3:焦燥感
戸を開けると床に積み上げられた書籍の数々に陸遜は溜息をついた。
「またですか」
ごほんと業とらしい咳払いをしても案の定部屋の主は気づくことなく書を読み耽っている。
ここ数日の彼女の熱心さは陸遜も目を見張るものがあった。
「義姉上」
「………」
再度声をかけても一向に反応をみせないエナガに愈々溜息の大きさは増すばかり。
何となくではあるが面白くない。
それが何故かはよく分からないが、とにかく面白くないものは面白くないのだ。
「…エナガ殿」
「…ん?あっ」
やや語気を強め彼女の名を呼ぶと、三度目にして漸くこちらに視線が向けられた。
陸遜の存在を認識するやいなや、エナガは驚いたように書を読むため自然と細めていた瞳を見開いて固まった。
「ごめんなさい。つい一生懸命になってて」
「それは構いませんが…もう少し何とかなりませんか?」
「…そうだね。勢いで書庫からたくさん持ちだしてきたから…」
改めて今にも崩れそうな山の如く積まれた書籍を眺めエナガは気まずそうに言った。
そして、区切りも良いから読み終えたものはまとめて戻そうと一山を持ち上げようと動いた時である。
「そういえば……」
「何か思い出したのですか?」
「うん。ここに来る直前のことなのだけれど、あの時階段から足を滑らせてしまって…」
「階段からですか?」
「降りようとしてすぐ転んだから思わず目をつぶって受け身をとったの。そうしたら何故か衝撃も痛みも思っていた以上に少なくて、不思議に思って目を開けたら」
「ここにいた、というわけですね」
「そうなの。でも、今になって思い出すなんて…若年性アルツハイマーじゃ……ないわね、うん、それは違うわ」
「義姉上?」
「ごめんなさい、なんでもないの。そう、それでね、思ったのだけれど、もう一度同じようなことをすればもしかしたら元の世界に戻れるかもしれないなあって」
やってみる価値はあると意気込むエナガに対し、陸遜は思わず顔色を変えた。
確かにそれが原因なら試してみる価値は十分にある。
だが、試すにしてももし失敗したら下手をすれば大怪我だけで済む問題ではない。
打ちどころが悪ければ最悪は……。
脳裏に過った嫌な予想を途中で打ち切ると陸遜は改めてエナガをきっと見る。
「いけません」
「どうして?」
「万が一のことがあります。あなたもそれくらい分かるでしょう?」
「でも、今のところこれしか可能性がないの」
「一体何を焦っているのです?」
「……別に焦ってなど」
途端口ごもり視線を床に落とすエナガに、陸遜は図星かと内心溜息をつく。
そう、焦っているのだ。
今の今まで元の世界に帰る方法を探すことをエナガが怠けていたわけではない。
それがここ数日になって一日中部屋に閉じこもり夜遅くまで手がかりを探すのに費やしている。
一応食事と睡眠は最低限採っているようなので健康上の心配はそれほどないのだが、問題は精神上、心の問題だ。
分かっているからこそぎりぎりまで何も言わないでおこうと決めていた陸遜だったが、どうやらその限界が早くもきてしまったようだ。
沈黙に耐えかねたエナガは陸遜に視線を向けることなく先程手に取りかけた一山を持ち上げると半ば逃げるように部屋から飛び出した。
「お待ちください義姉上!」
「大丈夫、これくらい私一人で運べるから」
制止も聞かず後方から追いかけてくるであろう陸遜につかまらぬよう廊下を足早に進むエナガだったが、やはり体力差で階段を下る手前で肩を掴まれてしまう。
ここ数日の睡眠不足からくる苛立ちから掴まれた手を思い切り払おうとした瞬間、ぐらりと視界が揺れ宙に滑り出すような嫌な浮遊感に襲われた。
落ちる。
脳内で警鐘が鳴り響くも、思考とは裏腹にどこか他人事のような感覚でエナガは自分の身に降りかかろうとする危機をとらえていた。
どさりと手元から投げ出された書物が床に落ちる音とともに陸遜の叫び声が耳に飛び込んでくる。
声と同時に右手に加えられた力に思わず目をつぶり身体を強張らせた。
抱きとめられているとエナガが気づいたのは全てが終わってからのことだった。
掴まれたと思われる右手の衝撃以外は思っていたほどの痛みもなく、一体どうなったのかと恐る恐る目を開けると、視界に映ったのは自分を支えてくれているのはやはり――。
「陸、遜…?」
「怪我はありませんね?」
「え、あ…っ」
ショックで半ば茫然としながらも少しだけ周囲の状況に気を配る余裕が生まれたエナガは、階段下に落下するはずだった自分が何故無事であるのかを理解する。
利き手でエナガの腕を捕らえ強引に引き寄せ、同時に落下を防ぐべく片方の左手で手摺を掴み何とか踏みとどまることができたらしい。
「ごめんなさい。あの、陸遜の方は……?」
「ああ私のことは気にしないでください」
「兄上、義姉上、ご無事ですか?!」
騒動を聞きつけた陸瑁が大慌てで駆けつけてくる。
その足音を聞きながら腕を解放され、緊張の糸が切れたエナガはその場にへなへなと座り込んだ。
無事でよかった。
エナガの無事を確認した二人は揃って安堵の表情を浮かべたが、エナガの表情は浮かないままだった。
(私…迷惑しかかけていない)
自覚こそあったものの、このような形で改めて突きつけられるとは…。
じわり…。
背後からずっしりと重く圧し掛かるような嫌な感覚に襲われる。
「義姉上?」
大丈夫かと気遣う陸遜の声は今のエナガに届くことはなかった。
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