66


奥村のオタカラを盗んで、未だ何も変わらない朝。ルブラン近くの角で瀬那を待つのも一ヶ月も経てば習慣になる。瀬那と言えば、モルガナが家出したくらいから様子がおかしい。また仮面の存在を感じるのだ。それも出会った時より日に日に強くなっている気がする。放課後、ルブランに来なくなったことと関係があるとは思うが、話を聞くために無理にでも誘ってみるべきか。

「おはようござます」

「おは……よ……」

時間通りに綺麗な微笑みを浮かべた瀬那がやってきた。その不自然さと、頬に貼られた四角い大き目な絆創膏の不自然さに、声を詰まらせてしまった。そんな俺を見て、瀬那は何がそうさせるのかわからない、という顔をしている。

「どうしました?」

「いや、どうしたって……ここ」

自分の頬を指して、絆創膏の下について尋ねる。すると、ああ、と何てことないかのように再び微笑んだ。

「大丈夫です、軽い傷なので気にしないでください」

大丈夫なわけがない。女の子が顔に傷を負う状況ってなんだ。暗に深く訊くなということらしく、さっさと駅に向かおうとしている。このまま訊いても答えてはくれないだろうし、遅刻する気もない。とりあえず渋谷駅まで向かったのだが、電車に乗っている間はここ最近の通りにどこかを見つめてぼーっとしていた。

「瀬那の高校はいつ中間試験?」

「十月十七日からです」

「一緒か……」

これを口実に使うしか手はない。そうでもしなければ今日も彼女はルブランに来てはくれないだろう。朝はこの通りほとんど話が出来る雰囲気ではなく、徐々に口数も減ってきている。惣治郎さんも双葉も瀬那の顔を見ていないので、俺が帰る度に聞かれていた。

「実はさ、俺、次の試験ちょっとまずそうなんだ」

というのは嘘だ。それを分かっているのか、自分には無関係だとでもいうかのように淡々と言う。

「毎日忙しそうですものね」

「でもそれを理由に赤点なんて取るわけにはいかないくて、立場的に……」

これは本当だ。ただでさえ学校側から目を付けられては困る上、真に何をされるかわからない。最悪、鉄拳が飛んでくるかもしれない。

「そんな暇ないかもしれないけど、今日一日だけ勉強付き合ってくれないか?」

「……」

話の途中で瀬那の表情が止まってしまっていた。やはり嘘をついてまで来てもらおうだなんていけないだろうか。俺にはこれしかやりようがないのだ。このまま乗るべき電車が来るまでだんまりだったらどうしようと考えていると、楽しげなメロディが鳴ったと同時に彼女は俯き言葉を発した。

「……放課後、ルブランでいいです?」

声に抑揚はない。本当は嫌なのに無理強いしてしまったかもしれないと、今更ながらに罪悪感が湧いてくる。

「え、ああ、もちろん」

「それでは、また後で」

返事につっかえている間に、瀬那はホームに入ってきた電車に乗り込もうとしていた。さっきまでの異質さは見間違えかのように微笑む彼女を俺は見送る。

「セナ、なんか怖いな……」

学生鞄の中で黙っていたモルガナも気にかかっているようだ。黒い眼鏡を上げ直し、狂った調子を元に戻す。何故だか、嫌な予感が背後からゆっくりと確実に迫ってきているようだった。




本当に来てくれるのか、瀬那が嘘を言っているとは思いたくなかったが、四軒茶屋駅を出たところで足が止まってしまった。もしかしたら別の出口を使うかもしれないのに待ち伏せだなんて、格好がつかない。偶然同じ電車に乗っていたということにでもしておこう。瀬那のことになると余裕がなくなる。携帯を弄っている間に彼女が通り過ぎてしまうことも考えてしまい、とにかく行き交う人々を壁に寄りかかりながら眺めることにした。

「暁くん?」

「!?」

急に側面から名前を呼ばれて心臓が止まりそうになる。俺がどうしてここで立っているのかと、見上げている双眸が語っている。こちらが先に見つけていたときの言い訳も、今の状況では使えやしない。

「……ルブランで、と約束したじゃないですか」

色々と察したらしい瀬那がため息をつく。呆れや不快ではなく、安堵のように感じた。

「花火をした日のこと、思い出しますね」

「確かに。……俺、いつも瀬那のこと待ってるかも」

それも悪くない。あの時は胃が痛かったけれど、それも相手が瀬那だからこそ起こる現象だ。今はその逆で、彼女の口角が自然に上がるのを見て、待っている間の不安が一気に吹き飛んだ。

「怒ってるわけじゃなくて、俺もほっとしただけ」

本人を前にしては言えない感情を笑って誤魔化して、申し訳なさそうにしている彼女の手を取ってルブランへ向かう。振りほどかれなかったことに密かに喜んでいた。

「瀬那〜、待ってたぞ〜!」

「ふ、たばちゃん……」

居候先の戸を開け帰宅を告げる前に、双葉に押しのけられそのまま彼女に抱き着いた。呆れもしたが、待ち望んでいたのだからしょうがないか。そして、カウンターから柔らかにほほ笑む惣治郎さんが瀬那を迎え入れる。

「おかえり、瀬那ちゃん。少し痩せたか?」

双葉の強襲にも惣治郎さんの優しさにも彼女はどうしていいか迷うように、何かを言おうと口を開けては閉ざしを数回行ったあと唇を噛み締め、やっと声を発する。

「ただいま……、体調は特に、変わりありません」

震えて泣きそうな声だ。しかし、誰もそのことには触れない。

「ちゃんと食ってるならいいんだ。一人暮らしなら倒れたとき困るだろ」

「そんなこと言って、ただ瀬那のことが心配なんだよなー」

「……うるさいぞ」

今日も来ない、いつ来るんだ、って私か暁に訊いてたよな、と抱きつくのをやめた双葉が惣治郎さんをからかって笑っている。双葉も俺に同じことを訊いていた気がするのは気のせいか。ルブランは明るくて温かい場所のまま変わらずにあるが、瀬那は以前のように戻ることはない。楽し気に微笑むこともなく、双葉たちよりも遠くを力なく見つめている。ここで二人に会えばもしやと漠然とした希望があったが、そんなに簡単に解決することではなかった。

「勉強しに来たんだろ。コーヒー淹れてやるからさっさと上行け」

娘とのじゃれ合いが恥ずかしいらしい。手を振って追い払い、自室に上がれと促す。目の届く範囲にいろと言わないとは珍しい。瀬那の様子から第三者が来ないところの方がいいと判断したのかもしれない。

「そんじゃ私は帰る」

ひとしきり騒ぎ、双葉はくるりと踵を返す。今日はこのまま俺たちと過ごすと思っていたので驚いた。惣治郎さんも同じらしく、不思議な顔で双葉の後ろ姿を見ている。

「なんだ、俺はてっきり……」

「だって、私は試験ないし、目的の瀬那も堪能したし」

「たんのう……」

学校に行っていない双葉には無縁の話だ。ひとりだけ別のことをしていても暇かもしれないので強制はできない。にしても、瀬那を堪能ってどういう意味なのだろう。俺を完全に無視して抱きついたことかと疑問に思っていると、右手の親指を力強く立て惣治郎さんに言い放った。

「めっちゃ柔らいい匂い!」

暫しの沈黙の後、咳払いをひとつして沈黙を破る。

「……すまんな、こんな娘で」

「えっと、いえ……」

こんなの俺でも何て返せばいいかわからない。双葉は何故か得意気に、サラダバー! と元気に去っていった。その背を見送っていると学生鞄から一部始終を見ていたモルガナが顔を出し、俺の耳元で囁く。

「ワガハイも今日はフタバに世話になるぜ」

「別に変な気は使わなくていいよ」

「そうじゃねえ。てゆーか、そんな気も今はないだろ?」

いつもそばにいるこの黒猫には、俺の平常心を装うための軽口もバレている。そんなつもりはさらさらないのに二人きりと思うと緊張してしまうなんて、もっと度胸を鍛えなければ。

「ジョーカーだけが頼りかもしれねえ。一緒にいてやれ」

そういうとモルガナは鞄から抜け出し、地面へ華麗な着地を決めると双葉を追って出て行く。気づいた瀬那が不思議そうにピンと伸びた尻尾を見ていたが、特に何も言われることはなかった。
惣治郎さんが言ってくれたように、自分の部屋としてあてがわれている二階へ上がり、勉強をしやすいように机を設置する。ソファへ促しても何故か躊躇い座ろうとしないので、俺が奥に座り隣の座面をぽんぽんと叩いて、やっと遠慮がちに腰掛けた。そうこうしているうちに惣治郎さんの淹れてくれたコーヒーが運ばれ、香ばしい匂いが鼻腔をくすぐる。それでやっと瀬那の口角が上がった。やっぱり惣治郎さんは凄い人だ。

「では、どの教科から始めます?」

「あーっと、そうだな……」

改まって教えて欲しい教科は今のところはない。色々な教科の難しい問題について聞ければ御の字だ。本当の目的は佐倉家の二人に会わせることと、少しでも話を聞くこと。

「瀬那はいつもどうやって勉強してる?」

「普通に毎日の予習復習、課題をしてるだけです。あとは試験前に範囲の確認をもう一度しているくらいですね」

流石は明智と同じ進学校に通うだけはある。特別、試験勉強などしていないらしい。

「今日は課題ある?」

「はい」

「それならまずはお互い課題をやることにして、わからないところがあったら、俺、瀬那に聞くから」

「暁くんがそれでいいなら」

果たしてこれが試験勉強と言えるのか、教えて欲しくて呼ばれたのではなかったのかと瀬那は疑問に思っているだろう。鞄から教科書とノート、筆記用具を取りだし、それぞれが別々に課題を始めた。
ペンを走らせる音と教科書をめくる音だけが耳に届く。隣を盗み見ると、今朝も気になった絆創膏が未だ鎮座している。殴られた感じではなさそうだが、誰かに傷つけられたのは確かだ。許せない、傷つけた相手も何も出来ない自分も。にしても普通に聞いて答えてくれるなら、何も悩むことはないというのに。

「最近忙しそうだけど、どう?」

「どう、とは……」

「何か変わったこと、とか、近況が知りたいと思って。あんまり会えてないからさ」

ペンを止め、髪を耳に掛けながら俺を見る。視線が合ったのは一瞬ですぐに逸らされてしまった。それは思案するためのものではなく、別の意図があるようでならない。

「特に……これと言ってはないです。暁くんの方が忙しそう」

「俺はたまに怪盗団として集まってるだけだし」

「でも放課後は大体誰かと出かけているって双葉ちゃんが言ってましたよ」

双葉とは会っていないだけでメッセージのやり取りは頻繁にしているのだろうか。真実だとしても何故だか誤解を招きそうな伝わり方のような気がする。

「あー、怪盗団のメンバーとか協力してくれてる人に色々教えてもらってるんだ」

「……皆さん、怪盗だと知っているのです?」

「いや、戦ってるメンバー以外で知っているのは瀬那だけ」

そう、と小さく返事をすると、コーヒーに手を伸ばし一口呑み込む。そして一呼吸置いてから神妙な顔つきになり、俺と向き合った。

「ひとつ、訊いてもいいです?」

だめ、なんて言うはずもなく、ただその雰囲気に少し押されてしまう。まじまじと見つめられると流石に顔が熱くなってくるが、真面目な話でそんなところを見せるわけにもいかない、と耐えていると、予想外の質問が飛んできた。

「美味しいパンケーキのお店、教えてください」

「…………パンケーキ?」

「はい、暁くんなら知っているって聞きました」

どうしてこのタイミングでパンケーキなのか、さっぱりわからない。特に甘いものが好きというわけでもないというのに。色んな意味で緊張していたので拍子抜けしてしまった。

「好きなの?」

「好き、かどうかわかりません。お店では食べたことがないので」

「ごめん、俺も店は知らないな。……調べておくから、今度一緒に食べに行こう」

そんなつもりはなかったのだろう。彼女はただ力なく微笑むだけで返事も首を縦に振ることもしなかった。せっかく気を遣ってくれたモルガナには悪いが、やはり重要なことは何も話してはくれないうえ、うまく逸らされてしまう。再び教科書と向き合うしか選択肢はなかった。
暫く会話もなく静かな部屋の中、突然ペンを進められなくなった。見た覚えはある問だが、解き方が思い出せない。ペンを回して考えていても仕方ない。

「瀬那、ちょっと訊きたいんだ、け……ど……」

隣を見やると自分と同じように勉強をしている彼女はいなかった。机に突っ伏し、背中が静かに上下している。まさかこの状況で寝てしまうとは思わなかった。手を伸ばし、顔に掛かる髪を避けると、穏やかな寝顔がそこにあった。こうしてじっくり眺めると酷いクマを化粧で隠している。
その時、ふと、双葉の言葉を思い出した。第三者から感想を聞いたってわからないだろうそれを、自分も理解したい。ペンを置き、身体を瀬那に向け、触れないように起こさないようにゆっくりとその首筋に顔を近づける。シャンプーか何かだろうか、花のような微かに甘い香りがする。本当なら双葉と同じように両腕できつく抱きしめて、肺いっぱいに吸い込むことが出来たら。

「俺、そうとうヤバい奴だな……」

寝ている女の子に対して何てことをしているのだ。身体を離し、自分の欲望への忠実さに呆れ、頭を抱える。結局傷のことは訊けなかったけれど、ルブランだからか、俺のそばだからか、どちらにしても安心して眠れるのなら、誘った甲斐があったというものだ。
瀬那はいつも何も言わない。頼ってもくれない。一言、助けてと言ってくれれば、俺はすぐにでも瀬那を苦しめる人間を改心させに行くのに。例え全会一致でなくても、一人でやることになったとしても。その意思に揺らぎはなかった。
(2019/10/19)

prev / back / next