花の咲く場所4
じりじりと容赦なく照りつける日差しを障子越しに感じつつ、今日も今日とて審神者は日々の業務をこなしている。
冷房を稼働させているだけあって、屋外よりも多少は過ごしやすいものの、如何せん、一度部屋から出れば…灼熱地獄。
故に冷房の設定温度は健全な28度。
と、まあ快適には程遠い環境ではあるが、体を崩すよりはマシだと審神者は考えている。
それに、空調設備が整っている部屋には限りがある。
いくら増改築自由とはいえ、その設備投資や維持費については審神者の出費だ。
限られた予算内でやりくりするのだから、使いたい放題という訳にはいかない。
よって、冷房設定やらしよう時間などは各部屋ほぼ共通の決まりとなっている。
「今日も暑いなあ。きみ、ちゃんと水分は摂っているかい?」
「見れば分かるでしょ。こっちの様子を伺う暇があったら手を動かして。近侍代理さん。」
「新倍せずともこちらの進捗は上々だぜ。それに、代理も何も近侍は近侍、だ。」
「はいはい。口数の減らないことで。」
「ん?きみは寡黙な男が好みなのかい?成程、それで伽羅坊を指名したって訳か。」
「鶴という生き物は物忘れが激しかったっけ?」
「相変わらず冗談が通じないなあ。」
「何時でも通じるとでも?」
双方互いに視線を送らず手は口と違う作業を淡々と行っている中、先に一段落したのは鶴丸の方で、ふと一息つくように手を止めて傍にいる審神者へと視線をやった。
向けられた視線に気づくわけでもなく、審神者は今もなお液晶に映し出された文字を追いながら手をしきりに動かしている。
彼女の指先がキーボードに触れる度、カタカタと打ち込む音が静かな室内に響くのだ。
このキーボード、彼女が慣れ親しんで現世から持参した数少ない物の一つである。
政府支給の備品の入力機器は文字を打っている気がしないというのが彼女の意見だった。
彼女にとっては仕事を進めるのに便利だからというただそれだけの理由だが、物からすればわざわざ現世からここへ持ち込まれるだけ愛用されている時点で羨望の対象となる。
いや、こうして現に近侍として、戦刀として彼女に使われているのだから申し分はないのだが。
それでもどこか物足りないのは何故なのだろう。
手入れなど滅多に触れられたことないその手。
触れられたい、触れたいと思うのは物故の性なのか。
ぼんやりとそんなことを考えながら、鶴丸が頬杖をついて審神者を眺めていると、漸く一段落着いたのか、審神者が大きく息を吐き出して肩の力を抜いた。
「ふう、ちょっと休憩…って、何。そっちはもう終わったわけ?」
「いや、こっちも一休みってわけだ。」
「ふーん。口数に見合うだけの進捗?」
「ああ、勿論だ。主殿の仕事ぶりに負けない勤めを果たしたつもりだぜ。」
「へー、それじゃあこの仕事も追加で。」
「こりゃ驚いた。きみ、そうくるのかい。」
「優秀な近侍様にはそれ相応の務めを与えなくては。」
「ははっ、それじゃあ主の期待に応えるとするか。」
「十二分に期待しているので、よろしくお願いします。」
「調子が良いねえ。」
「それはお互い様かと。」
ああ言えばこう言う。
鶴丸にとってこの一連のやりとりが飽きないのだ。
己が投げかけた言葉を素知らぬ振りして受け止めないかと思えば、さらりと受け手は投げ返してくる。
ぽんぽんと続く会話の掛け合いが堪らく面白く、次はどう出るのかを考えては、返って来た反応を素直に楽しんでいる。
返答が予想通りであれば想定通りと満足し、思わぬ変化球であればこうきたかと感心する。
少なくとも一日中話し続けていたいくらいには気に入っていた。
そう、彼女の手元で使われている“奴”には一生出来ないことである。
ふとその事実に気づくと、鶴丸の中で先程感じた物足りない心地が幾分か埋められたような気がした。
「無言でニヤつくのは止めて。傍からみるとヤバい奴にしか見えないから。」
「心外だな。俺は今あることに気がついて気分が良いんだ。」
「ねえ、否定して。ヤバいってところ。普通に引く。その笑みはヤバいから、引く。」
「ほお、どんな笑みなんだい?教えてくれないか?」
「遠慮するし知る必要もないから。とりあえず仕事再開して。ほら、仕事。」
この話はこれまでだとばかりに審神者は手を振ると、僅かばかり鶴丸へと向けていた体を正面の液晶画面へと戻した。
そんな審神者の言動がどことなく面白くて、今度はくすりと一笑する。
そして、鶴丸もまた新たに追加された仕事に取り掛かるかと思えば―――。
「時に主。きみは夜伽を命じないのかい?」
「……………は?」
唐突に、そう、本当に唐突に口にされた言葉に、審神者は一瞬意味を理解しかねて固まった。
暫しの硬直の後、ゆっくりと鶴丸に向けられた顔は、至極不審げなものだった。
「暑さで頭が逝かれたの?折れるの?」
「まさか。俺は至って正常だし、折れる気もないぜ。」
「………ならいいけど。」
憮然とした表情を崩すことなく、審神者は再び視線を鶴丸から液晶へと戻す。
黙々と手を動かすその背中からは、これ以上その手の会話はするなという雰囲気が漂っている。
鶴丸は無言の圧を発し続ける主へ視線に暫くの間視線を注ぐも、彼女の纏う雰囲気を察して口を閉ざした。
鶴丸とて今更彼女の人柄を試すつもりで件の発言をしたわけではない。
単に興味本位で問うてみただけの話。
それくらいの程度であった。
敢えて付け足すのなら、先の、彼女が仕事で良く触れる“奴”から連想して、とでも言おうか。
触れる触れない云々から、そう言えば今の主は人と物との交わりについてどう捉えているのだろう、と。
単純に“そちらの方向”へ捉えてしまうあたり、鶴丸自身、前の主とのやりとりに毒されているのかもしれない。
政府がどのように過去のこの本丸を見ていたか知らないが、少なくとも鶴丸にとっては別段前の審神者にそれほど敵意や憎悪がある訳ではない。
ただ手のかかる人の子ぐらいの気持ちで、仕事に躓き拗ねている時は頭を撫でてやったりしてあやしたものだ。
無論鶴丸以外にも、振るわない戦績や思い通りにいかない鍛刀に拗ねてしまった元の主に対して慰めたり宥めたりしていた刀はたくさんいた。
そうした延長線と言うと些か語弊があるものの、周囲が優しくしていると次第に彼女の求める行為が過度なものへと変わっていき、行き着いた先が男女の“それ”だった。
思い通りにならない現実に、打ちひしがれた彼女がとった逃避方法だが、誰彼かまわずに手を出したという訳でもなく、行為を良しとしないものに対しては無理強いをしなかったため、彼女なりに最低限の分別はあったらしい。
それに、ある程度慰められて落ち着けば、また放棄していた職務と渋々ながらも向き合っていた。
だから不満を持つことはあっても、謀反を起こそうと考える男士はいなかったし、危ういながらもギリギリのところで本丸の運営が保たれていた。
少なくともその当時の段階では。
政府が成績不良という判定を下した段階で、客観的に見たら、遅かれ早かれ駄目だったのだろう。
思っていた仕事と違う。
私には向いていない。
前の審神者が不貞腐れて涙目で何度も愚痴を溢していた言葉だ。
人にも物にも向き不向きはある。
物の場合、不向きと人が思えば使われなくなるだけの話だが、人の場合はどうだろう。
たとえ自分に向いていなくとも、課せられた役目を全うしなければならいこともある。
己が能力を把握し不得手ながらも何とか乗り切れる者、乗り切ろうとする者はいい。
しかし、それが出来なかった者、それが前の審神者だった。
では、今の主はどうだ?
引継ぎ当初より近侍を置く気がない、言葉で以て距離を取る態をみるに、男士たちと極力関わる気がない、もしくは、関わりたくないという意思を持っていることは分かる。
そういう方針だと言われてしまえばそれまでだが、彼女を観察していた鶴丸が思うに、恐らく彼女は審神者という職に望んで就いたわけではなさそうだった。
前の主のように言葉でこそ口にしないものの、纏う雰囲気や言動から察せられた。
少なくとも就任当初は。
変わったのは最初の演練の頃からだろうか。
彼女の中で何かしらの折り合いがついたのかもしれない。
言葉も態度も当初より砕けたことで、鶴丸たちとの距離も縮まった気がした。
それでも彼女の中にある一線は明確にあるようで、完全に心を許したと言うわけでもないことは、日々のやりとりから感じられる。
これもまた鶴丸の憶測だが、彼女の言葉で言えば、仕事における線引き、とでも言うのだろう。
「言って置くけど、命じる気はないから。」
「ん?」
「さっきの問いの答え。自分の性欲処理のために本丸の誰かにそれを強要する気は更々ないってこと。だからみんなもしたきゃ花街にでも行けばいいよ。まあ戦いに身を置いている以上、最低限の節度は持ってほしいけど。」
視線こそ向けられてはいないものの、審神者の口調はいつもの軽口を叩く調子ではなく、至極真面目なものだった。
突拍子もない問いを投げかけた自覚があるだけに、これには当の鶴丸も面を食らった。
ぽかんと、呆気にとられた表情のまま、暫く彼女の背を凝視していると、反応が戻って来ないことに痺れを切らした審神者がくるりと体ごと鶴丸に向き直る。
「まだ不満?」
「あ、ああ、いや、全然ない…が。」
「『が。』?」
「ああ、悪かった。全く不満はない。十分だ。」
「溜め込まれて後で『実はありましたー。』なんて言われるくらいなら、今さっさと吐き出してくれた方がマシだけどね。まあ後出しするなら罰として…」
「罰として?」
「一週間光忠さんと畑当番コースご招待。自然と対話しつつ生存値もあがるかもしれない特典付き。」
にやり、とあくどい笑みを浮かべる彼女のまあ楽しそうなこと。
恐らく真面目な心情を吐露した照れ隠しも含まれるのだろう。
問いに答える気はない素振りをみせるも、結局、無視しきれずに審神者なりの言葉で応えてくれる。
それが無性に嬉しいのだと、きっと彼女は知らない。
「全く、これだからきみって奴は…。」
「良い性格してる、でしょ?褒め言葉として受け取っておきます。」
「まだ最後まで言っていないんだけどなあ。」
「どうせ碌な内容じゃないんでしょ。なら言われる前に言います。」
「おっと、聞いてみなきゃ分からないだろ?」
「なら聞くに値する讃美の言葉なんですかね?」
「きみが素直に聞き入れてくれるのなら、だな。」
「そこまで言うなら、続きをどうぞ。」
どんとこい、とばかりに姿勢を正して臨戦態勢の審神者に、鶴丸が放った一言は。
「堪らなく愛おしいんだよなあ。」
どこからどうみても盛大な愛の告白以外の何物でもない言葉に、流石の審神者も固まった。
先程の夜伽云々でも言葉の意味は理解して冷静に対処できた彼女も、今回ばかりは思考が停止した模様で、いつになく目を見開いたまま、返すべき言葉を見失っている。
そして、言った当の本刀はといえば、自身が口にした言の葉に納得したらしく、満足げに頷いている。
「ん、どうしたんだい?きみ、顔が赤いぜ?」
「誰のせいだと……、信じらんない。そこでそう言うこと言う?」
「なんだ、嘘だと思うなら何度だって言うぜ。」
「言わなくていい!そしてその不快な笑い顔をなんとかしなさい。」
「いやいや、まさかきみがそこまで恥らってくれるとはなあ…良い驚きをもらったぜ。」
「おのれ…自分の容姿の使いどころを理解しやがって。覚えてろよ…。」
「ははっ、いいねぇ。そんな顔も出来るんだな。」
「…………もういい。分かった。」
途端、審神者の声色が変わったかと思えば、再び鶴丸に背を向けた。
不利な状況から逃げるように中断していた仕事を再開するのかと思いきや、彼女が手を動かしたのは数分のことで、無言のまま鶴丸に構うことなく立ち上がると、そのまま執務室の障子に手をかけた。
「少し出かけて来ます。護衛は三日月に頼むので、仕事が終わったら自由にして。」
「あ、おい。きみ、出かけるってどこに行く気だ?」
「政府へ。明後日期限の書類があるでしょ。どうせ後は提出するだけだったから、今出しても支障はないし。」
「それなら俺も一緒に「残りの仕事。」
ぴしゃりと言い切られると同時に、審神者の手に寄り障子が開けられる。
相変わらず向けられない視線に、やりすぎたかと鶴丸が思った矢先、審神者がくるりと振り向いた。
憮然とした表情のままべっと舌を出したかと思えば、そのまま障子を閉じて去って行った。
まさかそこで幼稚な悪態をつかれると思わなかった鶴丸は、暫くぽかんと呆気にとられたままでいたが、我に返った途端、腹を抱えて笑った。
「いやー、参ったねぇ。こりゃ驚いた。いやいや良いもんを見せてもらったぜ。」
誰に言うでもなく一振り、至極愉快げに閉ざされた障子をみやって言った。
審神者に告げたとおり、先程の言葉に嘘偽りなどない。
あの言葉の真意を最終的に彼女がどうとらえたのか、本人ではない鶴丸には分からない。
恐らく彼女はあらぬ誤解をするよう仕向けられたくらいに感じているのだろう。
そして、先の言葉は神が人の子を慈しむ慈愛やら、親兄弟に対する親愛やら、そういう類のものなのだと思うのだろう。
だがそれだけではない。
それだけではないことを告げた当の付喪神自身が、今、自ら言の葉にしてみて漸く自覚に至ったのだ。
腑に落ちるとはこのことを言うのだろう。
ともあれ、彼にとって顕現して一年が過ぎる折、季節とちぐはぐの春の到来であった。
*****
「主や、主。そのように忙しく歩いてどこへ行くのだ?」
「…………。」
「ん、もしやこれがうおーきんぐぅというやつだな。どれ、俺も主に倣うとするか。」
どうやらたまたま指名(というよりもこちらが捕まった)した随行者は、やはりというか、なんというか、のほほんいつでもどこでもマイペースらしい。
やたら長い廊下を黙々と歩く私に対し、数歩遅れるもしっかり振り切られずに付いて来る。
きっと口調と歩調とが釣り合わない速度になっていることだろう。
それが今の私にとって余計に苛立ちを覚えたものの、ここで八つ当たりをするほど幼稚ではない。
それに、しようものならさっきの出来事を大いに気にしていますと言外に肯定しているようなもの。
落ち着いて、落ち着いて。
冷静に、冷静に。
脳内で自分を宥めながら、目の前の表札を確認して立ち止まった。
「おお、ここがごぉうるだな。」
「おじいちゃん、良い子だからお口閉じて。」
「主よ、じじいは幼子ではないぞ。」
「子どもでないなら大人になって。三日月宗近さん。」
「あい分かった。」
つくづく刀選を誤ったと後悔するも、後の祭り。
まあ近侍任命騒動時点で彼がやってきたあたり、当初から問題だらけの道のりか…。
思い返しただけで意識が若干遠くなりかけるが、この場で過去に戻っている場合ではない。
大きく息を吐いてから目的の課へのドアを開き、部屋に乗り込んだ。
室内はそこそこの大きさであるにも関わらず、どことなく圧迫感を覚えるのは、恐らく壁や机に無造作に積まれた書類のせいだろう。
民間で電子化を勧めているくせに、当の推進側になれば電子媒体よりも紙に軍配が上がっているあたり、お役所仕事は今も昔も変わらない、変える気がないと言ったところなのかもしれない。
とはいえ、現世でいた職場もここに似たような具合だったのだが。
担当する職務内容ごと小さな島々のように区切られ、そこで各班員がそれぞれの端末を使用して職務にあたる。
人こそ違うものの、一見すれば元の職場を想起して、懐かしさやら悔しさやらが込上げてくる。
自分の連れている三日月以外刀剣男士がこの空間に存在しないことが、余計に過去にいるような感覚を覚えて、私は思わず目の前の彼らから目を背けた。
「審神者様、どのようなご用件でしょうか?」
「おお、そうだ。主、用件があって参ったのだろう。早く済ませて共に茶でも飲んで帰ろうか。」
周囲へ声をかけ損ねた私と三日月に気づいた職員の一人が、気を利かせて声をかけてくれた。
便乗して口を開いた三日月に促されるという失態を犯す破目になったが、おかげで現実を直視する機会を得た。
「失礼しました。来週の会議報告書の関係で伺った者ですが、御担当者のミサト様はいらっしゃいますか?」
「ああ、彼女ならあちらの席にいるので、ご案内いたします。」
「ありがとうございます。」
案内されるまま足を進めると、一つ奥の区画へと辿り着いた。
天井からぶら下がる“企画・調整G”という案内板を見るに、ここが書類の提出先らしい。
思えば政府から届いた提出先は課名までしか記されていなかった。
電子データを送付すれば終了というはずなのに、何故か紙での資料も提出を希望されるあたり、相変わらず業務の効率化はなっていない。
案内してくれた職員が壁際に座る女性職員へ声をかけ、漸く担当らしき相手と顔を合せることとなった。
「ミサトです。わざわざありがとうございました。」
「いえ、こちらこそ突然伺ってしまいすみませんでした。」
互いに形式的な挨拶を交わし本題の資料を彼女へと手渡した。
これで私の役目は終了のため、「それでは…。」と退出の意思を示そうと口を開きかけたところで、それを遮られてしまった。
「あの、もしよければ提出いただいた資料をもとに、当日皆さんの前で報告をしていただけないでしょうか?」
「え?ちょっと待ってください。流石にそこまでするのはできかねます。」
「そこを何とか…。実は報告会の日程調整を担当が勘違いしてしまって、その…説明者として檀上にあがる講師の数が足りなくなってしまったんです。」
「それはそちらのミスかと思いますが。」
眉を下げて至極申し訳ないという顔をしている彼女には悪いが、私がそこまで手を貸す筋合いはない。
そもそも政府側のミスをこちらに押し付けるのはどうなのか。
全く以て納得がいかない。
大体スケジュール管理を誤った張本人が責任をとるべきものだろう。
話す元ネタの資料がないわけでもないのに。
頷く気配のない私に対し、相変わらず困り顔のまま彼女は、「少々お待ちください。」と告げて、窓側で仕事をする上司の元へ向かった。
内容こそ断片的にしか聞こえないが、恐らくどうやってこちらを懐柔するかの算段を相談しているのだろう。
このまま持久戦に持ち込ませるのか、それとも何か交換条件を提示してくるのか。
彼らの尻拭いをするにしても、それなりの条件を飲んでもらわなければ手を貸すつもりはない。
どちらかと言えば、ただ単純に報告書を読み上げるだけに近いのなら、ここでうまい具合に貸をつくっておきたい。
無言のまま隣にいる三日月を見上げると、視線に気づいた三日月がにっこりと本丸で過ごしている時と変わらないのほほんとした笑みを浮かべてきた。
余計な口出しはしてくれるなと言外に視線で訴えかけてみると、云々と頷いてくれた。
そうこうしていると、話がついたミサトさんがおずおずと顔色を窺うようにこちらに戻って来た。
さて、どうでてくるのやら。
「先程の件ですが、勿論無償でとは言いません。報酬として資材を各1,000ずつ支給いたします。」
「確か政府の講師派遣に係る要領と規則がありましたよね?そちらに基づいた報酬は、正規職員だと日額9,700円。審神者の場合、正規でも特殊技能職員ですので、これに2.75をかけるとともに、特殊勤務手当として更に10,000円×審神者技能レベル、つまり、審神者としての経験値によって別途支給率がかかるかと思います。資材の現時点での相場は把握しておりませんが、それでも先程提示された額では釣り合わないかと。」
「あ、えーと。その……。」
「正確な報酬算定ができないのでしたら、こちらから人事課、もしくは厚生課に掛け合います。その上で報酬を確定していただきたいのですが。勿論、口頭ではなく書面での通知をいただきます。」
「し、少々お待ちください。」
青ざめて踵を返す彼女に、若手職員相手に少々意地が悪すぎたかと思うも、この手のやりとりは初手が大事。
下手に出れば扱いやすい、使い勝手の良い相手と認識され、今後も面倒事を押し付けられやすい。
だから、恨みを買わない程度に、かつ、面倒な奴だからなるべく穏便に済ませたいと思わせれば上々。
果たして結果は如何にと再び上司へ相談する彼女の様子を眺めていると、十分弱の協議の末、今度は上司とともにこちらへ戻って来た。
「審神者様、先程御依頼させていただいた件についてですが、後日改めてご連絡させていただけますでしょうか。勿論審神者様のご指摘がありました報酬額について、該当部署に確認いたしまして適切な額を算出いたします。」
「承知しましたが、ご連絡はいつ頃いただけますか?。」
「では明後日でもよろしいでしょうか。」
「はい。内容を拝見させていただいた上、回答させていただきます。ですので、場合によっては引き受けかねることもありますので、その旨はご了承ください。」
「ええ、それでは……。」
完全勝利…にはまだ至らないものの、漸く話がまとまったところで、軽く会釈をして彼らと別れようとした折、背後でドサッと何か物が落ちる音が聞えてきた。
振り返るとそこには呆然とした表情でこちらを見る女性職員がいた。
彼女の視線は床に散乱した書類でも私でもなく隣の三日月に向けられている。
つられて私も三日月を見上げてみれば、当の三日月は「ん?」と首を傾げて私を見つめてきた。
流石にこのまま互いに顔を衝きあわせている訳にもいかないので、視線を再び目の前の彼女に向けると、ここで漸く私の視線に気づいた彼女は、我に返ったものの、今度は顔を背けてしまった。
仕方がないので床に落ちている書類を集めて拾ってから、未だ目を背けている彼女へと差し出した。
「どうぞ。」
「…………。」
書類を受け取ってもらえただけマシとでも言うように、彼女は言葉どころかこちらへ頑なに目を合せない。
そんなに私の顔は見るに耐えないのだろうか。
あまりの拒絶具合にこちらが不安を覚え始めると、先程別れるはずだった二人のうちミサトさんが割って入るように口を挿んだ。
「ああ、すみません。ほら、あなたもお礼を言って。」
「……ありがとうございました。」
「いえ、気にしないでください。」
何故書類を拾っただけでこんなに気まずい雰囲気にならないといけないのか。
遠い目をしながら浮かぶ疑問を解決してくれたのは、この場にいた彼らではなく、これまた唐突に現れた第三者だった。
「審神者様、ここにいたんですね!」
「あなたは…」
毎月面談などで何かと顔を合せている私の本丸の担当職員だった。
あなたはできるからとにかく頑張れとテキトーな激励をして去って行ったのは、数か月経った今でもはっきり思い出せる。
今となっては杞憂で終わった引継ぎだが、あの時は本当に堪ったものではなかった。
ともあれ、何故担当が私を探しているのか。
急を要する案件は思いつく限りない。
ならば突発的に起きた問題だろうか。
よくよく担当を見れば肩で息をしているようで、笑顔を作ってはいるものの、どことなくぎこちなかった。
視線をちらちらと余所へ向けてはこちらを見ているせいもあって、挙動不審に拍車がかかっている。
「あの、何か非常事態でも起きましたか?」
「あ、あー、いえ、そういう訳ではないんですけど、いや、でも…マズイといえばマズイ…。」
「何か?」
「あ、ああ、とにかくですね。話は外でさせていただきます。他所の課で長々と話すものでもないので。」
「はあ…。」
何をしに声をかけて来たのか不明のまま、半ば強引に部屋の外へと連れ出された。
気になるのは、私や三日月というよりも先程書類を落とした彼女に担当の注意が向けられていたことだ。
疑問点が増え出した私が口を開くより先に、担当は近くにあった会議室へと私たちを誘導した。
「先程は大変失礼しました。実は少々不測の事態が起こりまして…。実はあの場にいた女性職員は、審神者様の前任者で…その、要注意対象の本丸での引継ぎでは、前任と後任の接触は極力避けるようにという規則があります。」
「……………。」
開いた口が塞がらなかった。
馬鹿じゃねーの?…と言った罵詈雑言が衝動的に漏れなかっただけ偉いと自分でも思う。
配慮もなにも、あの部署の依頼でこちらは通常職務とは余分に面倒な報告書を作成した訳で、更に言えば彼らのミスをフォローする流れになっているというのに。
絶句する私を余所に担当は心底安堵したらしく、その表情にあった不自然さはもう見られなかった。
いや、安堵していい状況じゃないと思うが。
「前任の彼女は人事異動という形をとってあそこに配属されました。なにせ審神者を止める理由が理由だったので、極力刀剣男士とは関わらせないことを条件付きですが。」
「先程の規則云々で言えば、前任の現状を後任に簡単に話しても大丈夫ですか?」
「ああ、それは…今の事態を説明するには致し方ないと言いますか…。できれば内密にしていただけませんか?」
「分かりました。事情を知ってしまった以上、こちらも極力前任とは接触しないように努力します。ただ、先程私が提出した資料について、今度の報告会にて説明してほしいとあそこの課より依頼がありました。」
「え、そうなんですか。あの会議の講師は通常人事課、もしくは、管理課の者がすることとなっているはずですが…。」
「実はその講師の日程管理を向こうの不手際で人員が足りないそうです。」
「そんな!え、えっと、確かスケジュール担当者は……。」
慌ててスーツの胸ポケットから携帯端末を折り出した担当は、数秒後、頭を抱えて机に突っ伏した。
なんとなく、いや、うん、なんとなくだが、恐らく件の日程調整の担当者が分かった気がする。
この場に鶴丸や和泉守を連れてこなくて良かった。
本当に良かった。
担当同様に頭を抱える私を余所に、隣に座る三日月は相も変わらずほけほけとしている。
一振りだけ余裕綽々とはこれ如何に。
「誠に申し訳ない次第なのですが、その…当のスケジュール管理を務めているのが彼女でした。」
「…でしょうね。」
「事務分担の経緯は不明ですが、恐らくリハビリ感覚で仕事に慣れやすいものという配慮かと…。」
「私が言うことではないですけど、前任の異動理由を鑑みれば、一番任せてはいけない類の仕事では…。」
「はっはっはっ、まあよいではないか。政府に恩を売れるちゃんすと考えればいい。なに、俺で良ければいくらでも力になってやるぞ。」
「気持ちだけで十分。それに、言い難いけど、あなたは彼女と接触させられない一番の問題刀だから。」
「んん?俺がか?」
「以前和泉守が言ってたでしょ。あの子、月狂いだって。あなたは何も悪くないけど、向こうが気にしてトラウマ再発しかねないから。」
「そうだったか。だが安心するといい。俺は主の刀だからな。」
「いや、だからそうじゃなくて…もういや、ありがとう。」
「うむ、よきかな。」
「審神者様、本当にありがとうございます。」
「いえ、そちらも…本当にお疲れ様です。そう言えば、私があそこにいることがよく分かりましたね。」
現状を見るに、政府の配慮の程度は高が知れるものの、思いつきで政府へ赴いた私の行先をよく分かったものだ。
漸く浮かんだ疑問を口にすれば、担当はまたも青ざめて再び額を机にくっ付けた。
「申し訳ありません。失念しておりました。」
「謝罪はいいので経緯をお話していただけますか?」
「実は―――」
恐る恐る顔を上げた担当が口を開くも、言葉は外からの来訪者により掻き消された。
入室のノックがあって数秒後、ドアが開いた先にいたのは、鶴丸国永。
どこぞの鶴丸国永かー、相変わらず唐突だなー……と、他人事のように話せたら良かったが、残念ながら彼は私の本丸にいる鶴丸だった。
「水臭いじゃないか。密談なら俺も混ぜてくれないかい?」
「なんでここに……いや、いい。もういい。分かった、原因はあんたか!」
「察しの良い主殿で助かる。いやなに、帰りが遅いからそこの彼に事情を話してこちらへ来たというわけだ。そうしたら、だ。きみの行先を告げた彼が血相を変えていなくなってしまったから、こりゃまた驚いたぜ。」
「……。」
「あの、事情は課内で話すと言われまして。何分こちらの鶴丸国永様には前任の審神者様のこともあって大変お世話になったものでして…。」
「でしょうね。」
ここに来てからずっと言い訳と謝罪を繰り返している担当者に、苛立ちを覚えるどころか、むしろ彼もまた諸々の被害者なのかと現実逃避したくなる。
それよりも今鶴丸がここにいるということは、果たして問題はないのだろうか。
担当が連れて来たのだから支障はないのかもしれないが、前任と後任の審神者の接触に配慮するのだから、前の主と刀剣男士との接触は政府的には大丈夫とみているのか。
にこやかな笑みで手を振る鶴丸に、引き攣り笑いしかできないでいる担当。
一振りと一人の間で何があったのかは、この際問わない。
ただ確認だけはしておきたい。
「あの、“この状況”、政府としては支障ないということですか。」
敢えてぼかして問いかけてみたが、疲労困憊中の担当の頭上には疑問符が三つほど浮かんでいるのが見えた。
駄目だこりゃ…。
もうこうなれば自分にとって大丈夫かを考えた方が良さそうだ。
鶴丸と前任、関係は険悪とはいかないが、良好とも言えない…でいいのか?
思い返してみても彼らの、彼の態度から前任を蛇蠍の如く嫌っているという風でもない。
ここに来る前の話題にしても、侮蔑とかそういう類の雰囲気とは凡そ遠いものだった。
まあそれでなければとっくの昔に政府から真っ黒認定されるどころか、今の職場に彼女はいないだろう。
それでも…やはり予告なしの接触は危険な気がする。
鶴丸…というよりも当の前任者である彼女の方が気がかりだ。
先程も私ではなく三日月にしか意識を向けていないあたり、和泉守が言う執着が残っていそうだ。
「おお、鶴。そう言えば先程お前の元主に会ってきたぞ。」
「「!!!」」
ぐだぐだ考えているのがいけなかった。
担当者が気づくより、私が行動を起こすより先に、隣にいるのほほんマイペースが暴露してくれた。
そこだけは空気読んでほしかった。
諸々の気力が削がれて非難する声も出ず、思わず三日月の袖を引くくらいの軽い抗議しか出来なかった。
担当者も漸くそこでこちらの言わんとしていることを察したものの、時既に遅しで口をあんぐりと開けて三日月を凝視している。
ああ、もう、どうするんだこれ…。
恐る恐るドアに背を預けている鶴丸に視線を向けると、彼は思いの外落ち着いているようで、それがどうしたとばかりに首を傾げている。
「まあそうだろうな。」
「驚かないんだ。」
「いやなあ…驚いていないわけじゃないんだが、どちらかというと納得した気持ちの方が大きくてだな。」
「もしや私が何か情報が漏れるような発言をしてしまったのでしょうか?」
「いや、明確なことは言ってないぜ。ただ政府のとある場所へ行くだけで血相を変えることなんて滅多にないだろ。それも書類の提出先だ。加えて俺が問い合わせた際、『あそこには彼女が…』なんてぼやいてたら、まあ会わせたくない奴がいるんだろうなと察しはしたな。」
「うむ、大きなヒントというやつだな。」
「…………。」
ヒントはヒントでも、テレビの懸賞のようなほぼ解答に近く感じるのは、私が当事者だからだろうか…。
完全に机に突っ伏した目の前の担当が、愈々哀れに思えてくる。
相手が悪かったと擁護しようにも、彼は彼で落ち度があるので、もうこちらが何を言っても慰めにならないかもしれない。
まあ当事者である鶴丸が冷静でいてくれるだけ有難いとしか…うん。
「とりあえずここに長居するのもいろいろと問題があるようなので、私たちはこれで失礼します。あちらから依頼された仕事については、改めて連絡をいただいてから受けるかどうか考えるつもりです。」
「そう…ですか。」
「もちろん今問題にあがった件については、最善の配慮をしますので、ご安心ください。」
「はい……。」
力のない声で何とか返事があっただけマシなのだろう。
彼は彼でこの後上に報告する任務があるわけだが、こちらはこちらですることは山ほどある。
ドアを閉める音が彼にとっての死刑宣告に聞こえていなことを切に願うばかりだった。
*****
その夜、夕餉を済ませた審神者は、一人執務室前の縁側で何をするわけでもなくぼんやりと朧月を眺めながら、政府でのことを思い返していた。
件の依頼の元凶となったのは、まさか己の前任とは思いも寄らなかった上、彼女は未だに過去を引きずっている。
審神者とて吹っ切れきれない過去だらけだが、それでも何とか今までやってきた。
負けたままで終わる気など、審神者には毛頭なかった。
勿論、そのために出来るだけの努力はしてきたし、彼女はしているつもりだ。
それだけに前任には多少なりとも思うところがある。
(会わなきゃ良かったんだけどね…。)
顔を突き合わすことさえなければ、見知らぬ他人で済んだものの、どうも顔を見てしまうと、途端その存在が現実味を帯びてくる。
ちらちらと片隅で燻る煙は、意識を逸らせば逸らすほど、審神者に纏わりついてくるように感じられた。
要するに、審神者は不満が消えないのだ。
以前から持っていたそれは、“彼女”を認識した途端、余計に顕在化した。
仕事に対する姿勢や今現在の姿。
どれを見ても、審神者は好きになれそうになかった。
「おいおい、そんなに眉間に皺を寄せちゃあ折角の器量が台無しだぜ。」
「………。」
ひょっこり現れた鶴丸に、審神者の顔は一層険しくなる。
不機嫌を隠そうともしない審神者に怯むことなく、鶴丸はそのまま彼女の隣へ腰をおとした。
「何か用?」
「用でもなけりゃきみの傍にいられないのかい?」
「悪いけど相手する気力はないんだけど。」
「前の主のことなら、きみが気にする必要はない。」
迷うことなく言い切られ、審神者は咄嗟に鶴丸の方をみた。
唖然とした表情の後、何故分かった?…、とでも言うように怪訝そうにこちらを見る審神者に、鶴丸はにんまりと笑ってこう答えた。
「何、簡単なことだ。きみは顔に出やすい素直な性格をしている。」
「馬鹿正直で悪かったね。」
「気に障ったかい?これでも褒めているんだぜ。」
「そーですか。それはどうも。」
「ははっ、拗ねるな拗ねるな。」
「はあ…。もう拗ねてることにするから、いい加減煽るのやめてもらえない?」
「煽ってるつもりはないんだがなあ…いや参った。今日はいつになくご機嫌斜めだな。」
「理由が分かっているなら、これ以上突っかかってこないでよ。感情に任せて八つ当たりしたくないから。」
「たまにはいいだろ。甘えたって咎めるヤツはここにいない。」
「甘やかされると駄目になりそうだから、嫌。」
「“あの子”みたいにかい?」
「………。」
途端口を引き結ぶと審神者はふいと視線を鶴丸から逸らした。
無言は肯定とばかりに鶴丸は視線を審神者から朧月へと見上げ、彼女に話しかける。
「きみはあの子にはならないし、なれないだろうな。だがそれが良い。」
「仕事で手がかからなくて?」
「それだけじゃないんだがなあ。」
「ああ、そう。でもまあ………」
言いかけて審神者は口を噤む。
鶴丸は続きを急かすことはせず、ただ彼女が再び口を開くのをじっと待った。
「正直ほっとした。あの子の方が良かったなんて言われたら、今までの努力を否定されるような気がしたから。」
「きみはきみ。あの子はあの子だ。だがまあ人も物もそこに在る以上比べられるものさ。」
「子どもの頃は単純だった。勉強さえ出来ればそれだけでいいから。もちろんそれ相応の努力はしたし、だからあの仕事に就けた。他の子がサボってたり遊んでいたりした分、机に噛り付いて馬鹿真面目に勉強した。まあ今となっては全く関係ない職場環境に置かれているけど。」
「戻りたいのかい?」
「……分からない。でも、今の仕事を投げ出したくはない。配属された以上向き不向きだけで易々と放棄できないし、したくない。…って、偉そうに言っても、上から戦力外通告をされたらどうしようもないんだよね。」
仕方ない。
自嘲するようにフッと笑いながら呟いた審神者の言葉は、どこか彼女自身に言い聞かせているように聞こえた。
そこで鶴丸は、以前審神者を試した和泉守とのやりとりの際、彼が審神者に言った言葉を思い出す。
向いていない。
あれは売り言葉を買っただけではなく、恐らく彼女の触れられたくないところに触れてしまったが故の激情だ。
なりたい自分になるためにした努力も、その一言で打ち砕かれたのだろう。
それまでの自分を否定され、傷つかないはずはない。
けれども、彼女は自暴自棄にならなかったからこそ、前任の退職で機能停止状態だったこの本丸を再建させた。
それが彼女とあの子の一番の違いだろう。
「きみは頑張り屋だなあ。」
鶴丸の口から零れた言葉に、審神者は虚を衝かれたらしく、ぽかんとした表情で彼を見つめた。
無防備に半開きのまま閉じる気配のない口に、いっそのこと己がそれで塞いでしまおうかと鶴丸が思ったのは、ここだけの話である。
数秒の後、漸く我に返ったかと思えば、審神者は抱えた膝に顔を埋めた。
いつものような憎まれ口は返って来ない。
これにはどうしたものかと鶴丸が様子を伺っていると、流石に空気を感じ取ったのか、審神者はすこしだけ面をあげた。
「…お世辞をどうも。」
「世辞じゃないぜ。惚れ直しただけだ。」
「よく言う。でもまあ……ありがとう。」
そこでやっと審神者は顔を上げて鶴丸を見た。
月明かりに照らされ、頬を伝う一筋がきらりと光る。
鶴丸はその光景を見て、衝動的に体が動いた。
しかし、頬に手を添えて顔を近づけようとしたところで、真っ向からの制止が入った。
渇いた音こそしなかったものの、鶴丸の顔面に審神者の平手が見事に直撃した。
「…なんのつもり?」
「あ、ああ。いや…その、だな。」
「私はあの子じゃないから、そうやって“慰める”必要はないんだけど。」
「いや違う。誤解だぜ。さっきも言ったがあの子ときみは違う。」
「ほお…じゃあ女はそうやって宥めておけば万事OK、と。」
「なんでそうなるんだ!前から思っていたが、きみは妙なところで思考がぶっ飛び過ぎやしないかい?」
「問答無用。」
先程とはうって変わり、すっかりいつもの雰囲気を取り戻した審神者は、すっと深く息を吸い込み、次の瞬間、時刻も気にせず大声を本丸内に響かせた。
「和泉守兼定ぁ!!」
前任のこともあってか、この本丸における自他ともに認める風紀委員長である彼の名を口にした時点で、鶴丸は彼女の本気を感じ取る。
「おいおい、そりゃないぜ、きみ。」
「なんなら自称保護者の三日月宗近も呼ぶけど?」
「後生だからそれは勘弁してくれ。」
ハッと吐き捨てる審神者に、鶴丸は頭痛を覚えた。
審神者からすれば手のかかる祖父(という設定でいる三日月に付き合っている)という認識らしいが、あくまで三日月は本気である。
本気であると言うことは、要するに性質が悪い。
つまり、可愛い孫娘の一大事とあれば、相手が鶴丸とて容赦はないということだ。
前任が顕現させた刀剣より自分で顕現させた刀剣の方が良いとは審神者自身が仮に思っていなくとも、顕現された刀剣男士側としては些か違う。
物として、刀として、造られ、所持されてきたという点では、今の審神者も前任の審神者も彼らにとって初めての主ではない。
けれども、意思を持ちながらもそこに在るだけの物であった頃と違い、己が意思を言葉にし、行動で誰かに伝えることができる“人”としての肉体を初めて与えたのは、他でもない彼女たち審神者だ。
人が物に執着するのと同じように、彼ら付喪神もまた人に執着する。
人によって創られ、使われ、その価値を見出されてきた彼らにとって、至極当然のことだろう。
それが刀としての前の主であったり、人としての器を与えた審神者だったり、その両方であったりと様々だ。
どちらに重きを置いているかは個体差こそあるものの、彼らにとってやはり刀剣男士としての自身を顕現させた審神者に対して、大なり小なり思い入れはある。
そして、話を戻すに彼女が鍛刀したかの三日月宗近は、己が人形を与えた審神者である彼女に関心があるらしい。
彼女が当初置かれた環境上致し方ない結果なのかもしれないが、鶴丸が思うにかなりの癖物である。
彼女が困るか困らないかギリギリの線を見定めての耄碌爺という擬態は、正直流石と言っていい。
始末に負えないのが、放置していても害はないと審神者が認識して己を放置していることを把握しての言動というところだろうか。
これだから狸爺は油断ならない…と、鶴丸自身己を棚に上げて思っている。
要するに、嫉妬しているのだ。
彼女の初めての刀として傍に在ることを。
こればかりはどう足掻いても変えられない事実であるものの、やはり何かにつけて目の当たりにすれば妬きたくもなるというもの。
三日月が審神者に向ける情が、鶴丸が彼女へ向ける情と同じであっても違っていても。
「なんだ、主。こんな時分に御指名なんざ…夜伽か?」
「自分で風紀乱してどうすんの。ったく、刀選しくじったわ。」
「あー、悪ぃ悪い。冗談に決まってんだろ。で、何があった?」
「下手刀を下げ渡すから、煮るなり焼くなり埋めるなり処罰して。まあ類友に預ける時点で処罰も何もあったもんじゃないけど。」
鶴丸が一振りで思いを巡らしている間に、和泉守と話がついたのか、審神者は「もう寝る。」と、不貞腐れながら捨て台詞を言ってさっさと立ち去ってしまった。
必然的に残された二振りの間に何とも言えない空気が漂う。
沈黙を破ったのは、和泉守だった。
「なんつーか、まあ………惜しかったな。あとはなんだ、何とか生きてくれ。」
遠巻きに一部始終を何気に見守っていた年若い刀は、そう言うと気まずそうに後頭部を乱雑に掻くと鶴丸に対して労いの言葉をかける。
最後の言葉はほぼ死刑宣告にも似ていた。
どこか遠くを見る和泉守の視線の先を辿ると、そこには壁に背を預けたかの天下五剣、三日月宗近が。
ひらひらと優雅に片手を二振り、否、鶴丸へ向けて振っているものの、向ける視線は絶対零度。
笑顔こそ貼り付けてはいるが、誰がどう見ても笑っているようには感じられない。
そこで鶴丸は一連のやりとりが周囲の目がある場所でのものだったことを改めて思い出すとともに、余程の事でない限り絶叫しない審神者が叫んだ時点で、彼の出現はどう転んでも予想されうる未来だったことを思い知る。
「惜しい鶴を亡くした。」と、頭上でぼやく声を受けながら、鶴丸は縋るように月を見た。
空にぼんやりと浮かぶ月光のように己が行為を有耶無耶にしてくれるほど、地上の苛烈な月は甘くはない。
静かに、そして、威圧を以て近づいてくる気配を肌で感じながら、鶴丸はこれから始まる情け容赦ない尋問兼公開処刑を如何にして軽減するかに思考を巡らすのだった。
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