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今朝から何かがおかしい。家を出てから周囲に人が増えるにつれて、それは確信へと変わっていく。耳に入るのは奥村社長の話ばかり。それも以前のように疑心暗鬼に交わす噂話ではなく、既に怪盗団という存在を信じきっている口ぶりで、誰かの手で操作されているような感覚を覚えた。

「見た、怪盗団のサイト? ランキング一位、奥村社長になったって!」

通学途中の電車内、走行音と人の遮蔽があるにも関わらず、鮮明に会話が聞こえてくる。またもやその噂だった。

「えっ!? ビッグバンバーガーの? なんで?」

「実はあの会社、めっちゃブラックなんだって。残業代とか削りまくって、中には過労死した社員もいるらしい……」

本当にそんな話、どこから漏れるのだろう。内情を嬉々として話し利益を得ている人間がいるのか。スーツを身に纏った女性たちは、自分たちには実害がないからなのか満員に近い車内で盛り上がっていた。

「ほら、この前のエントランスが荒らされたのも実は元従業員の仕返しだとか……他にも競合他社への嫌がらせとか、もうヤバい噂がいっぱい……」

「マジ? 昨日食べたばっかなのに……そういやあの店、量の割に妙に安いけど……まさか、ヘンな物入ってないよね?」

社長や上層部のことはわからないが、実際に働いている場所を悪く言われるのは辛いものがある。加えて、その名前を聞くとどうしても思い出してしまう。明智くんのこと、……養父のこと。

「なあ、聞いたか? オクムラフーズの噂……」

やめて、もう聞きたくない。

「ああ、ニュースでもやってたよな。会社の窓とか割られてたんだって?」

耳を塞いでも聞こえてくるなら、仮面を被って、全てを閉ざせばいい。人形は何も感じない、考えない。その瞬間、身体の重心が保てなくなった。電車の揺れに合わせてたたらを踏む。背後の乗客に全体重をかけてしまいそうになったとき、誰かによって引き寄せられた。わたしの腰に回された腕、目の前には白い夏服。見下ろす黒い瞳がレンズ越しに様子を伺っていた。

「危な……大丈夫だった?」

首を縦に振り、視線を逸らす。だめ、暁くんに縋ってはいけない。そんな資格はない。ならば、一緒に登校するのなんてやめてしまえばいのに、始まったばかりの約束を破棄できないでいた。彼に触れ不安定になったことで、再び周囲の声が聞こえてくる。その腕の中から出る前に腰から離され、わたしの頭部を囲うように耳を塞いできた。声はまだ聞こえてくる。しかし、不思議と心乱されることはなくなっていた。

「聞きたくないのかと思って、その……」

「いえ、助かりました」

渋谷駅、いつもの乗換のホームに着いた途端、気まずそうに暁くんが呟く。彼のおかげでバランスを崩すこともなかった。見上げて軽く微笑むと、つられるように安堵していた。

「よかった、戻って」

戻る? 何がだろう。小首を傾げる。以前にも同じことを言われた気がするが、暁くんは何でもない、とだけ言って終わらせた。

「それより、モルガナのことなんだけど、メメントスで怪チャンの相談事を解決してるみたいなんだ。それで、話をしにいくのに瀬那も一緒に来て欲しい」

「わたし、です?」

「こういうのに向いてるかなって。二人は内緒話するほど仲が良いって双葉が言ってたし」

前は双葉ちゃんが知り合いだったから何とかなっただけであって、モルガナとは特別仲がいいわけではない。それなら暁くんの方がよっぽど適役だ。けれど、モルガナに戻ってきて欲しいのは、わたしも同じだ。わたしは暁くんのそばにはいられない。モルガナがその考えを持って離れたのならば、訂正しなければ。

「そう、ですね。ご一緒させてください」

怪盗団と共に行動することは避けるべきだが、昨日の話しぶりからするに明智くんはほぼ内情を理解しているらしいので、今更わたしが抵抗しても何も変えられないだろう。放課後、渋谷駅で待ち合せる約束をし、暁くんと別れた。運がいいのか、その日明智くんは登校しなかった。




渋谷駅に着くと既に怪盗団は揃っていた、……モルガナ以外。イセカイナビを使用し、メメントスと呼ばれる場所へ足を踏み入れる。皆の装いが制服から怪盗服へと変わり、禍々しい赤に染まった地下鉄への改札口が現れた。モルガナと奥村春さんが来るまで、各々隠れて待つ。相変わらずわたしだけ制服姿のままで、どこからか吹いてくる風が夏服には少し肌寒い。すぐ前を歩いていた暁くんに倣い、大人しく円柱によしかかることにした。反対側には喜多川くんが立ち、こちらに背を向けメメントスの入口を見つめている。ここは見た目とは反対に、何故だが落ち着く。坂本くんにモルガナが来たら謝るように、と高巻さんが強い口調で窘めるがあまり響いていないようで、この作戦は成功するのか不安しかない。その上、本当に今日ここに訪れるのかも不確かなため、ただ待ち続けるしかなかった。
メメントスに来てから大分時間が経った。現状に変化はなく、待ちつかれたみんなは床に座り、雑誌を読んだり、雑談したりなどし始める。暁くんは坂本くんに呼ばれて対面する壁側へ行ってしまった。かくいうわたしも円柱を背もたれにして冷たいタイルの上で瞼を閉じていた。隣にはまだ喜多川くんが居てくれて、数日ぶりに聞く黒猫の声で目が覚めるまで、いつの間にかその背に頭を預けてしまっていたらしい。

「やっぱオマエら、たるみきってる!」

「私たちにご用?」

メメントス内の改札から出てきたモルガナと美少女怪盗となっている奥村さんが、わたしたちへ鋭い視線と言葉を投げてきた。それに対抗したのは参謀として動いている新島さんだ。わたしが起きたのを確認した喜多川くんも対するように立ち上がる。

「『怪盗お願いチャンネル』の依頼、貴女が叶えてない? コメントまで書いて。無暗に引き受けないで欲しいの」

「たちまち足がつくぞ。そうなれば俺達までとばっちりだ」

「私のせいで、そんな……」

暁くんたちではない誰かが解決している、というのは聞いていたが、まさか掲示板に書き込みまでしていたとは。世間は内情なんて知らないのだから、少しでも証拠を残すのは得策ではない。陥れるつもりはなかったのか、狼狽えた奥村さんは深々と頭を下げた。

「実はあまり機械には強くなくて……本当にごめんなさい」

「謝んのかよ!?」

「私たちの為に言ってくれたのよ? お礼だって言わないと」

社長令嬢の割に飾らない性格なのか、二人の足並みが揃っていない。不快ではないのだが、主導権を握らなければ会話が進まない可能性がある。こういうのはやはり新島さんの役目なのだろう。

「ねえ、モルガナ。そろそろ機嫌、直してくれない?」

「ワガハイ目当てだった訳か?」

青い瞳を輝かせて、嬉々とした声に変わった。まるで怪盗団が来るのを待っていたかのようだ。

「やっぱりワガハイが居ないとダメなのか? そうなのか?」

ああ、と暁くんが大きく頷く。顔には出ないが寂しがっていたし、やはりモルガナは大事な戦力なのだ。

「当たり前だ、居ないと困る」

「戻ってきてください。わたしには……無理なんです」

「でも、ワガハイは……」

主語はないが、モルガナなら察してくれるはずだ。わたしはモルガナの意に沿えないこと。相応しくないこと。だから、彼のそばにいて欲しいこと。

「ごめんね。モルガナの気持ち、考えてなかったよね」

「アン殿……」

「竜司もさ、本心じゃないんだよ? 謝りたいんだって……」

高巻さんが坂本くんへ繋いでいく。どうやら、この仲違いを先に仕掛けたのは彼の方なのかもしれない。喧嘩両成敗とは言うが、この場合坂本くんから折れないとモルガナだって謝罪しにくいだろう。いつもよりも心なしか背筋を伸ばし、坂本くんは頭を掻きながら立ち上がる。彼なりに気まずさを感じているように見えた。

「ま、俺も悪かった……つーかさ、別に、人間じゃねえとか、役に立たねえよか、そんなの気にしねえって!」

……見えたのは気のせいかもしれない。口下手だとは思っていたが、まさかここまでとは。

「デリカシーなさすぎ……」

「杏のお膳立てが、まさしく台無しだ」

坂本くん以外の全員が頭を抱え、双葉ちゃんと喜多川くんと同じことを思ったに違いない。俯き、固く握った拳を震わせて、モルガナは大声で吐き捨てた。

「ああ、そうかよ! どうせワガハイは役立たずだよっ! もうオマエらのところになんて絶対に戻らねえからなっ!!」

「ま、待って、モナちゃん!! ご、ごめんあそばせ!!」

振り返らずにメメントスの出口へと駆けだしたモルガナを追って、奥村さんは慌てて、掲げた右手から何かを放つ。爆発音と煙に、咄嗟に顔を背けるが、喜多川くんが前に出てくれたおかげで酷く咳込まずに済んだ。視界が開けた頃には二人の姿はなく、今回の作戦は失敗に終わったことを告げていた。
メメントスから出て、解散することになったはいいが、全員の表情は暗い。坂本くんだけは苛立ちを隠せずに、一人ごちていた。それを横目に新島さんが方針を固める。

「明日もまた来てみましょう。会えるかわからないけれど、諦めてしまっては意味がないわ」

「みんな、付き合わせてごめん」

「暁が謝ることではない」

「祐介の言う通りよ。いい、竜司! 次はちゃんと謝ってよね!」

坂本くんなりの謝罪だったのかもしれないが、あれでは何も届かない。彼女が咎めるのも無理はない。しかし、坂本くんはそれも聞かずに、周囲を見渡していた。ますます高巻さんの反感を買ってしまう。

「聞いてる!?」

「……なんか、聞こえねえ?」

「誤魔化そうったってそうは――」

微かにわたしの耳にも届いた。何を言っているのかまでは聞き取れないが、先ほど聞いたばかりの何かを求める鳴き声。

「わたしにも、聞こえました……」

「……モナの声!?」

双葉ちゃんの言葉を聞き終わる前に坂本くんは走り出していた。もの凄い速さで渋谷の人波を掻き分けていってしまう。

「俺たちも行こう!」

暁くんの掛け声に頷き、モルガナを探しに渋谷の街を目指して走り出した。
(2019/8/25)

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