7:小さな変化



エナガが尚香に匿われてから三週間が経とうとしている。
事実上この世界から存在しなくなったことになっているためそう易々と屋外へ出ることは難しくなったが、それ以外の日常生活を送る分には匿い先が先なだけに申し分のないくらいの待遇だった。

太陽も真上に昇ったお昼過ぎ、エナガは机に置かれた本に手をつけることなく椅子にもたれて物思いに耽っている。


(暇、だな…)


そう、何から何まで充実し過ぎて暇なのだ。
椅子に座り尚香から借りた書物を読み耽ることで先日の事態による混乱から逃避していたのは最初の三日間。
以後はその皺寄せという反動だろうか。
目を背けようとしていたことが日に日に思考の内を占めていき、読書もままならなくなってしまった。

自分を誤魔化しながら日々を過ごしていたのだが、それにもやはり限界があるもの。
それが一週間目。
二週目からは自分に落ち度があったのか、何が原因だったのかなど一人自問自答の毎日だった。

元の世界に帰る方法は見つかったのは本当だし、言うタイミングが掴めなかったのも嘘ではない。
要するに一番最悪な勢いで告げてしまったのだろう。
しかし、それでもまさかあんな展開に発展するとは思ってもみなかった。
自分一人がいなくなるのは多少の後始末はいるだろうが然程手間にはならないはずである。
少なくともエナガはそう考えていたし今も考えている。

結局のところ本人に直接会って詳細を問いつめてみなければ何も変わらない。
堂々巡りの思考に無理やり終止符を打つとエナガは静かに椅子から立ち上がると、服を変え伸ばしていた髪を一括りに纏め外出用の変装にと尚香に用意してもらった鬘を被る。


(たまには外で気分転換も必要だよね)


外套を手に部屋を出て近くにいた侍女に少し出かけるという尚香への言伝を頼むとエナガは屋敷から抜け出した。






◆ ◆ ◆ ◆





エナガが尚香のもとにいることを知らない陸遜は以前エナガと始めて外出した際に訪れた湖を訪れていた。
人通りの多い通りから少しだけ離れたところにありながら不思議なくらい静かで、頭を冷やすのに丁度良い場所だった。
陸遜はどこか遠くに視線をやりながら今はいない偽りの義姉の存在に思いを馳せた。

元の世界に帰ったという事実を認識しながら、それでもどこかで否定したくてその存在を探す自分がいた。
もしかしたらあの部屋から逃げ出してどこかに隠れているのかもしれない。
反省どころかそんな願望を片隅で思い描いている自分に嫌気がさした。

自分でも持て余した感情を受け入れられないままでいた結果がこれだ。
後悔したところでなかったことにはできない。
どうにもできないもどかしさに無意識に拳握りしめる。
皮膚に爪が食い込んで白くなるのも厭わないくらい強く、まるでそれが自分への報いだと言うように。

後悔と自責の念に駆られ内に籠りきった陸遜の意識を現実に呼び戻したのは背後からの声だった。


「陸遜!」

「――っ、エナガ、殿…?」


いるはずのない存在が目の前に現れたことで目を見開く陸遜に、ある一点に関心が行っているエナガはそんな陸遜の様子など気にすることなく厳しい形相のまま傍に駆け寄ると、構うことなく腕を掴んで珍しく声を荒らげた。


「何してるの!手、血が出てるじゃない!」

「…え、ああ…そうですね」


気づけば爪が食い込んだことにより切れた皮膚からつぅと血が流れていた。
別にさしたる問題でもない上、自分にとっては当然の報いだとばかり考えていると、それを察したのかエナガは握る力を強めた。


「『そうですね』じゃないでしょう?」

「…はい」


なまじ怒鳴ってくれた方がマシのような…。
顔は笑っているが目が笑っていない。
さらに言うなら声もどことなく低く淡々としたもので、初めてみるエナガの静かな怒りに陸遜は思わず引き攣った笑顔で謝る破目になった。
このままでは体裁が悪いと何か気を紛らわすようなことを話そうと口を開くも、自分がここにいた理由を思い出し再び口を閉ざす。


「陸遜……?」

「すみませんでした」

「………」


頭を垂れ自分がした行いについて謝罪の言葉を述べる陸遜にエナガは驚いて思わず掴んでいた腕を放した。
それでも陸遜は頭を上げようとしない。
恐らくエナガが何か発しない限り顔を合わせようとはしないのだろう。
ならば…と慎重に言葉を選ぶようにエナガはゆっくり口を開いた。


「もう大丈夫だから…あの、顔を上げてほしいのだけれど」

「……分かりました」

「それに私の方こそ謝らなくちゃいけない立場にあるわけだから」

「そんなことは」

「あるの」


陸遜の否定を打ち消してエナガは三週間前の詳細について謝罪も含めながら話をした。
尚香と周泰によって部屋を抜け出したこと。
今まで尚香の好意により彼女の客室を借りて生活していたこと。
そして、元の世界に帰る方法が見つかったのは本当だということ。

それまで何も言うことなく聞いていた陸遜だが、最後の一つだけは本当かと再度確認をしてきた。
本当だと答えるとそれで納得するかと思われた陸遜はなおも言葉を続けた。


「帰ろうとは思わなかったのですか?」

「…あ」


その手があったか。
完全に頭から抜け出ていた考えに間抜けな声を挙げるエナガに陸遜はまさか気づいていなかったのかと驚くと同時に、それに気づいた彼女が今すぐ元いた世界に帰ってしまうのではないかという不安に襲われた。
不安から思わず陸遜が放された腕に手を伸ばすとエナガは逃れるように腕を引っ込めた。
拒絶ともとれるその反応を見て陸遜は己が失態に気づくと、無意識下での行為に自身で動揺しているエナガに一言謝罪の言葉を述べる。

自分が彼女にしたことを忘れたわけではない。
それを考えたらあれくらいの拒絶で衝撃を受けられる立場ではない。
脅されて閉じ込められた側の心の傷は深いだろう。
いっそ思いっきり殴られて帳消しになるのなら幸いな方だ。


「私が…怖いですか?」

「私が陸遜を…?」

「ええ、私は…貴女に嫌われてもいいことをしました。どれだけ謝ったとしてもその行為をなかったことにはできません」

「……確かにあの時の陸遜は怖かった。それにショック…傷付いたけれど、今は怖くないから大丈夫」

「そう…ですか」


拒絶されても仕方がない、構わない。
そう思い覚悟を決めてはいたものの、実際にエナガの口からその予想を否定され安堵する自分に陸遜は矛盾を感じながらもそれを悟られないよう振舞った。
心こそ読まれなかったが安堵の気持ちだけは完全に隠しきれなかったようで、エナガの顔は困惑ではなく気にしなくていいとでもいうような笑顔が見える。


「私は頼りないかもしれないけれど、これからは何か言いたいことや不満があったら先に言って。出来る限り相談に乗るから」

「それではお言葉に甘えてもよろしいですか?」

「もちろん」


嫌われても同然と言いながらこのように自分にとって都合の良い展開になればその機会を逃すことなく利用しようとする自分を厚かましい人間だと理解しながらも陸遜はそれを口にした。


「義姉上ではなく名前で呼んでも構いませんか?」

「ええ」

「それでは…」


抱きしめていいですか?
確信犯で柔らかな微笑みを浮かべ顔を覗き込むようにそう問いかけると、エナガは一瞬目を見開いた後笑顔でその頼みを受け入れた。
さあと冗談半分照れ隠し半分に腕を広げて待つエナガを見て陸遜はそっとその身体を抱きしめた。

この様子を見ても恐らくエナガは自分のことを異性というよりも家族としての視点から見ているのだろう。
ならば少しでも意識してもらえるまでこの想いを告げるのはもう少し後にした方が良い。
エナガがすぐ帰ってしまったらという焦燥もないわけではないが、逆に帰り方が分かったのならそんなに焦って帰る必要もないはずだ。
少なくとも今すぐ帰るとは言いださないだけマシだと言える。

卑怯と言われようとも、エナガを引き留められるように最善の策を講じるつもりだ。
ある意味賭けとも言える選択だが負けてたまるかと意気込むように陸遜は抱きしめる腕に少しだけ力を込めた。




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