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日曜日は当たり前のようにアルバイトへ向かう……、のだけれど、出発地がいつもと違って危うく遅刻しそうになった。明智くんは今日も朝早くから出かけていて不在である。本当に辞めるのか、と改めて確かめてきた店長に頭を下げて、就業時間になると速足で明智くんの家へと戻った。
そのあと、わたしも他人の家で大手を振って何かを出来る訳もなく、見える範囲の掃除をさせてもらいソファでぼーっとしていた。帰りも何時になるかわからないため、先に寝ていてと言われたが、せめて温め直しても美味しく食べられる物を作っておこう。
何を作ろうか悩んでいると、携帯が震えた。明智くんだろうか。画面を確認し、息が止まった。なんで、どうして電話なんてしてくるの。簡単に通話へと指を動かせない。その間もずっと着信は続いており、無視は出来なかった。

「……もしもし」

『瀬那? ごめん、今大丈夫?』

「はい、どうしました、暁くん」

あのやりとりに必ずしも暁くんが何かを感じるとは限らない。だから普通に話をしているのに対して、悲しさだとか、苦しさだとか、そんなものを抱くのは間違っている。

『頼みがあるんだけど、明智の連絡先、教えて欲しくて』

「明智くんの?」

『秀尽では毎年、学園祭の講演会ゲストを生徒のアンケートで決めてて、それで……』

今年の顔といっても過言でないほど、明智くんは色んなところで取り上げられていた。学内外でも声を掛けてくる人がかなり増えたのは確かだ。しかし、今の状況で彼を呼ぶ、ということは怪盗団の首を絞めかねない。電話口の向こう側で、暁くん以外の声が聞こえてくることから、ルブランに集まり、話した結果だとは推測出来た。どちらにせよ、怪盗団と敵対する側に身を置いているわたしには意見する権利はない。

『明智を呼ぶのに、協力して欲しい』

「構いませんが、解決策は見つかったのです?」

『いいや。でも今はとにかく情報が必要なんだ。検事の新島さんが……、特捜が動き出したらしい。それがなきゃ、策も練れない』

検察の、特別捜査部。主に政治家汚職、脱税、経済事件を独自捜査する機関。目をつけられれば確実に有罪、そのため「不敗神話」とも言われている。ついに政府も怪盗団逮捕に本気を出してきたということだ。

「……危険も承知、なのですね」

『ああ、ここで引くわけにはいかない。全会一致だ』

本音を言えば、この二人にはあまり会って欲しくはなかった。どうしても、あの夢を思い出すのだ。それに知っている人間同士での争いというものは、やはり気分のいいものではない。そんな次元の話では既になくなってしまったのだが。

『警察の包囲網を解くには、これくらい乗り越えないと』

黙り込んでしまったわたしの耳に、安心させるかのような優しい声が届く。でも、もう零れるものは何もない。全て流しきってきた。

「そう……、では、明智くんに訊いてみます。暁くんの番号を教えればいいです?」

『いや、真のを伝えて。日程を組むのは生徒会長の役目だから』

「わかりました」

これで電話は終わりだ、別れの挨拶をして画面を指で叩く。そのはずだった。

『あの、さ、大丈夫……?』

恐る恐る告げられた言葉。至っていつも通りに振る舞っていたのに。

『声、元気ないから』

「そんなことないです、元気ですよ」

ならいいんだ、と納得させるように噛みしめて飲み込んでいるかのようだった。嘘は言っていない。身体は元気だ。

『それならさ、瀬那に学園祭、来て欲しいんだ。平日なんだけど来れる?』

行きたい。行けば、皆に、暁くんに会える。そんな気持ちも明智くんはお見通しに違いない。またわたしを苦しめる機会が生まれるのだ、学校などどうにかして連れて行かれるだろう。

「明智くんに訊いてみないとわからないですが、多分、講演会の日にお邪魔することになるかもしれません」

『……それって、明智の許可、必要なのか?』

「そう、ですね」

なんとかそれだけ答えて終話し、ソファの背もたれに凭れた。危害を加える相手ではないのに、異様に緊張し、短い会話で気分が上がったり下がったり、上手く制御できない。深く呼吸を繰り返し、胸に手を当てて煩い心臓を押さえた。指に触れるのはネックレスの感触。それを握りしめて、落ち着かせる作業を続けた。




珍しく日付が変わる前に明智くんが帰宅した。といっても、わたしはもう寝ようとベッドに入るところだった。未成年をこんな時間まで、というお小言は聞き飽きたらしく、特に何も言わないでいる。夕食は食べて来ると事前に聞いていたので、今日も食卓は使われることはなかった。
早々にシャワーを浴びて、ソファに枕と毛布を置き、明智くんは寝る支度を整えていく。わたしがここに来てからというもの、彼は家主だというのに、ベッドを一度も使っていない。わたしなんて居候より、もっと立場が下なのに、何度言っても彼の主張は曲がらなかった。

「疲れているところ、ごめんなさい。寝る前に少しいいです?」

「怪盗団から僕に接触したいってお願いされたかな」

コップに注いだ水で喉を潤し、さも自分も聞いていたかのように話すので、次の言葉が出て来なかった。確か携帯に盗聴器はないと言っていたはずだ。

「僕の会見の意図をちゃんと読み取ってくれてよかったよ」

わたしが乗っているベッドの脇に腰掛けて、不敵に笑った。

「怪盗団が彼らだって、気づいていることを意識して言ってみたんだ。多分、そこまでは理解していないだろうけど、急な擁護発言と精神暴走事件の真相をちらつかせたから、情報欲しさに僕に接触してくると思って。盗聴してた訳じゃないから、安心して」

「そう、ですか……。えっと、それで、秀尽学園祭の講演会にゲストとして出て欲しいみたい、です」

「いいよ、必ず行く。内部に入り込むいい機会だ。これで奴らを引きずり出してやる」

静かに復讐に燃える瞳を見ていられずに、携帯を取る振りをして顔を逸らした。その標的にはわたしも含まれている。新島さんの電話番号を教えたことでお使いは終わった。
明日の学校に備えるならば、そろそろ寝なければならない時間だったが、自分で作った寝床に戻っていく明智くんの部屋着を掴み引き止めた。

「あの、朝から夜まで、毎日お疲れですよね。わたしはずっと家に居ただけですし、今日はベッドで寝ませんか?」

「最初にも言ったけど、瀬那さんをソファで寝かせる訳にはいかないよ」

「それなら、大きめのベッドですし、わたしは一緒でも構いませんから」

「あのさ、どうしてそんなに必死なの?」

不安だった。憎んでいる相手に優しくする理由とは何だ。復讐として、わたしは怪盗団から離されたが、それ以外にこれといって何もされていない。命令も暴力も拘束も、だ。ただ自由に過ごすだけ。何も求められない、居るだけでいいだなんて、本当に人形だ。でもあとひとつ、残された可能性がある。明智くんがわたしを望んだときに、養父だってそれを示唆していた。

「明智くんは……そういうことを、しないのです……?」

「……なるほど、ね……今までも、そうやって他の男を誘ってきたの?」

濁した言葉に返ってきた声は冷ややかで鋭いものだった。見下ろす視線が直接傷つけられたよりも痛い。ごくりと喉の音がやたらと大きく聞こえ、震える唇を開いて答えようと発した声は早々に遮られる。

「いや、答えなくていい、聞きたくない」

頭を振って項垂れながら、再びベッドに座った。尋ねたのに拒否し、そこまで苦し気な表情になる理由がわからない。言わなければよかったと、後悔しかない。誘ったつもりなんて全くなかったし、わたしだって冷や汗をかいた。出過ぎた真似をすると、躾と称して殴られたことが脳裏によぎってしまったのだから。
ため息をついて自身を落ち着かせたのか、申し訳なさそうに微笑んで、部屋着を掴んでいたわたしの手をゆっくりと解く。

「瀬那さんはそういうの、好きでやってる?」

「…………いいえ」

「僕は……瀬那さんが嫌なら何もしないよ」

前のことはごめん、それだけ言って、彼はソファへ戻っていった。以前食事を作りに来たときのことを言っているのだと思う。あれは話している最中に、明智くんではない別の人間を思い出していたせいだ。突き飛ばすまでしてしまったわたしにも非がある。
しかし、何故だか言い方が引っかかる。自分が、ではなく、わたしが、だけなのだろう。拒否権をわたしに持たせる意味が見つけられない。

「ねえ、明智くんは、嫌、ではないの?」

「……おやすみ」

こちらを向き直すことなく紡がれたのは、会話の終わりを意味していた。この件について、答える気はないのだろう。それきり、明智くんはソファから起きてくることもなく、わたしも諦めてベッドにもぐり込んだ。
(2020/1/12)

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