何……とは?」
「明智と」
「話をしていただけですけど……」
話をしている最中に暁くんは立ち上がり、手の届く範囲まで来ると身に着けている緑のエプロンの裾でわたしの頬を拭う。不機嫌そうなのに、手つきは優しい。
「あの、汚れていました?」
「……まあ、ちょっと……?」
「ありがとう、ございます?」
お互いに語尾が上がっていてよくわからない状況になったが、彼がこれで納得できるなら別に構わない。既視感があったけれど、思い出したくなかったので小さく首を振った。
「写真、俺も見たいんだけど」
「あ、えっと……お、送り方がわからないので」
自分でも苦しい言い訳だったと思う。その時、携帯のバイブレーションが聞こえた。わたしではない、とすれば。ポケットから暁くんが自身の携帯を取り出す。そうだった、送った張本人が聞いているのだった。多分、双葉ちゃんが送ってきたであろう写真を見て、画面とわたしを見比べている。無言の行為に羞恥心が湧く。
「……なん、ですか」
「いや、双葉に感謝だな」
手慣れた手つきで画面に触れ、先程までの不機嫌はどこへいったのか、余りにも無邪気に笑う。彼の中だけでも存在していてもいいだろうか。そんなことが許されるのなら、仮面も何も最初から必要ないのだけれど。わたしに送られてきた画像は、電子の海の底へと沈んでいった。
(2019/6/23)
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