花の咲く場所5



唐突に耳へと飛び込んで来た軽快な鼻唄に、たまたま通りかかった私は危うく吹き出しそうになった。


「つーるぴっぴ、つるぴっぴ。ぴっぴっぴーのつるぴっぴ。」


姿を見なくとも誰が発したものなのか、声で分かる。
加えて言うなら、その歌い手が誰かが分かったからこそ、余計に不意討ちだった。
視界に映る緑、白、青の頭。
いや、頭しか見ていない訳ではないけど、急停止した思考で把握できたのがそれだった。


「なあ、三日月。さっきからなんなんだ、その間抜けた歌は。いや……歌なのか?」
「ん?つるぴーの方が良いか?」
「つるぴーか。柿ぴーに似ているな。よし、今度茶請けに持参しよう。」
「いやいや、どうしてそうなる。あれはむしろ酒のつまみだぜ。」
「鶴がつるぴーなら、大包平は…そうだな、かねぴー…か?」
「いやそれは他の奴と被るだろ。」
「なら、かねぴーら、か?それとも、おおーかねぴっぴ、か?」
「普通に呼んでやってくれ。」
「俺は“じいじ”という称号をもらっているからな。まあ“みかっちっち”も捨てがたいんだが。」


なんなんだこのやりとりは……。
朝から気が抜けていきそうなくらい頭の弱い会話に眩暈を覚え始めた所で、奇襲をかけてきた張本人がこちらへと体を向けた。


「おお、主。よく来たな。どれ、一杯どうだ?」
「遠慮します。それより妙な組み合わせだね。」


縁側でまったり茶を啜る老刀三振り。
三日月と鶯丸については、まあ分かる。
問題は間に挟まれた白い鶴こと鶴丸だ。
別に彼が茶をのんびり嗜まないと言いたいわけではない。
ただこう、なんというか、残る二振りの間に挟まれているのが…うん、珍しい。
ついまじまじと眺めていると、何かを察したらしい鶯丸が、ああ、と、一人頷いた。


「やらかし鶴のお守役だ。俺と三日月で惨怒すれば良いと言われてな。」
「さんど…?ああ、サンドか。」
「うむ、にこいちならぬ、みこいちだな。」
「君たちと一緒くたにされる言われはないんだがなあ。」
「そう言うな。問答無用で斬られる案もあったんだ。ナニをとまでは言わんが。まあタマ違いで命を奪われんだけマシだろう。」
「結局全部言ってる気がするの私だけ?」
「細かいことは気にするな。」
「はっはっはっ。そういうことだ。」
「俺にとっちゃ割と重要事項なんだがな…。」


要するにこの二振りは監視役といったところだろう。
それにしても、鶯丸も結構あけすけに物を言う刀だったのかと内心驚いていると、鶴丸と目が合った。
何となく、そう、何となく背中に感じたむず痒さから逃れるように、業とらしく嘆息して視線を彼から逸らした。
だからその後鶴丸がどんな顔をしていたかなんて、知らないし知る気もない。
そんなことより今日はやるべきことがある。

先日、政府から依頼のあった講義の件について、あれから担当課側より改めて依頼の文書が届いた。
内容を吟味した結果、引き受けた方が良いと判断して今日に至る。
と言っても、当の依頼文が抗議日の今日から3日前というのだから、全くどこの役所もそこだけはきっちりお役所仕事である。
念の為と口頭で依頼された翌日から準備しておいて正解だったと心底思う。
講義開始時間は午後からとは言え、油断していると会った言う間に時間は経つ。
現にこうして茶飲み爺と雑談している内に、腕時計をちらりと見ればもう十時半。
荷物と身支度を考慮するとゆっくりしていられない。


「おお、そう言えば今日は政府での仕事だったな。して、供は決めたのか?」
「ああ、それは―――」
「丁度俺は非番でな。なに、爺だからとて心配無用。主の片時も離れず傍で警護しよう。任せておけ。」
「いや、あなたはそこの鶴の監視役じゃ…。」
「ああ、それなら鶴も同行すればいい。俺も監視が出来る上、鶴も俺の世話が出来る。一石二鳥だな。」
「それがいいな。そして俺は大包平と帰りを待つことにしよう。」
「申し訳ないけどこの本丸に大包平はいないって、指摘するのもいい加減疲れたんだけど。」
「よし、そうと決まれば行くとするか。」
「ああ、行こうぜ。」
「ちょっと、主人の意思を無視して勝手に行動するんじゃない。大体今回連れて行けない男士No.1と2だからね、二振りとも。」
「なに、要はあの子に出くわさないようにすればいいんだろ。そういう任務だと思えば逆にスリルを楽しめるぜ。」
「いやそれどんな高難易度ミッションなの?設定条件が鬼畜過ぎる。」


むしろ見つからないはずがない。
そして、見つかれば即試合終了。
誰がなんて言わずもがな。
向こうの心情からして敵意は彼らに向く訳がない。
かと言って行く気満々なこの二振りを制止して、もしくは振り切って行ける力と時間がない。

早くも暗雲が立ち込める気配に頭痛を覚えていると、トドメとばかりにこちらと目が合った鶯丸に良い笑顔で頷かれた。
ああ、もう駄目だ。
そもそもここで彼らに出くわしてしまった時点で、私の負けなのだろう。
盛大に吐いた嘆息の思いを了承と心得た物たちは、意気揚々と立ち上がる。
こうなりゃもう自棄だ。
久しぶりの檀上での講義の緊張緩和…というより別の緊張をもって意識を逸らす作戦と思えば、まあ妥協ラインか。

かくして担当と出会ったら卒倒される編成で政府へと赴くことになったわけだった。
………が、現実は現実でなんともまあ肩透かしを食らわせられることになる。
控室に到着して早々のことだ。


「は?不在?」
「申し訳ありません。彼女には別の仕事がまだ残っておりまして…。」
「左様ですか。」


果たして仕事があるのやら。
そう勘繰ってしまうくらいには、これまでの行動がアレ過ぎる。
加えて目の前で只管謝罪の言葉を繰り返すミサトさんを見るに、どうも勘は当たっているような。

最早呆れて物も言えない。
それにしてもどこまでも逃げる気なのか。
折角気を引きしめてきたというのに、おかげで出鼻を挫かれた。
つくづくあの子とは気が合わないことを今改めて再認識させられた。

私の引き攣り笑いを見て、ミサトさんの顔色が一層悪くなっている。
悪いけど慰めるなどと言ったフォローはしない。
彼女は悪くはないけど、仕事は仕事。
先輩職員として面倒を看ていた彼女にも責任はある。

ちらりと壁にかかった時計に目を向ければ、講義開始時刻まであと十五分。
気を取り直してレジュメに目を通しているとあっという間だ。


「それでは私は講義の最終確認をさせていただきたいので、よろしいでしょうか。」
「あ、ああ、はい。本当に今回の件についてはありがとうございます。」
「いえ、こちらも請け負った以上はしっかりとこなしたいと思います。」
「助かります。私も会場で待機しておりますので、何かありましたらお知らせください。」
「承知しました。」


本日何度目かのお辞儀をして、ミサトさんが控室より退出した。
静かに締められるドアの音を確認し、本番はこれからだと言うのについ溜息が口からこぼれ出る。
残るは両隣に控えているこの二振り。
道中に説明したにも関わらず、どうみても檀上まで付いてくる気満々なのはどうしたものか。
規則上、刀剣男士を連れて登壇することは禁止されていない。
悲しいかな、政府の建物内と言えども身の安全は保障されるとは限らない。
過去の前例を調べるにつけても、つくづくそう思う。
だから極力近くに居てもらうのは最良といえば最良…なんだけど、組み合わせが問題だ。
ベテラン勢からすれば別段珍しくない存在の彼らだが、今回の受講者は主に新任から私のような引継ぎ(但し、前任の在任期間が短期などという若干グレーゾーン中心の後任一年目という初心者)までを対象としている。
渡された受講者名簿を見たところ、引継ぎ勢は少数でほとんどが若手、つまり就任して1年も満たない相手ばかり。
よほどの豪運だらけか、刀に恵まれた引き継ぎ元でない限り、人によっては煽りになるかもしれない。

とはいえ、自棄を決め込んだ以上は致し方ないもものとして腹を括るしかないだろう。
二振り連れて行かなければ多少マシなはずだから、一振りはこの控室で待機してもらおう。
本来ならしなくていい思考を巡らせつつ、椅子に座って黙々と用意したレジュメを黙読すること五分。
そろそろ会場に顔を出すかと顔を上げたところ、待ってましたとばかりに二振り揃って立ち上がった。
律儀に待機していたのは感心したが、まあ敢えてそこは口にしない。


「そろそろ行くのかい?」
「そうだね。ああ、でも付いて来てもらうのは一振りにするつもり。もう一振りはここで待機してもらうから。時間がないので理由は後で話すよ。」
「ほう、して“どちらを選ぶ”のだ?」
「選ぶって大層な話じゃないでしょ。まあ今回三日月は待機してもらうけど。」


さらりと言えば、驚いたのは言われた三日月ではなく、残る鶴丸の方だった。
驚くと言っても僅かばかり目を見開いただけ、それもほんの一瞬のことで、改めて驚いていたかと問われたら判断に迷うかもしれない。


「では俺を御指名ってことでいいんだな。」
「だからさ、指名って大それた話じゃないんだけど。」
「いいや、大した話だぜ。俺たちにとっては。」
「さいですか。じゃあ三日月には悪いけど暫くここでまったりしていて。」
「あい分かった。褒美は剥ぐでいいぞ。」
「何か意味が違う気がする。」
「ん?では吐くだったか?」
「答えから更に遠ざかったような…って、いい加減時間がないからこの話はまた後で。それじゃあ、行こうか。」
「ああ、任せてくれ。きみが気兼ねなく仕事に従事出来るよう力になるぜ。」
「気持ちだけ受け取るのから、何もすることなく突っ立ってて。お願いというより主命で。」


これから頑張るのは私であって、鶴丸じゃない。
むしろ鶴丸が頑張る必要が出てくる方が大問題だ。
隣を歩く白い神様を一瞥するも、当の神様は上機嫌。
先が思いやられるが、まあこの際致し方ない。
会場へ繋がる扉を開けるとともに吐き出された溜息は、誰にも拾われることなくざわめきの中へと消えて行った。



*****



静かな室内に一人、いや、一振り。
三日月宗近は、黙々と手にした書類を読み込んでいる。
控室にて待機を命じた審神者により与えられたそれは、壁一枚を隔てた会場にて現在彼の主が講義している資料と同じものだ。
待てと言われば何をせずともただそこに在るつもりだった三日月への彼女なりの配慮だった。
果たしてそれが暇つぶしになるかどうか、審神者自身あまり期待していないような態であったが、それでも何もないよりかは幾分マシだろうとの判断らしい。

読んでもいいし、読まなくてもいい。
そんな気休め程度のものではあったものの、三日月はこうして彼女が作成した論文なるものを手に取り、目を通している。
物語や詩のような読み手を楽しませるような娯楽とは程遠い読み物。
しかし、己が主の考え方を理解することが出来るとなれば、それはそれで面白いと三日月は思った。
どういう類の書物であれ、そこには書き手の癖が出る。
それを探して見つけるという作業に三日月が没頭していると、何やら廊下から何者かの気配が静かに近づいてきた。


(はて、主の任務は……まだ終わっておらんようだが。)


壁越しに伝わる気配を読むに、講義はまだ終わる雰囲気ではない。
だとすればどこかで何か問題でも起きたのだろうか。
廊下の気配は隣の会場を素通りし、愈々三日月のいる控室まで近づいたところで歩みを止めた。
不思議なことに気配の主は、控室の扉の前で動かぬまま暫く佇んでいる。
急ぎの用であるなら躊躇うこともない上、そもそもそのような緊急案件であれば態々無人の控室を通さずとも直接隣の会場へと足を踏み入れればいい話である。

不審に思った三日月が手にした書類を机に置いた折、扉が遠慮がちに開かれた。


「あ……っ。」


来訪者はよもや中に誰かがいるとは思っていなかったようで、三日月を目に留めるや扉を閉めることも忘れて固まった。
驚きで見開かれた瞳には、「何故?」と訴えかけている。


「生憎主は取り込み中でな。すまんが改めて出直すなり、ここで待つなりしてくれ。」
「………。」
「なに、俺のことは気にしなくていいぞ。このとおり主より読み物を賜っているからな。」
「………。」


来訪者は三日月が何を話しかけても黙り込むばかり。
ただその表情は以前として晴れぬまま、むしろ益々憮然とした様を隠すことなく三日月を睨みつけている。
三日月は剣呑な視線を気にすることなく受け流すも、ふと改めてこの来訪者の顔をまじまじと観察した。

成程、どこかで見たことがあるような。
再度感じたのは既視感だった。
どこぞの源氏の重宝ではないものの、然程物事に頓着しない三日月の記憶にどこかひっかかりを感じたということは、やはり何か審神者と関係があるとのことか。
鶴丸を始め本丸の男士らには“過保護”、もしくは、“過干渉”と言われがちな彼だが、自身が顕現した経緯もあって致し方ないと三日月は勝手に思っている。

さて、では己が主と関わりがある人物として、だ。
一体“彼女”は何者なのか。
答えはすぐに出ることになる。
きっかけは当の彼女の一言だった。


「やっぱり、連れて来たんだ。」
「ん?俺のことか?」


ぼそり、と、零れた言葉は静かな室内に良く響いた。
首を傾げる三日月に、目の前の彼女は余計苛立ちを隠せなくなったらしい。
秀麗な眉がぐにゃりと歪む。
幼子の癇癪…にしては些か見目に似つかぬなと、三日月はのんびりと彼女を監察するとともに、この場に嫉妬を良しとしない同胞がいないことに安堵した。
彼がいたら恐らく、いいや、きっと目の前の人の子はただでは済まないだろう。


(存外根深いものだな。)


向けられる憎悪と羨望は三日月だけではなく、彼を通して彼の主にまで向けられている。
ここに至り彼女が何者であるかを三日月は把握した。
彼女が“前任”だ、と。
何も言わずただ自分を見透かす青が気に入らなかったのか、彼女は怒りで肩を震わせた。


「だから嫌だったの!どうせあてつけで連れてくると思った!ズルい!楽して良い所全部持って行ったくせに!」


審神者が聞けば絶句するであろうご都合主義の主張を衝動のままぶつけてくる彼女に、三日月は何も答えない。
彼女のことについて、三日月は鶴丸らから多少聞かされていた。
実際彼らがした苦労が如何程のものなのか、三日月は知らない。
ついでに言えば、当事者ではないからこそ、目の前の彼女の過去についてとやかく非難する気はない。
ただ、一つだけ、否定しておかなければならないことがあった。


「楽はしていないぞ。少なくとも俺が見た限りではな。」
「―――!」
「ああ、そうだ。もう一つあったな。ここにいるのは俺が申し出た。まあじじいの我が儘だな。」
「な、ばっ、バカにしないで!」
「いやなに、俺は事実を言っただけだぞ。己が主への誤解は解きたいものだからなぁ。」
「やっぱり、ズルい!私だって苦労したのに!」
「そうだな。そして、鶴丸たちもまた苦労をした。違うか?」


鶴丸の名が出た途端、彼女の顔色がまた変わった。
それまで怒りで朱色に染まっていた頬から血の気は失せ、逸らすことなく三日月へと注いでいた視線は、周囲を彷徨い、やがて床へと落ちていく。
何かを守るように両腕で自身を抱きしめ、独り言のように震える唇で言葉を紡いだ。


「わ、私は別に悪くない。だって仕方がなかった。向いてない仕事を頑張ったんだから、ああでもしなきゃやってられなかった。だから今更昔のことをで責められる筋合いなんてない!」
「責めてはいないぞ。俺はあくまで事実を述べたまでだ。まあ人にも刀剣男士にも得手不得手がある。俺たちで言えば…そうだな、すていたすと言うやつだ。」
「だから何?私はできそこないって言いたいの?」
「出来の良し悪しを最終的に決めるのは、他人ではない。そして、己が持つ素質でどう立ち回るかも決めるのも、他でもない己自身だ。」
「そんなの私とあの人じゃ全然違うし、出来るわけないじゃない!」
「主は主であるし、お前はお前だ。出来ることも出来ないことも違う。主が出来たからと言ってお前が苦労していないという訳でもない。だが、お前だけが苦労している訳でもない。」
「そんなこと……」
「もう分かっているのだろう?」


その一言が彼女の膝を折らせた。
がくりと崩れ落ちるように床に膝をついた彼女は、俯いたまま声を絞り出す。


「だったらどうすればいいの?」
「それは俺が考えることでも決めることでもない。自分自身で考えることだ。」
「分からない。今の仕事だって上手くいってない。出来ないことだらけなのに。」
「出来ないことが分かっているだけでも上々。問題は出来ないなりにどうするのかではないのか?」
「………。」
「出来ないと駄々をこねるだけなら、いっそ逃げ出すのも手かもしれんなあ。以前のように。」
「―――ッ。」
「それで気が済むのなら、それでいい。ただ、逃げるのも楽ではないぞ。一度逃げ癖が付こうものなら、この先ずっと逃げ続けることになる。一つの場所に根付かない根無し草は一見気楽かもしれんが、踏ん張りがきかん。苦難を乗り越えるだけの立ち回りが出来る力があればいいが、なければそれまでだ。仮に逃げおおせたところでそのこと自体に負い目があるのなら残る傷もあろう。避けて回る度に小さな傷を受け、癒えることなく増え続ければ…いつかは枯れる。」
「じゃあ逃げるなってこと?向いてない仕事でも?」
「先にも言ったが、決めるのは俺ではない。まあそうだなあ…とりあえず三年ほどばかりその場に根をはってみたらどうだ?主が言っていたぞ、三日三月三年、と。」
「三年?」
「三日三月では何も咲かずとも、三年あれば多少なりとも何かを得られるだろう。逃げるにしても今度は三年も我慢ができたと自信が付く。」
「でも仕事が…。」
「出来ぬなら出来ぬと正直に言えばいい。上がなんとかするだろう。部下の力量を把握して適切な裁量を振るうのは上の仕事だ。ともあれ、何も言わぬままでは変わるものも変わらん。」
「言えるならとっくに言ってる。」
「そうか。なら仕方あるまい。それまでということだ。だが今からでも声を上げるのは遅くないと思うぞ。」
「………。」


それ以上彼女は何も言葉を発することなく、ただぼんやりと冷たい床を眺めていた。
対峙する三日月もまたこれ以上の言葉は不要とばかりに口を開こうとはしない。
この奇妙な静寂を破ったのは、廊下より駆けて来た一人の足音だった。


「ああ、もう、こんなところにいた!何してるんですか!?後任関係者との接触は厳禁ですよ!」
「おお、担当殿。丁度いいところに来られた。この者が仕事について話したいことがあるそうだ。聞いてやってくれ。」
「え、は、はい?三日月様!?隣の会場にいらっしゃるのでは??」
「留守番だ。主命でこの控室で待機を命じられてな。」
「ああああああ、申し訳ありませんでした。一度ならず二度までも不手際を。」
「いやなに、二度あることは三度ある。心してかかるのだな。」
「―!!か、畏まりました。ほら、もうすぐ講義が終わりますから、早くここから立ち去りましょう。」
「………。」


担当の男に半ば引きずられるようにして、彼女は控室から姿を消した。
彼女がその後どうなるのか、そして、どうするのかは三日月の知る由もない。
そもそもこれから先のことは彼女自身が決めることだ。
担当も担当で、己の手を離れたかと思いきや、まだまだ安心ができないようで気苦労が絶えないことだろう。

さて、話は済んだとばかりに三日月は意識を背後へと向ける。
いつの間にか壁を隔てて感じていた人の気配はまばらになっており、既に講義は終了したことが暗に察せられた。
けれども会場から控室へと通じる扉は、一向に開く気配が見られない。
内内の話が済んでいないのかと思い暫く様子を伺っていると、数分もしないうちに扉は開くには開いたものの、戻って来たのは一振りのみ。


「主はどうした?」
「政府の奴に呼ばれて別室だ。もう少ししたら戻って来るぜ。」
「そうか。時に鶴丸、今は主の護衛のためここにいるわけだが、まだ放免となってはおらんからな。じじいはしつこい故、覚悟しておくことだ。」
「だろうな…。」
「ん、どうした?腹でも下したか?」
「生憎君同様胃腸は頑丈だ。」


軽い牽制も兼ねた茶化し合いを吹っ掛けるも、どうも反応が芳しくない鶴丸に、三日月はそれまでの調子を改めて問いかける。


「…先の講義とやらで何かあったか?」
「いや、面白いくらいに何もなかったぜ。無事任務完了だ。」
「ではその後か。」
「あるかどうかは分からない。ただ、なあ…。」
「主を連れて行った政府の者が気になる、と。」
「それもある。」
「ほう、では折角の時間を邪魔され拗ねているというわけか。」
「君なあ…。まあ否定はしないぜ。」
「はっはっはっ、我らが主と番おうとするからにはこの程度のことで弱音は吐かんことだ。」
「おーおー、おっかない舅がいたもんだ。」


恐い恐いと肩を竦める素振りを見せる鶴丸に、よく言うと三日月はからからと笑った。
その後、なんやかんやとたわいのない世間話に花を咲かせている間に、審神者が二振りのもとへと戻って来た。
ドアを叩く音がした後、入り口の扉がゆっくり静かに開かれる。
気配どおり来訪者は彼らの主ではあるが、どうも様子がおかしい。
いつもなら彼らにまっすぐ注がれる視線は、意図して逸らされたように僅かに伏せられている。
当然三日月が送り出した際に見られた覇気はなく、どこか上の空だ。


「遅れてごめんなさい。ちょっと話が長引いて。」
「いや、気にしなくていいぜ。こっちはこっちで気楽に過ごさせてもらったからな。」
「そう、三日月も長時間の待機、お疲れ様。退屈だったでしょ。」
「なんの、俺も俺で楽しませてもらったぞ。なあ、主。今度は物語でも書いてくれ。」
「お、面白そうだな。きみ、俺にも見せてくれ。」
「揃って無茶言わない。全く…まああれで時間潰せたならいいけど。」
「うむ、しかし残念なことに来客をもてなしていた故、全て読み切れなかった。続きは本丸で読むことにするが、いいか?」
「いいよ。来客って?担当?」
「ああ、それと前任とやらだったな。」
「は?」


流石に驚いたのか、審神者が漸く三日月の目を見て声を上げた。
ぽかんと無防備に開け放たれた口から続く言葉はない。
どうやら審神者の覇気がないことと件の彼女については関係がないらしい。
不意討ちを食らって固まる審神者とは対照的なのは、この問題について最も関係があると思われる鶴丸だった。
三日月の発言に驚くどころか得心したようで、「そういうことか…。」と、一人溢す。


「それで、大丈夫だったの?」
「ん?ああ、なに、主が心配するようなことはないぞ。それにあの者は担当がどこかへ連れて行ってしまった故、こちらに戻って来ることもあるまい。」
「まあ…いいけど。」


気にしない…と言うよりも、考えたくないとでもいうように、審神者は頭を変え浮く左右に振ると、今度こそ話は仕舞いと視線を三日月から逸らして、嘆息した。
そして、何も言わず踵を返すと、そのまま背後のドアノブへと手をかける。


「帰るのだな。」
「…このままいても仕方ないでしょ。」


三日月の声に振り返ることなく審神者は応えた。

ガチャリ…――。
重苦しい音を立ててドアがゆっくりと開けられる。
その音を引きずるように、本丸へと戻る道中、審神者の纏う空気はどこか重く沈んでいた。




*****




気付けば日が陰り辺りは夕闇に呑まれつつあるようだった。
思い返してみても、政府から本丸に戻るまでの道のりを思い出せないくらいに取り乱していた。
いろいろ起り過ぎたから、当然と言えば当然だ。

あの時、政府から受けた講演を無事に終え、内心ほっと胸を撫で下ろして鶴丸を見れば、言いつけどおり彼は大人しく後ろに控えていてくれた。
後は本丸に帰るだけと声をかけるも、鶴丸の注意はこちらではなく控室へと向けられていた。
さては三日月が何かしでかしたのを感じ取ったのか、とも思ったものの、今となっては元の主の気配を察知していたのだと分かる。
とはいえ、引継ぎの都合上、前任との主従関係の契約は断たれているので、彼が彼女の存在を完全に把握していた訳ではないことは、呟いた独り言で何となく察せられた。

どうしたものかとこちらも様子を伺っていると、視線に気づいた鶴丸が漸く労いの言葉をかけてきた。
それを今になって素直に喜べないのは、恐らく、いや、きっと自分が後回しにされたという嫉妬からだと思う。
何だかんだ言って人の身を得てから初めての主だ。
思い入れが無いわけがない。

あの晩、雰囲気に呑まれずに制止が出来て本当に良かったと、つくづく思う。
随分と唐突な感想だと我ながら思うも、思ってしまったのだからどうしようもない。
彼女は彼女で、私は私。
お互いがお互いになれないし、それがいいと鶴丸は言った。
それでも、胸に湧くこの不快感は一体どこから来るのだろう。
いや、それより、そんなことよりも考えなければいけないことがある。

労ってきた鶴丸に対し、いつものように言葉の応酬を始めようとした矢先、背後から声をかけられ話があるからと一人別室へと連れていかれた。
そこまでは良かった。
別室に案内されると、既に職員がもう一人いた。
胸元につけられた名札を見れば、“人事課”。
疾しいことは何もしていないが、何か不備でもあったのかと身構えて着席するも、職員が振って来たのは予想もしない前職についての話だった。
長々と前置きをされたら嫌な顔くらいしただろうが、彼は担当直入に言った。
出向を終えて元の鞘へ収まらないか、と。

要するに濡れ衣が晴れたのでまたあそこに戻らないかという打診だった。
当時いた関係者は不祥事が発覚したため、急遽総入れ替えの人事異動とのこと。
そして、直近の経験者として私が選ばれたという。
上の都合で下が振り回される良い例だ。

望んだ場所から取り除かれて、不本意ながらも新たな土地で根をはり、漸くここで花を咲かせるのも悪くはないと思えたのにこの有様。


「ほんと、何を今更……。」


出向時より始末に負えないのが、審神者というこの職業が現世では秘匿されていること。
もとよりどのような職種であれ守秘義務というものはある。
けれどもいくらこちらが義務を全うすると言ったところで、時の政府はこちらの意思よりも確実な方法でそれを遵守させる気だった。
出向を解くと同時に今の所属の記憶を全て抹消する。
あの場にいた人事課の職員は、形ばかりの申し訳なさを含ませてそう告げた。
今思い出しただけでも煮え切らない感情がぐつぐつと胸の中で暴れ出す。
怒りなのか、悲しみなのか、分からない。
ただ言えるのは、元いた場所へ帰れるという喜びではないということ。
それでもあの場で即答出来なかったくらいには未練があるのだから、つくづく呆れる話だ。


「主や、そろそろ夕餉だが…ん、もしや、寝ているのか?」


障子越しに三日月の声がしたものの、正直返事をするのも億劫だった。
折角呼びに来てくれたのに申し訳ないが、今はやはり誰とも口をききたくない。
今日は、いいや、今まで十分頑張ったんだ。
たまには不貞腐れてもいいじゃないか。

現実から逃げるように自分の中でぐだぐだと言い訳を並べていると、帰りのもことあってか何かを察した三日月は、それ以上何も言うことなく執務室から離れて行った。
障子に映る影が完全に消えるのを横目で確認して、漸く安堵の息をつく。
だから気づけなかった。
今まで動かず溶け込んでいたもう一振りの影に。


「そんなに大きくため息をついたら幸せが逃げだすぜ。」
「!」
「今三日月がきみの分の食事を取りに行ってる。今日はここでゆっくり食べるといい。」
「………。」


なんでここにいるのか、とか、お守役もとい監視役はどうした、とか、言いたいことはある。
ただ言葉にするのが億劫だった。
鶴丸もそれを察してか、いつものような軽口を叩いてこない。
できればこのまま一人にしてほしいのだが、どうもそこまで察してはくれないらしい。
いや、もしかしたら、違う、きっと察した上で敢えてそうしないのか。
理由など考えなくても分かる。
平静を取り繕ったつもりでも、彼らには全て御見通しということだ。
まあ、こちらの何倍もの年月を生きてきた神様だから、どう足掻いても無駄なのだろう。


「念の為聞くけど、何か用?」
「用はないぜ。ただ何となくきみの傍にいるだけだ。」
「今は一人でいたい気分なんだけど。」


言外に言わなくても分かるよなと不満を込めるも、返って来た言葉は「だろうなあ」と呑気なものだった。
いつもならはいそうですかと無視を決め込むものの、流石に今日に限ってはそれも無理。
内でぐちゃぐちゃに暴れる激情が今にも口から爆発しそうだった。
もう限界と抱えていたそれを吐き出そうと息を大きく吸い込んだ―――のも束の間、


「主や、夕餉だぞ」うん、今日は『光忠特製びーふしてゅうー』…んん?違うか?確かぶー…いや、びーびー…?はて、鶴や、これは何だ?」
「ビーフシチューだ。ああ、復唱しなくていいからな」


張りつめた空気(と言っても私個人の内のことだが)をいとも簡単に粉砕したのは、舞い戻って来た三日月だった。
ああもう、本当、勘弁して…。
隙間から微かに漂ってくる香りに私の腹はあれが欲しいと素直に声を挙げた。
こんな時でも自己主張を忘れない自分の腹を恨めしく思う。
案の上、盛大に鳴った腹の音を聞いた三日月が、「おお、すまん。腹が減っていたのだな」と、鶴丸からの返答を待たずに、更にはこちらの来室の返事も待たずに部屋へ入って来た。
ここまでくれば、最早何も言えない。
いや、言ったところで既に無駄だろう。


「…ありがと」
「いやなに、俺が勝手にしたことだ。気にするな」
「そう」


こちらの適当な相槌にもさして気にすることなく、三日月は膳を置くとあっさり部屋から引き下がる。
問題は彼ではなくもう一振り、さっきから縁側に座り込む鶴丸だ。
こちらが黙々と食事を食べ始めても離れる気はないようで、障子ごしに映る影は相変わらずそこにある。
何が目的かはおおよそ察しがつく。
けれどもそれにこちらが応える余裕はない。
それに、彼が望んだ答えを差し出せるかも分からないのだから。

幸い人事課は形だけにしても選択肢を与えてくれただけマシなのだろう。
あの場の空気からして、恐らく有無を言わせぬ辞令というわけでもないことはわかった。
だから、余計に迷う。
迷うからおいそれと口に出せない。
主の進退についてほいほいと気軽に周囲へ漏らすのは軽率だろう。
まして部下とするのは、本来人である自分よりも格上の神。
短期間で主が替わるのを彼らはどう思うのか、検討もつかないが、まあ、二人とも自己都合で彼らから逃げ出すとしたら、良い気分ではないはずだ。
…まあ、まだ二人目になると決まったわけではないが。


「なあ、主」
「……」


堂々巡りの思考から現実へと引き戻した声に、応えられず口を引き結んでいると、縁側の声の主はそれを咎めることなく独り言のように話を続けてきた。


「きみにとってこの本丸は根を張るに値する場所かい?」
「―――!」


唐突に核心を突かれ、思わず息をのむ。
無防備に食事に手をつけていたら危なかった。
きっと喉に詰まらせて今頃盛大にむせかえっていただろうに。
音を出していないとは言え、恐らく部屋の空気が変わったことに何かと敏い彼のことだ、気づかないはずがない。
ああ、とんだ失態だ。
このまま知らぬふりをしてやり過ごすこともできなくはないものの、否定も肯定もしないのでは彼の中の疑念は確信へと変わるだろう。
苦虫を噛み潰したような表情を隠さないで良いのは、とりあえず幸いだろうか。
とりあえず話をするにも目の前に少し残る食事を食べ終えてから、と、半ばかきこむように膳に手をつける。


「一体きみはどこで花開くんだろうなあ…」


またも漏れ聞こえてきた呟きという名の問いかけに、答える言葉を私はまだ持ち合わせていない。
程なく食事を平らげ、再び視線を外へと向けると、いつの間にか人影はきれいさっぱり消え去っていた。
そして、この時鶴丸を探さなかったことを私は翌日になって後悔することになる―――。




*****




目の前を歩く女主人の背中を無言で見つめ続けているうちに、鶴丸らは本丸へと戻ってきた。
政府の尻拭いという任務も無事達成し、本来なら清々しい気持ちでの帰還となるはずだったが、戻ってきた彼女の顔色を見るに、とてもじゃないがそうした心地とはほど遠いものだった。
むしろ煮え切らない、いや、どちらかと言えば迷子の子どもとでも言うのだろうか。
とはいえ、それも本丸に変える頃には幾分か落ち着いたようで、纏う雰囲気は幾分か和らいでいた。
普段とは違う彼女に気づいた男士はいただろうが、それでもただ単に虫の居所が悪いのだろうくらいにしか思わないだろう。
彼女の変化を知るのは、鶴丸と三日月のみ。

鶴丸同様何かを察しているのか、いつもなら審神者に構ってもらうためにせっせとちょっかいをかけるはずの三日月は、何も言うことはなかった。
そして、本丸に戻るやそのまま一人執務室へ籠もった彼女を見て、一仕事終えた主に休養が必要だと称して周囲に人払いをさせたのも、他ならぬ三日月である。
放っておけば彼女は自分で立ち直ることなど、鶴丸はよく分かっていた。
分かっていたが、頭の片隅に引っかかる何かのせいでそれができないでいた。
それが何であるのかが思い出せないまま、ずるずると鶴丸自身気づかぬうちに執務室まで足が向かい、仕舞いには縁側でぼんやりと審神者同様一振り物思いに耽る羽目になった。
ふと、審神者が一人吐き出すように言葉を漏らす。


「ほんと、何を今更……。」


彼女にしては酷く弱々しく吐き出されたその言葉に、鶴丸はまたも何か引っかかりを感じた。
今更、とは。
思うに、講義後に彼女を連れて行った政府職員に対してのものだろう。
前任の審神者のことならば、こうも彼女が心乱されることはない。
それに彼女がおかしかったのは、前任が控え室にいた事実を知るよりも前のことだ。
ならばやはり原因はあのときの政府職員、いや、政府とみえる。


(この本丸を明け渡せとでも言われたのか…いや、違うな。そうだったら彼女は今頃憤慨してるはずだ)


責任感の強い彼女のことだ。
帰ってから弱音を吐くより先にその場で反論しているだろう。
その様を想像すると普段であれば笑みがこぼれるのだが、鶴丸の中で今回ばかりはそうしていられないような気がした。


(確か、人事課だったな…)


あの時彼女を呼び止めた職員の名札には確かにそう書かれていた。
前任の件もあって、人事課と聞くと何かと勘ぐってしまうもので、気にしすぎもよくないと最初はこの任務の結果報告なのかと鶴丸は言い聞かせてはいた。
ただ、その後戻ってきた彼女の様子を見るに、話はそう単純なものではない。
人事に関して彼女が取り乱すことと―――。
思い当たる節が鶴丸にはあった。
それも当たってほしくはない予感として。

そうこう鶴丸が思考を巡らせている間に、三日月がやってきた。
三日月は鶴丸を気にとめることなく審神者へと声をかける。


「主や、そろそろ夕餉だが…ん、もしや、寝ているのか?」


返事はない。
恐らく誰とも話したくはないのだろう。
それを察してか、三日月は執拗に声をかけることなくそのまま来た道を戻っていく。
きっと食堂へ顔を出す気がないと悟り、彼女分の夕餉を取りに行ったのだろう。
足音が遠のいていくのを聞いて安堵したのか、部屋の中から小さなため息が漏れ聞こえた。


「そんなに大きくため息をついたら幸せが逃げだすぜ」
「!」
「今三日月がきみの分の食事を取りに行ってる。今日はここでゆっくり食べるといい」
「………」


つい声をかけてしまった鶴丸だが、案の定、審神者からの反応は芳しくない。


「念の為聞くけど、何か用?」
「用はないぜ。ただ何となくきみの傍にいるだけだ」
「今は一人でいたい気分なんだけど」
「だろうなあ」


気のない返事を返すも、審神者からの返答はない。
鶴丸が視線を障子へと向けるも、明かりの点っていない室内では彼女の姿を捉えることは難しかった。
この間の良いのか悪いのか分からない状況下、場の空気など意に介さないとばかりな三日月がいつもの柔和な笑みでもって膳を持って戻ってきた。
そんな彼の持つ雰囲気に毒を抜かれたのか、審神者もまた大人しく持ち込まれた膳をいただいていた。

開いた障子が再び閉ざされ、三日月がチラリとなおもこの場に居座る鶴丸を一瞥する。
青と金の瞳が互いを映し出すこと数秒、微笑んだまま三日月は声を発することなく立ち去った。
どうやら後は好きにしろということらしい。
それならば、鶴丸はなおも部屋の中の審神者へと声をかける。


「なあ、主」
「……」


やはり中から返事はない。
それでも鶴丸は構わなかった。
胸の内に生まれた不安を吐き出すように、再度口を開く。


「きみにとってこの本丸は根を張るに値する場所かい?」
「―――!」


途端、審神者が息を呑んだのが分かった。
ああ、やはり、そうかそうか。
今度は誰に言うでもなく心の中で頷くと、鶴丸は意識を現実から逸らすように庭を眺めた。

月に照らされた庭先でふと目についたのは、かの桜の木。
彼女がこの本丸に就任する直前、燭台切とのやりとりがふと鶴丸の脳裏に過ぎった。
本丸に吹く新たな風は一体どのようなものだろうと一人勝手に胸を躍らせていた。
実際吹き付けてみれば、これまた予想外に新鮮な驚きを提供してくれたものだ。
だからつい気になっては自らその風を巻き上げに行った。
そのくせ、いざその風を捕まえようにも、風故にそよそよ(…というには些か暴風かもしれないが)と躱されて中々捕まえることが出来ない。
では何であるならば捕らえることが出来るのか。
出てきた言葉は、いつもの彼女からすれば安易すぎると呆れられるだろう。


「一体きみはどこで花開くんだろうなあ…」


返事をとうに期待していなかったため、最後はほとんど鶴丸の独り言のようなものだった。
いずれにせよ、彼女の迷いが分かった以上、ここに長居して説得を試みても無駄である。
人というものは強引に説得すればするほど、反発して意固地になるものだ。
焦ってここで下手な手を打つよりも、今は大人しく引いた方が吉だろう。
それに、躊躇いがあるということは、まだどちらに転ぶか分からないということだ。
分からないならばこちら側へ転ばせてしまえばいい。

だから鶴丸賭けに出ることを決めた。
一か八かの大きな賭けに。



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