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学園祭に招待されたが、それらしいことは何一つせずにわたしたちは秀尽学園を去った。明智くんとは途中で別れ、彼の家へと一人で戻る。講演会で携帯を鳴らしたのはわたしで、連絡などと言うのは全くの嘘だったが、用事があるのは本当のようだ。
帰宅して着替えることもなく、ソファに身体を沈み込ませた。わかってはいたが既に怪盗団の視線は好意的なものではなく、猜疑心を含むものに変わっていた。何も話さない、表情も変えない、付き従うのは敵対する相手。裏切り者と罵倒されても否定出来ない。確かに情報はわたしから漏れていたのだ。何だか本当に疲れた、半日も気を張っているだけでこんなに身体が重くなるなんて、随分と鈍ってしまった。少し休もう、そうしなければ動けそうにない、大丈夫、目を閉じるだけ。自分に言い聞かせ、大きく息を吐いたところまでは覚えている。




温かい、というのは安心出来るものだと知ってしまった。それが人の温もりなら尚更。誰かが触れてくれると自分が否定されていない気がするから、だから離れがたかった。思えば暁くんの隣はそうだった。そんなことを思い出すのは、二人で並んで寝てしまった夢を見ているからかもしれない。あの時と同じように隣に感じている体温は、きっと記憶の中の再現でしかなく、やけに実存的で……、本当に彼が居てくれていると錯覚してしまいそうになる。ありえないことなのに。
ようやく夢から醒め、重い瞼を開け数度瞬きを繰り返す。ソファに座ったままのわたしの身体には毛布か掛けられ、隣にあった温もりは夢ではなかった。

「……すみません、また、こんなところで寝てしまって」

いつの間にか寄り掛かっていた身体を起こし見上げる。優しく微笑むのは、黒ではなく、赤い瞳だとわかっていたのに、あんな夢を見てしまうなんて最低だ。

「起こしちゃったかな、ごめんね」

「いえ、……どれくらい寝ていました?」

「大した時間じゃないさ、僕もすぐ帰ってきたから」

明智くんは隣に腰掛け読んでいた本の途中にスピンを挟み、ソファに置いた。すぐ戻る、と言っていた通り、わたしが身体を冷やす前に帰ってきたらしい。

「疲れただろうと思って、今日は夕食の支度しなくてもいいように適当に買ってきたけど、もう少し後にしようか」

「……そうします」

寝起きだからなのか、まだ空腹を感じていなかった。そういえば昼を食べたかどうかも記憶では曖昧だ。まあ、一食くらい抜いても大した問題にはならない。それよりも明智くんの機嫌が妙に良い気がする。じっとわたしを見ている眼差しは何も知らない人間から見れば、優しさで溢れていることだろう。それが反って不気味でしかない。仮に悪意があるとしても、彼に危害を加えられることはなさそうだが、下手に刺激しないほうがいいだろう。

「わたしなんかに、気を遣っていただいて、ありがとうございます」

「そんな他人行儀な言い方しないで」

「でも……」

「だって、僕たちは共犯者でしょ?」

耳元で囁かれたそれに肌が粟立った。硬直する身体、瞳を見返すことが出来ず、掛けられた毛布を両手で握りしめる。

「今日は上々の出来だったよ。瀬那さんが僕といるだけで動揺を誘えるのは、予想以上に面白かったね」

穏やかな表情とは裏腹な言葉を並べる。制服を着ているときと、黒い仮面を着けているときの明智くんの境界が曖昧で混ざり合って、未だ何が真実なのか、受け入れられずにいた。

「おそらく、ニ、三日中には向こうから連絡がくるはずだ。もちろん、僕に協力するって形で」

「そうなるように仕向けたのでしょう?」

裏で糸を引いているのが誰なのか不明のまま、大きく身動きができない以上、彼の言う通りにするしかない。最悪、冤罪で苦しむのは自分だけでいいと、暁くんはその身を犠牲にして怪盗団を守るだろう。それが殺人なら尚更で……何より、奥村さんに至っては実父を殺したことになってしまうのだから。

「さすがは、名探偵と称される方ですね……」

「ああ、あれはね、違うんだよ」

「どういうことです?」

意味を測りかね見上げると、今度は明智くんがわたしの視線から逃げるように目を逸らし、両膝の上に肘を乗せ、合わせた手の親指で顎を支えた。伏し目がちな瞳は空虚で、何も映してはいない。

「ただ僕が『不審』じゃなくしてやってるだけ」

それは世間からみてと受けとるべきか。何かしら事件として、例えば死人がでてしまえば、不審ではないと言いきれない。それをどうにか出来る力。

「認知、訶学……」

「向こうの世界で、僕は相手を暴走させる力を手に入れた。それを獅童に売り込んだんだ。邪魔なターゲットを暴走させ、獅童とは無関係な事件を起こさせ、僕が解決すれば、誰も不審に思わない」

「そんな損しかない条件……」

「だから獅童も受け入れた。素性の知れない人間が『認知訶学』なんて不明瞭な話をするんだ。普通なら門前払いだろうね」

それが偶々、養父は認知訶学を知っていた。双葉ちゃんの母である若葉さんの研究だった。二人はどういう関係だったのだろう。

「国を支配するために邪魔な人間を自分は手を汚さず、疑われずに消すことが出来る提案なんて、断るわけがない。それも相手が子どもだ。簡単にやり込めるし、いざとなれば消してしまえばいい」

二人の間にあるのは血の繋がりなんて無関係な、表向きの利害の一致だけだった。その腹の中では何を考えているのかわからず、ずっと不安を抱えていく道を選んだのか。一呼吸置き、明智くんはわたしの顔を見て自嘲する。

「そうなれば全部、怪盗団じゃなくて僕がやったことにされるのかな。自作自演の偽りの名探偵として」

まあ、僕が犯人なのは本当なんだけど、と楽しい話でもないのによくある事のように笑った。確かにそれは否定できない、だけれど、胸が痛くて、苦しくて、呼吸が乱れるのは何故か。

「偽りなんかではありません」

震える声で呟いた言葉に、明智くんは目を見開いたあと呆れて息を吐いた。ソファに深く座り直し、背もたれに肘を付き、こちらに身体を向ける。

「……話、聞いてた?」

「確かに事件のことはそうなのかもしれません。でも、明智くんが明晰な頭脳を持っているのは本当です」

「何それ」

「全国模試だって一位ですし、テレビで人気なのも機転が利くからでしょう。それに……手段はどうであれ、一人でここまで……」

自分でも見当外れなことを言っている自覚はあったが、真面目に取り合ってはくれないと分かっていても、どうしても伝えたかった。どうしてその強さを、自分の意志を持っている貴方は復讐を選んだのか。悲しさなのか、羨ましさなのか、胸のうちはぐちゃぐちゃになっていく。ただひとつ、はっきりとしている、彼とわたしの決定的な違い。

「わたしには、無理かもしれません」

「……無理って、何が?」

「何かを成すこと、わたしであること」

「君は獅童の人形だったからね」

「そうですね……」

USBを取りに行く計画も、暁くんの冤罪をはらすことも怪盗団の邪魔をするだけで、何一つ果たせないかもしれない。それに、わたしには自分を棄てた両親を探して復讐するなんて思いつきもしなかった。早いうちに獅童が養父となり、その待遇は人には言えないものだったから、もし復讐するならばわたしも養父を標的にするのだろうが、従順に躾けられたことでそんな感情が湧くことはなかった。

「でも、今は僕のものだ。難しいことは考えなくていい」

背もたれに添えられていた手が、膝の上で握りしめていたわたしの両手に触れた。右手だけ掌を向けられ、重ねられた彼の細く長い指がわたしの指を絡めとる。彼も人形を求めていた。使用用途は不明だが、利用価値があるということなのだろう。握り返すべきか戸惑い、視線をさ迷わせていると明智くんはいつものように微笑んだ。

「僕も少し休もうかな。お腹空いたら起こして」

「でしたら、ベッドで横になっては」

「ううん、ここがいい。今日はこのままでいさせてよ」

先程とは逆で、明智くんがわたしの肩にもたれ掛かり、もう一度強く手を握りしめる。どうするべきか悩んで、望まれていることと思い軽く握り返すと、小さく呟く声が耳に届く。何を言っていたのかまではわからなかったが、黙っていると静かな寝息が聞こえてきた。
あの夢が現実になるのを避けるには、彼の計画を止める必要があるのではないか。しかし、詳しい内容がわからなければ、どう動くべきかも考えようもない。実父である獅童を総理の座につかせたその後に何かをするらしいが……、今までの傾向から尋ねれば答えてくれるだろうか。
ふと、思った。この計画が終わった後の明智くんはどうするつもりなのだろう。罪を償う、偽りの探偵のまま過ごす、それか、全てを隠蔽し消える。思いつくものはどれも続きがない。それを理解していてこの先も進もうとしているのに、隣で穏やかに眠っていられるなんて、不思議でならなかった。

「……わたしに、何を望んでいるのです……?」

本当に怪盗団への撹乱のためなのか、養父に対して有効に使う手段を見つけたのか。問いかけは届かず静寂が広がる。わたしを欲した理由はなんなのだろう。いくら考えても答えは出ない。身動きが取れないせいで深く長いため息が出た。
視線が、合った気がした。体育教官室で暁くんとすれ違ったとき、レンズにはわたしが映っていた。その向こうの黒い瞳も同じ景色を映していたならばと思ってしまうのはやはり身勝手な願いか。指先が触れたのも勘違いだ。しかし、たったそれだけのことで仮面にヒビが入ってしまった気がして、空いた手で頬に触れると、少しだけ熱を持っていた。
(2020/4/20)

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