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あのあと、養父から連絡があるかもしれないと気を張っていたが、本当に何もなかった。明智くんのおかげなのか、わたしに知られても大した弊害にはならないのか。新政党で総理になることが目的なのはわかるが、それ以外の何かがありそうな気もした。
「おはよう」
「……おはようございます」
自宅から四軒茶屋までの道のり、ルブランへと続く曲がり角で暁くんと待ち合せて学校へ向かう。秋から始まった日常を呪った。彼の視線から逃れたくなるのは、昨日の出来事を思い出してしまうから。
「昨日からオクムラフーズの窓ガラスが割れたとか、銅像が壊されたとかニュースでやってるのを見たんだけど、モルガナの仕業じゃないかって双葉が」
横になっても寝付けなかった。諦めて起きていても何も手に付かず、気がつけば朝日が昇っていた。
「それで、放課後に奥村パレスに行ってみることになった」
ピッという音と共に改札の扉がわたしを招き入れる。ホームまでの道のりを人波に逆らわずに歩いていると、急に現れた壁にぶつかった。
「痛……」
「え、ごめん」
鼻を押さえているわたしを心配そうに振り返る暁くんが目の前にいた。どうやら電車の待機列で止まった彼の背中にぶつかってしまったらしい。
「大丈夫?」
「すみません、ちょっとぼーっとしてました」
「いや、それならいいけど……」
腑に落ちないようだったが、ベルが鳴り響きはぐれないよう電車に乗り込むことへ移行した。大体ドア付近に位置取っているが、それでも揺れて押されて窮屈である。人混みと空気の淀みに頭がくらくらする。寝不足のせいだろうか。ドアにもたれかかるようにして伏せていたわたしに気づいたのか、さりげなく他の乗客から庇うように間に入ってくれた。こんなに優しい人を……今は止めよう、悪化してしまいそうだ。いつもより近く感じるのは混んでいるからではなく、彼が抱えている鞄に黒猫が居ないから。やはりあの中に勉強道具は入っていないのかもしれない。口数少なく渋谷駅に着いてしまった。
「本当に大丈夫?」
乗り換えのホームで顔を覗き込まれる。そんなに酷く見えるのだろうか。微笑みを作り、先ほどの話題に戻した。
「大丈夫ですよ。モルガナのことも、きっと心配ないと思います。もしかしたら、新しい仲間を見つけてきてくれるかもしれません」
猫らしく世渡り上手なのだ。本当に奥村のパレスに行っているとすれば、おそらく一人ではないと思われる。モルガナが冷静であればイセカイに単独で挑むとは考えにくい。
「きっと無事です。だから、暁くんたちも気をつけてくださいね」
「そうだね……ありがとう」
別方向の電車に乗った暁くんを見送り、言いつけ通りにわたしは学校へ向かう。楽しそうに談笑しながら登校する生徒たちは何一つ昨日とは変わらないのが不思議なくらい、違和感があった。挨拶をしながら教室に入ってすぐの席の女生徒と視線が合う。
「おはようございます」
「おはよう。御守さんが休むなんて珍しいね、もう大丈夫なの?」
「一日寝たら治りました」
「受験もあるし、長引かなくてよかったね」
当たり障りない短い会話をし、それに応えて終わった。窓際の後ろの席に座ると自分の異物感がより一層際立ってくる。この心境の変化を作った人物は、まだ不在だ。捜査か取材で来ないなら助かる。いつも通りに対応すればいいのはわかるが、実行できるかが不安だった。
チャイムが鳴り、彼の席は空いたままでも授業が進んでいくが、全く集中できない。教師が眠りを誘ってくるのは寝不足のせいであって、自業自得なのだからと二限耐え、休憩時間に机に突っ伏した。頭が痛みだしたのも、目を閉じていれば少しはマシになる。次の授業までこのままでいるつもりだったのに、頭上から柔らかな声が降ってきた。
「病み上がりなんだから、無理しちゃだめだよ」
反射的に身体が強張る。悟られてはいけないと一呼吸置いて、ゆっくりと顔を上げた。
「おはようございます」
「おはよう、にしてはちょっと遅いかな? 瀬那さん」
想像していた通り、変わらない笑顔でわたしを見下ろしている明智くんがいた。外部への思考を遮断していたせいで彼が来たことに気づかなかった。女生徒の声が先ほどよりも浮ついているのに。
「それじゃ、行こうか」
教室に来て早々、何だと言うのだ。わたしの腕を掴み立たせると、廊下へ出て行こうとする。明智くんは授業を受けに来たのではないのか。
「待ってください、どこに……」
「保健室だよ。そんな顔色でまだ授業受け続ける気?」
暁くんにも気づかれてしまっていたのだから、本当に酷いのかもしれない。廊下から遠巻きに明智くんを見ていた女生徒たちが、わたしの手を引く彼の姿を見て騒めきはじめる。こんな注目を集めることをして、どうするつもりなのだろう。良くも悪くも噂はすぐに広まってしまう。何の考えもなしに行動する人物には思えないけれど、周囲を気にも留めずに進んでいく背をまだ信じたいと思うなんて、彼の言う通り馬鹿なのだ。
保健室までついてきた女生徒をその戸で追い出すようにして明智くんは後ろ手で閉める。保険医が驚いていたが、わたしたちの姿を見て何かに納得したらしい。
「人気者は大変ね、どうしたのかしら」
「彼女、体調が悪いみたいなので休ませてください」
「あら、それじゃあ奥のベッド使ってちょうだい」
謝辞を述べつつも、明智くんに連れられベッドに腰掛けた。彼はカーテンを閉めたが内側に居たまま出ては行かないので、諦めてブレザーを脱ぎ横になった。それだけで無意識に瞼が落ちていくが、明智くんが居る間はと抗っていると、彼の指がわたしの頬を優しく撫でる。
「授業終わったら迎えに来るから、少し眠ること」
「……はい」
休憩が終わるチャイムが鳴り、教室に戻りなさい、と保険医が声を掛ける。返事をした明智くんがカーテンの向こうへ消えたのを確認したことでやっと緊張が解けた。
いつの間にか眠っていたわたしは、本当に迎えに来た明智くんに起こされて目が覚めた。夕方まで寝てしまったので、体調も良くなり、明智くんはわたしを連れだって何処かへ向かった。目的地を聞いても答えてはくれない。なので道中会話はなく、ビルが建ち並ぶ駅で降ろされた。
「ここ……オクムラフーズの本社がある……」
「そう、今日なら怪盗団に会えるかなって思ってさ」
「盗聴するアプリも入っているんです?」
「入れられたらよかったんだけど、残念ながら位置情報だけだよ」
聞かれていないことに安堵したが、わたしの発言で今日ここに怪盗団が来るとばらしてしまった。明智くんもニュースで彼らが行動を始めていると疑っていたに違いない。鉢合わせさえしなければ、と願ったが、そう事は上手く運ばなかった。
話しかけても足を止めることはせず、真っすぐに辿り着いたオクムラフーズ本社前には、予想通りに暁くんたちが勢ぞろいしていた。その前にある案内看板の影に二人で隠れ、動向を見守る。明智くんが彼らに注視している間に、携帯で連絡を取ろうとしたが見つからなかった。
「探し物はこれかな」
明智くんの内ポケットから出されたのは、わたしの携帯だった。保健室で寝ている隙に取られたのか。
「約束したよね、大人しくしているって」
「……」
携帯は仕舞われ、明智くんは自分の携帯のレンズを怪盗団へ向ける。そのことに気づくはずもなく、彼らはイセカイナビを起動し、パレスへと姿を消した。満足げに画像を確認すると、一つ頷き携帯をしまう。
「これで交渉材料が増えた」
「……わたしがここに居る必要はありますか?」
「君も共犯者だって、自覚できるだろう?」
裏切者って言った方が正しいかな、台詞とは真逆に人の良さそうな笑顔で容赦なく責めてくる。反論するすべもなく、唇を噛みしめ耐えるしかなかった。彼の言っていることは正しい、わたしは被害者ではない。
目的は果たされたと思ったが、解放されることなく何故かとあるマンションの一室でお茶を飲んでいた。それもふわふわのパウンドケーキというお菓子付きで。出されたものに罪はない。高校生としては贅沢な二部屋、オートロック付きで不必要な家具はなく、雑多に捜査資料や参考書などが置かれている。汚くはないが、ここは一時の住処という印象を受けた。隣に座ってわたしが食べているのを眺めている家主へ疑問を投げ掛ける。
「……今日は仕事ないんです?」
「もうしばらくしたら行くよ」
しばらく、とは何分くらいなのだろう。それまでずっとこうやって食べているところを観察され続けるのだろうか。満面の笑みをするほど楽しいことではないのに、彼の考えは相変わらずわからないし、昨日の緊迫感は嘘のようだ。状況に耐えられなくなり、フォークを置いて明智くんと向き合う。
「奥村社長は本当に、噂されているとおり、クロなんです?」
「そうだね、社員は使い捨ての部品くらいにしか思ってないよ。利益重視のワンマン経営者だ」
改心させる相手として選んだのは間違いなさそうだ。さすがに検事さんの持っていたデータの改竄まではしていないだろう。あの人は多分、養父側ではない。怪盗団に情報を与えて何を狙っているのかが読めずにいた。改心を成功させればまた人気が高まり、司法よりもそちらを頼り、信じるようになる。政治家としても由々しき事態だ。それを阻止するために、どう動くのか。どうせ訊いても答えてくれるはずもない。
「一年生のとき、文化祭で展示物とか作りましたよね」
「今度は思い出話? まあ、時間まで付き合ってあげてもいいけど」
そうだな、と顎に指を当てて思い出していた。
「資料集めに二人で図書館に行ったんだっけ」
「二年のときの球技大会は、明智くんを見にたくさんの人が溢れてました」
「瀬那さんが応援してくれてたのは覚えてるよ。準優勝で残念だったね」
意外にスポーツも得意だったことが一年のときに知られ、二年になって他学年の生徒の人気を確約させたのだ。
「……最初に話したときのこと、覚えてますか」
柔らかくなっていた表情が強張る。彼も、忘れてなんかいないはずだ。
「二年前のあの日、教室に戻ってきたのは……偶然だったんですよね」
高校一年目の夏休みが始まる頃、みんな帰ってしまった教室で二人で初めて話をした。既に周囲に馴染めないことに気づいたわたしは、他の女生徒のようにどこのグループにも属さず、一人で過ごしていた。鮮やかな赤い夕陽だったことを覚えている。そのせいか、つい話をしてしまった。
「急に卒業したら結婚するって言い出すからびっくりしたよ」
本当のところ、いつから彼が養父と繋がりを持って、わたしの存在を知り近づいてきたのかわからない。
「あの家を出られたのは明智くんのおかげなのでしょう? 例え別の思惑があったのだとしても、わたしは……感謝しています」
「……君は、本当に」
「馬鹿で結構です。だって、あそこから出たからこそ、知り得たことがたくさんありますから」
赤い瞳から逃げずに言いきる。明智くんの本性がわからないからといって、こちらも上辺を取り繕いたくない。ただ話がしたかった。なのに、わたしの視線に耐えきれなかったのか、苦虫を噛み潰したような顔をし背ける。手を伸ばせば触れられる距離に居るのに、たった数日で届かなくなってしまった。
「最初から……届いていなかったんですね……」
唐突にバイブレーションが鳴った。机に置かれたわたしの携帯が、誰かのメッセージを受信したようだ。明智くんを見ると、特に反応を示さなかったので手を伸ばし確認する。暁くんだった。
「返信しなよ。彼、勘がいいから怪しまれるよ?」
目を合わせることなく、メッセージの相手を察して指示を出す。暁くん以外にもやりとりする人がいるかもしれないのに、どうして言い切るのか疑問だ。携帯画面に指で触れると画面が切り替わり、文章が表示された。
『モルガナが見つかった。美少女怪盗と一緒にいて、こっちに戻ってくる気はないって。女の子の方は真が見覚えあるみたいだから、探してみる』
「それ、奥村の一人娘かな。確か名前は奥村春、秀尽の三年生」
いつの間にか明智くんが画面を覗きこんでいた。この情報だけで特定できるとは、さすがだ。個人に宛てられたものを見られるのは気分のいいものではないが、拒否権はない。そもそも美少女怪盗とは、一体どういう意味なのか、聞いてみたいがそんな文章を明智くんに見られながらするのも、これまた気まずいものがある。とりあえず、どちらにも怪しまれないようにモルガナがみつかったことに安心した、と送っておくことにした。
「ところでモルガナってハチワレの黒猫のこと?」
「はちわれ?」
「額の部分から鼻に沿って八の字に模様が割れてる猫のことだよ。飼い主に似て奔放なんだね」
モルガナが普通の猫ではないことを、明智くんにはまだ悟られていないらしい。それにしても、猫の模様にも名前があるなんて初めて知った。
(2019/8/18)
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