十:先手必勝
「ご、ごめん」
「かまいませんよ。今までの疲れがまだとれてないのでしょうから」
慌てて姿勢を正して向き直ると、気にするなと言ってくれた部屋の主もまた手を止め柔和な笑みとともに視線を向けてくれた。
それにつられてエナガもまた笑みを返す。
――と、ある言葉にひっかかりを覚えた。
“今までの”疲れ。
意味する内容は一つしか思い当たらない。
「えっと、…いつから知ってたの?」
「昨夜呂蒙殿から事の詳細を聞きました。…呂蒙殿も随分心配していましたよ」
「…やっぱばれてたんだ。泣き寝入りは数回しかしてなかったんだけど」
「それだけの異変があれば気付きますよ。どうして呂蒙殿に何も言わなかったのですか?」
あれだけのことをやられたのだ。
事実上保護を受けている呂蒙に訴えても文句は言われないはず。
それを是としなかったのにはそれなりの理由があるのだろう。
単刀直入に聞くのは多少躊躇われたが、それでもやはり聞かずにはいられなかった。
「呂蒙さんに心配かけたのは申し訳なかったけど、自分でなんとかできる範囲であれば何とかしないとって思ってたからかな」
「それで今まで耐えていたのですか?」
「そう言うとなんかすごく聞こえるけど、実際のところ文句を言う度胸がなかっただけっていうのが大半かな」
「ですが、昨夜は――」
「あれは、…実をいうと陸遜や凌統さんがいてくれたっていうのが大きいかも。卑怯かもしれないけど、二人がいればなんとかなりそうだと思っていたから」
バツが悪そうに視線を落とすエナガに、そんなことはないと陸遜は言った。
あの者たちのやり口を見れば彼女が自分を卑怯者だと思う必要などないのだから。
はっきりと言い放つ陸遜に、床に向けられた視線がふっと彼の方に移動した。
「そう言ってくれると助かるよ」
「礼にはおよびません。それと、何か問題が起きたらこれからはすぐに知らせてください」
「それは…無理」
こうもきっぱりと言われるといささか悲しいものがある。
自分たちは信ずるに値しないのだろうか。
そんな落胆を感じ取ったのかエナガは勢いよく机に両手をバンとつき、上体ごと迫るような体勢で違うと否定した。
「あ、あのね。別に陸遜や呂蒙さんたちを信頼してないわけじゃないから」
「ならば何故そこまで頑ななんです?」
「それは、さっきも言ったとおり自分だけでできることは最低限やれるようにしたいから。この世界でいざという時一人じゃ何もできないままというのはダメだと思って」
「だから呂蒙殿の提案も断ったというわけですね?」
「うん、…後悔してないわけじゃないけど。一応今朝は何ともなかったから大丈夫だとは思うし」
そう言うとエナガは漸く机から離れ一呼吸ついた。
そして、話題を変えるように別の話を切り出した。
「そういえば、あれから大丈夫だった?飲みに行く予定だったんでしょ?」
「ああ、それはまた次回になりました」
話を聞けば陸遜らは呂蒙とともに飲みに行く途中だったとのこと。
酩酊こそしていないものの、大量の酒を飲んだエナガの体調を配慮して凌統が屋敷まで送ることになったのだ。
そして陸遜がそのことを呂蒙に伝えにいったというわけなのだが――。
結局のところ自分のせいで折角の楽しみを奪ってしまったと気が気ではない。
不安が顔に出ていたのか、そんなエナガに別に気にする必要はないと陸遜は付け足した。
それでも納得がいかないのか、エナガはいまだ難しい顔をしている。
「本当にごめんなさい」
「ですからそう謝らないでください」
「ごめ…じゃなくて。なんというか、もう口癖に近いんだよね、これ」
「それはあまり良い癖とは言えませんよ」
「分かってる。あんまり言うようなら謝るごとに罰金だって呂蒙さんに言われたから…」
「それで、効果はあったのですか?」
「全然。呂蒙さんは私の学習能力のなさに罰金の話も忘れて呆れてた」
罰金云々は冗談であるとして、エナガの謝り癖は筋金入りらしい。
「それに、よく考えてみたら私陸遜に謝ってばかりな気がするんだよね…」
言われてみれば――。
最初の出会いが出会いなだけにその印象は大きかった。
エナガの方はかなりの迷惑をかけたという意識の強さがあっただろう。
もしかしたらその影響で陸遜に対して申し訳なさを感じていた感も拭えない。
とはいえ、それこそ早く直すべき癖であることは確かだ。
「ではこうしましょう。今後無闇に謝罪をするごとに一つ私の言うことを聞く、というのは如何です?」
「いやそれはちょっと……」
「直すとなると多少の荒療治は必要ですよ」
「それはそうだけど」
「それでは決まりですね」
「う…うん」
うまいこと誘導尋問にかけられたような錯覚を覚えたが、頷いた時点で既にアウトだった。
そこで改めて意義を唱えるべく口を開く。
「でもやっぱりそこまで協力してもらうのは何か申し訳ないような…」
「エナガ殿」
「あ……」
にこり、と笑顔を見せる彼の人物にエナガは逃げるように一歩後ずさる。
しまったと後悔するも既に遅い。
「あー、そろそろ仕事にもどらないと…」
「エナガ殿」
「…っ、わかった。私の出来る範囲でお願いします!」
「では、明日。エナガ殿の一日をいただけますか?」
「…具体的には?」
そこで即イエスと答えるほどエナガは甘くない。
やや疑いの目を向けながら陸遜の動向をじっと探っている。
次に返ってきた言葉は身構えているエナガの予想に反して穏やかなものだった。
「そんなに警戒しなくても大丈夫ですよ。ただ久しぶりに一緒に城下を散策しないかと思っただけですから」
「でも私より陸遜の方が断然忙しいでしょ?それにこれってペナルティー…罰則って言わないんじゃ――」
「私のことは気にしないでください。それに私は“私の言ったことを聞く”と言っただけで、何も罰則とは言ってませんよ」
「た、確かに…」
いまいち納得できないものを抱えながらも、これ以上抵抗を続けても勝てる見込みはないとみたエナガは、一抹の不安を残したまま分かったと一言返すだけだった。
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