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高層マンションが立ち並ぶ一角、今日ほど静かだと思った事はない。怯えてはいけない、堂々としていないと逆に怪しまれる。ただ自宅に帰るだけなのだから。とあるマンションの中に入り、オートロック解除のため渡されていたカードを翳すとエントランスへ続く扉が自動的に開いた。居ない間に交換されていなくてほっとする。相変わらず眩暈がする広さのエントランスを通り、エレベーターに乗り込み最上階のボタンを押した。到着を告げるベルが鳴り、制服のスカートを翻して降りると、目の前に久しぶりに見る自宅の玄関扉があった。
鍵を開け屋内へ足を踏み入れる。生活感のない家、埃もないし、余計な家具もない。黒や濃茶の落ち着いた色合いの室内に合わせたように、高価な装飾品が目に付くところに飾られている。予定通りあの人は地方へ出かけているようだが、それにしても人の気配がなさ過ぎる。秘書は連れ立ったとして、ハウスキーパーは家主がいなければ非番か。誰もいないに越したことはないが、念のため気を付けながら目的の部屋まで進んだ。
あの人の書斎に辿り着く。よく秘書や外部の人間が出入りしている部屋だ。わたしは無意味に近寄ることは許されない。ノブを回してみるが当然動かなかった。見たところモルガナに教えてもらった鍵の種類のようで、早速制服からキーピックを取り出し解錠にとりかかった。しばらくの格闘の末、以前にも聞いたことがある金属の音が聞こえた。ゆっくりとノブを回す。

「……開いた」

ひと息つくが、まだ何も手にしていない、始まったばかりだ。廊下を確認し、素早く書斎に身を忍ばせ、鍵をかける。この部屋も他の部屋と同じく落ち着いた色合いで統一され、棚や机は茶系、黒い革のソファはどこかのブランド品らしく高級感のあるものだった。手始めに机の上に置かれているパソコンを立ち上げる。これも当たり前だがロックがかかっていたため、双葉ちゃんから借りたUSBを挿すと、画面に読み取りを示す数字と横棒が表示された。

「凄い」

本当に何もしなくてもデータの抽出ができるだなんて、どうなっているのだろう。左から右へ進んでいくゲージを眺めている時間はなかった。この間に別の場所を探索するため見渡すと、綺麗に並べられたファイルキャビネットがあった。これにも鍵がついており、簡単に閲覧できないようになっている。どれもこれも怪しく見えるのは先入観だ。書斎の扉に比べて短時間で開け、とりあえず次々とファイルを手に取ってみる。中身は何でもない政策に関わることや領収、それに後援会の入会者一覧。指で追っていくと、その中に元婚約者と秀尽学園の校長、奥村邦和、他にも検事さんのリストに乗っていたと思われる人物の名前が載っている。思った通り、この家で聞いたことのあるものだった。不透明だが不審死には確かに繋がりはあった。他には新政党を立ち上げるための計画が書かれたものもあり、準備は既に終わっているようだった。

「未来連合?」

これのために金が必要だったのか。そして立ち上げに不祥事があってはならないと、校長は殺された? 考えるのは後にしよう、とにかく時間がおしい。別のキャビネットにも手を付けてファイルを漁ると、政治とは無関係にみえる事件の調書が出てきた。内容を見てみると、どうやら一年くらい前に受けた暴行事件ようだ。確か、夜に地方で部下の女性を庇って……殴られた…………。嫌な予感がした。当たらなければいい、そう思って、紙面を追っていた震える指先が被疑者の欄で止まった。

「……来栖……暁」

眩暈が、した。だって、彼は嫌がっている女性を助けようとし、それを妨げようとした相手がふらついて転倒したと言っていた。どちらが真実かなんて……そんなの……。警察も助けを求めた女性も言いなりになったのは、全てあの人が相手だったから。そうだ、暁くんに罪を着せたのは、わたしの。
カチャ、と誰かが鍵を開ける音が聞こえ、意識を引き戻した。急いでファイルを片づけパソコンへ駆け寄る。まだ読み取りは完了していなかったが奪われてしまっては意味がない。途中まででもデータが入っていることを祈り、USBを引き抜き制服のポケットにしまって机の影に隠れた。息を殺し、ばれていないという低い可能性に賭けてみるしかない。ゆっくりと誰かが足を踏み入れる気配がした。

「ダメだよ、勝手に父親の部屋に入るなんて」

心臓が止まりそうになった。この場にそぐわない、緊迫感のない妙に明るい聞き覚えのある声。どうしてここに、どうしてこの部屋に。

「かくれんぼはもうおしまいにしよう。大丈夫だよ、今日来ているのは僕だけだから」

何をもって大丈夫なのかわからない。しかし心のどこかでこうなることは予想していたのだと思う。意外にも声を聞いて落ち着きを取り戻していた。彼の言う通り、いつまでも隠れていてもしようがない。深呼吸をしてから、ゆっくりと部屋の入口を見据えるように立ち上がる。いつもの笑顔で、いつもと同じように、彼はそこに立っていた。

「どうして、ここにいるんですか、……明智くん」

「さあ、どうしてかな。君なら気づいてるでしょ?」

「あなたも……やっぱり他の人と同じ、だったんですね」

違和感はテレビに出始めてからだ。そんな人がわざわざ時間を割いてわたしに会いに来る理由はひとつしかない。最初からわたしが何者なのか気づいていたのだ。

「当たり前じゃないか。獅童さんの養女である以上の価値なんて、君にはないんだよ」

獅童正義の、衆議院議員で次期総理と言われている人間の養女、それがわたし。それだけがわたしの価値、生きる意味。ずっと隠している、本当の自分。唇を噛みしめて立ち尽くしているわたしを明智くんはあざ笑った。

「まさか、本当に気づいていなかったの?」

「……信じたかったんです。明智くんが居てくれたから、わたしは――」

「信じるって何を? 君は僕なんかよりも、あの男のところに足蹴く通っていたじゃないか。そんな女の言うことなんて何も聞きたくないよ」

「どうして暁くんが出てくるんです?!」

わたしと明智くんの話に、彼は関係ないはずだ。全く分からない、何を考えているのか、目的は何なのか。吐き捨てるように、もういいと彼は言い、手を差し伸べた。

「とりあえず、君の部屋に行こうか。見つけたら獅童さんにそうするようにいわれているから」

わたしの部屋の意味を、明智くんは知っているのだろうか。視界が明滅し、呼吸が乱れる。それでも養父の言いつけならば、拒否することは許されない。人形に、戻る日が来たのだ。相対していた距離を詰め、その手を取ると、明智くんは満足げに微笑んだ。
案内をせずとも真っ直ぐにわたしの部屋に辿り着いたのは、何度もこの家に足を運んだことへの証明だった。簡単に開いたドアの奥へ入るようにやんわりと促される。窓は布で仕切られ薄暗く、簡素なベッド、無造作に置かれたデスクチェアと備え付けられたクローゼットがあるだけだった。わたしが家を出たときと変わらない。足が動かない。

「ぁっ!?」

不意に背中を押され、ふらついた勢いのままベッドで身体を支えた。吃驚したが、これはある意味で幸運だった。ポケットに忍ばせていたUSBと未使用のキーピックをマットレスの間にねじ込む。この距離ならば、わたしの身体に隠れて見えないはずだ。

「これでゆっくり話が出来るね」

扉の閉じる音がする。ベッドを支えにして立ち上がると、彼は既に真後ろに立っていた。もうわたしの知っている明智くんではないのかもしれない。

「さて、少し調べさせてもらうよ。何か持ち出されて、怪盗団なんかに渡されちゃ困るから」

「怪盗団? 何のことでしょうか」

「君が教えてくれたんだよ。ルブランに越してきた彼がリーダー、その周りに集まった五人が今の怪盗団のメンバーだ」

黒い手袋をはめた右手がわたしの頬を柔らかに撫でる。教えるはずがない、覚えがない。どこでぼろを出したのか、必死に考えたがわからなかった。

「携帯で位置情報がわかるんだ。尾行したときに丁度向こうの世界に巻き込まれて……、あとはわかるでしょ」

今までずっと監視されていたのだ、不要品になったからと家から出してもらえたせいで気が緩んでいた。こんなことで暁くんたちの足を引っぱることになるなんて。

「怪盗団事件の関係者があんなに集まっていれば、何となく察しはついたけど」

手袋をしっかりはめ直し、再び身体を押された。薄いスプリングが音を立て、二人分の体重で沈む。こんな風に誰かに見下ろされるのはもう何度目だろうか。

「抵抗しないの?」

「……理由が、ありません」

「ふぅん……」

細く長い、綺麗な指が制服の上をなぞっていく。ブレザーの胸と腰、スカート、そしてボタンを外して内側、と全てのポケットを重点的に確認される。やはり先にUSBを隠しておいて正解だった。あるのは、書斎を開けたときの使用済みキーピックのみだ。黙々と行われるただの作業。甘い空気も恥じらいもない。あるのは緊張感と悲しみだけだ。

「どうして、明智くんが父に協力するんです……?」

「有名になりたいから、じゃおかしいかい?」

「そういうの、興味ないでしょう?」

「獅童さんの政策に共感したから、僕の頭脳を貸しただけさ」

的を得ない返事だった。同時に手を動かし、器用にベスト、ワイシャツのボタンすらも外され、少し埃っぽい淀んだ空気に素肌が晒された。背中とスカートの中も軽く手を滑らせて確認し、身体検査は終わった。

「本当に何の情報も盗み出してないなんて、本当に……馬鹿だな」

「――っ」

未だ腰に残った殴打痕に直接触れられ、背筋に悪寒が走った。これもこの部屋でついたものだったはずだ。いつだったかは、たくさんあり過ぎて忘れてしまった。

「いいかい、携帯は肌身離さず持ち運ぶこと。学校にも変わらずに行くこと。今日みたいにズル休みしちゃだめだよ。それ以外は今まで通りで構わないから」

「わたしが、今日のことを怪盗団に話すとは思わないのですか」

「君たちが追っている廃人化事件と獅童さんが関わっている証拠なんて何も出なかったのに話すなんて、流石にそこまで浅はかではないと思ってたけど」

「どうして事件のことまで」

「冴さんのパソコンのデータを抜くとしたら、それしかないからね」

それにしてもどうやって抜いたのやら、と首を傾げる。行動を読まれていたのか。検事さんのデータをわたしたちが盗むことを見越していたとすれば、ここに来ることも彼の予測通りだったのだ。

「もし話したとしたら獅童さんに何をされるか……わかってるよね?」

身体が反射的に萎縮する。自分に不利な状況を公表すれば今までにない躾が待っているのは想像に容易い。治らない傷がこれ以上増えていけば、本当にただの人形になれるかもしれない。それに、と明智くんは人差し指をわたしの唇に押しあてた。口を閉ざすことを暗に指示するように。

「君が隠したがってた獅童さんの養女だってことがばれてしまうよ? 罪を着せたのが自分の父親だって知った上で近づいて、さらに怪盗団の情報まで流していたなんて知られたら……これは完全に裏切り行為だよね」

「……それは」

あんなに優しくしてくれた彼を苦しめていたのは、わたしだった。わたしが彼を普通の生活から引き離し、新たに手に入れた居場所も危険にさらしたのだ。人形は人形らしく何もせずにいればよかった。そうすれば、拒絶されるされるかもしれない恐怖心も味わうことはなかったのに。
明智くんは自分で寛げさせたワイシャツを簡単に合わせ下着を隠すと、わたしから身体を離した。ベッドに座り直し、制服を整える。指が震えてボタンが上手くかけられない。きちんと着るまで彼は扉の前で待っていた。監視を兼ねて共に家を出るためだろう。

「獅童さんに報告はするけど、何もしないように僕から言っておくから。暫くは大人しくしていることだね」

それに静かに頷いた。下手に動いて、今よりも暁くんたちの邪魔になりたくはない。何より、養父には逆らえない。彼の言う通り大人しくしているべきだ。

「わかりました」

「いい子だ、瀬那さん」

やんわりと頭を撫でられ、全身の肌が粟立った。まただ。どうして明智くんに触れらて、養父を思い出すのだろう。奥歯を噛みしめて耐えながら考えていた。
(2019/8/14)

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