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数時間なのか、数日なのか、もうわからない。引かない痛みももうわからない。身体はあれから動かすことは出来ず、意識も何度か飛んでは取り戻しての繰り返しだ。獅童の選挙はどうなったのだろう、早くこの時間が終わって欲しいのに。扉の向こうの音を聞く余裕もなく、ただ身体を丸めて時間をやり過ごしていた時だった。不意に自分ではない声を聞いた。
「ごめんね、遅くなった」
誰かの手が優しくわたしの頬を撫でる。獅童ではないと確信し、閉じていた瞳を一生懸命開けると目の前には立ち膝で不安そうにのぞき込む明智くんがいた。
「……あ……け、く」
暫く口を開くことがなかったせいか、上手く言葉を発せない。見かねて明智くんはわたしの唇に指を当てて微笑んだ。
「無理しないで、とりあえずここから移動しないといけないから、もう少しだけ我慢して」
移動、とはどういうことだろう。イセカイの力を使ってわたしを消しに来たのではないのか。どちらにしろ、歩けない者を抱えては、この家から出ることなんて出来やしないのに、着々と手足に添え木をし応急手当をしていく。自白剤はそれなりに抜けた気がしたが、頭がまだ霞がかったまま思考は働いておらず、痛み止めと差し出された錠剤を何の疑いも持たずに飲んだ。
「これでマシになるといいんだけど……、じゃあ、動くよ」
剥いだベッドのシーツでわたしを包み抱える。反対の手には携帯を持ち、それは赤と黒の怪しい見たことのある画面になっていた。
「『獅童正義』『国会議事堂』『船』」
『ひっとシマシタ。なびげーしょんヲカイシシマス』
目の前の空間が歪む。この感覚は久しぶりだった。はぐれてしまいそうで動く右手で明智くんのブレザーを掴んだ。
開けた視界、瞳を閉じていても入り込む強い日の光、聞こえるのは水の動く音。広がるのは水平線で、多くのビルが水の中に沈み、上の数階部分のみが顔を覗かせていた。まるで世界の終わりのようだ。こんな何もない世界が獅童の望む世界?
「獅童の望むものなら、もう少しで通るよ……ほら、あれがそうだ」
波を掻き分ける音が次第に大きくなっていく。共に聞こえるのは何かの機械音。遠くの水平線からやってきたのは巨大な船だった。その甲板に乗っているのは離れていてもわかる、国会議事堂だ。あれが獅童のパレス、これが獅童の願い。
「議事堂に入れるような選ばれた人間以外は要らないらしいよ、君の養父は」
「……」
だからビルは水没し、大地はなく、見渡す限りの水平線しかないのか。このビル群にきっと人間は誰もいない、そういう認知だろう。わたし自身もこのイセカイには存在していない気がした。
「さあ、置いて行かれる前に、あの船に移動しよう」
「……どう、やって?」
「もちろん、この力を使って……顕現せよ、ケルベロス!」
明智くんの顔に一瞬だけ赤いペストマスクのようなものが現れ、それに手を翳すと同時に纏わりついた青い光が霧散し、再び集まると何もない場所に尻尾は甲殻類のような黒く、長い、白いライオンが現れた。低いうなり声をあげ、わたしたちを見ていたが、緩慢な動作で歩み寄ってくる。これは明智くんのペルソナだ。
「少し痛いかもしれないけど、もうちょっとだから」
そういうと、明智くんはわたしの身体を横抱きにし、態勢を低くしたケルベロスに乗る。出来るだけ痛まないようにしてはくれているのが伝わったので、声を上げないように歯を食いしばった。そのまま船を目指してケルベロスはビルから走り、宙を駆ける。羽もないのに飛べるなんて、明智くんの力のおかげだろうか。まだそう遠くへは行っていないと思っていたが、船が大きいせいで、そう見えただけだった。
移動している間に、落とされないように掴まっているすぐ隣の明智くんへ、疑問を投げかけてみる。
「……どうして、明智くんは助けに来てくれたのです?」
彼は獅童側の人間で怪盗団を消したがっている。現に今回怪盗団の味方のふりをして暁くんを現行犯逮捕したのは、彼の仕業だろう。怪盗団についたことで、わたしに対して獅童は逆上していた。助ける対象ではないはずだ。
「瀬那さんは僕のものだから。やっと手に入れたのに、獅童の好きにはさせたくない」
「やっと……?」
「なんでもない。まあ怪盗団に対して、いい人質になるかなって」
「怪盗団?」
「今からあいつらに会いに行くんだ。獅童を改心させるために、このパレスを攻略してるに違いない」
パレスの攻略? 暁くんがいないのに……、いや、逆だ、明智くんのいうあいつというのは暁くんのことではないか。暁くんがいる? 逮捕されたのに……、わたしと同じ扱いを受けたはずなのに、無事だったっということ?
「……狡いなあ、暁のこと教えただけで嬉しそうな顔するんだからさ」
「そんなこと」
「あいつ、俺が確かに取調室で殺したはずなのに、どういう訳か生きてたんだ。計画が全部狂って大変だよ」
「こ、ろし……」
わたしを支える逆の左手で親指と人差し指だけを立て額を指さし、ほくそ笑む。喉の奥で空気が鳴った。まさかイセカイのシャドウだけでなく、現実世界でもその手を使うとは思わなかった。
「後始末はきちんとつけないとね、俺もやるべきことがあるんだ」
以前に話していた、獅童への復讐。そのためには怪盗団を消さなければならない。そうか、それを確実にするためにわたしは連れ出されたのか。最終的に消されるとしても、獅童の元にいるよりも明智くんの方がいい。どうせ動けない身体だ、暁くんにもう一度会えるなら、上手く利用してもらおう。傷つけられたせいか、わたしの決意はそれほどまでに鈍っていた。
議事堂の船の甲板に降り立ち、当たりを見回す。水を掻き分ける音と沈まない赤い夕日が変わらずあり続けている。ケルベロスから降りた明智くんはわたしを横抱きにしたまま、議事堂の中へ入っていく。と、その姿が、赤い仮面と白い服の戦闘態勢に変わった。
「大丈夫なのです……?」
「ああ、まだ獅童は俺を敵だと思っていない。これは外部から来た人間を警戒しているだけだ」
「でも、わたしは」
「問題ない、顔は隠しておけ」
言われるがままシーツで顔を隠しておく。隙間から覗き見たのは、議事堂内にいる認知上の乗客までもが仮面をしているということだ。スーツにドレスというフォーマルな装いだが、まるでパーティのようで、議事堂には相応しいとは言えない。ひそひそと何かを話しているが内容までは聞き取れなかった。螺旋階段を何度か回り、明智くんの足は止まる。
「卑しい子供の人形ね」
「これを飼っていただなんて、獅童さまは慈悲深いお方だ」
「見た目だけは綺麗ね」
「何でも言うことを聞いてくれるらしいぞ」
「わたしも一つ欲しいわ」
階段の広い踊り場に人だかりが出来ていた。その中央に置かれていたものにわたしは釘付けになる。大きな鳥籠の中に入れられた、あの幼い子供を模った球体人形は……。
「あれは……」
「わたし……?」
子どもの頃の何も知らなかったわたしだ。見た目は乗客の言っているように綺麗だが、衣服は布一枚乗せられているだけ。手足に鉛の枷を付けられ、似合わない豪華な椅子に座らせられて、瞳を開けたままぴくりとも動かない。そして、鳥籠の上から四肢や頭へと糸が伸びていた。獅童の中のわたしは本当に人形だった。
「夢を……夢を見ていたんです。いい子にしていれば、言うことを聞いていれば、いつか本当の家族になれるんじゃないかって。そうすれば、無視をされることも、殴られることもなくなるんじゃないかって」
子どもの頃のわたしは、施設から抜け出して自由を手に入れただけでは飽き足らず、家族も望んでしまった。結局どちらも手に入れることは出来なかった。
「だって、最初から獅童はわたしの名前なんて呼んでくれなかった……」
耐えられなかったものが一筋、頬を伝う。それでもいつか、いつかと藁でもすがる思いでいた。行き場のないそれは、その内風化し、諦めになり、人形のように……奴隷のように、全てを獅童の思うがままに行動するようになっていった。
「瀬那さんはこれをどうしたい?」
わたしの顔を見ずに、明智くんは強い口調で尋ねる。そんなの決っている。
「……全部、消してください」
獅童の中の人形なんて跡形もなくなくなればいい。そう告げると、明智くんはゆっくりと人形を囲む乗客の輪に割り込んでいく。
「な、なんだお前は」
「すみません、とある方からこれを処分するように言われまして」
「しょ、処分?」
「危険ですので、さっさと離れた方がいいですよ」
有無を言わさぬ言動で仮面に手をやると青い光となり、一瞬で人形が炎に包まれた。乗客は次々と悲鳴をあげて散り散りに逃げ出していく。残ったのはわたしを抱えた明智くんと、少しだけ残った鳥籠と、灰になった人形だけだった。上手く声を出すことが出来ず、何とか絞り出したありがとうの言葉に、聞こえていなかったのか特に反応を示さなかった。
「行くぞ、誰かに見つかったら面倒だ」
燃やして失くしたからといって、全てがなかったことに出来るわけではないが、あの人形のわたしはこれ以上誰かに晒され続けることはなくなったのだと安堵した。しかし、先を進んでいるらしい暁くんたちには見られてしまったかもしれないと思うと、何とも言えない気持ちになった。
(2021/3/25)
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