十五:無自覚


何の因果かエナガがこの世界に引き込まれてからはや二月。
季節は盛夏から秋へと移り代わり始めた頃のこと。

相も変わらずエナガは最初の部署から離れず雑務に勤しんでいた。
飲み比べの一件以来、エナガに対する露骨ないじめはなくなったどころか、加害者側の方がエナガと会う度に被害者のように怯え、極力接しようとはしなかった。

これには多少の嫌がらせ程度は覚悟していたエナガ本人も拍子抜けをし、あっけないとさえ感じている。
とはいえ、もしも悪質な仕打ちがエスカレートした場合は自分の身の危険と仕事への支障の度合を鑑みて呂蒙に仕事を辞退する旨を伝えるつもりではあったのだが。

さらにもう一つ。
エナガが全く予期していなかった事態が起きた。


「あんた本当にすごいよなー」

「ホントホント。なんていうかさー、度胸あるよな」

「…そんなことないと思うけど」

「謙遜なんてしなくていいのに」

「そうそう。本当良くやったよ」

「はあ……」


どこからともなく(というとやや語弊があるが)湧いて出たかのようにエナガの周りに群がる集団。
彼らもまた同じ職場の仕事仲間である。

よくよく聞けばかの者たちによるエナガに対する一連の悪行を内心快く思っていなかったとのこと。
そういうものの彼らとて馬鹿ではないらしく、揉め事に興味本位で態々首を突っ込むような真似はする気がなかったのだ。
自分の仕事で手一杯という状況で、相手に構っていられるほどの余裕はない。
それを重々承知のエナガは彼らに対して面と向かって非難する気はさらさらなかった。

彼らの無関心を変えたのが例の一件である。
後になって分かったことだが、あの夜彼らもまた食堂にいたという。

流石にこうも表だった騒動が自分たちの前で繰り広げられることになるとは夢にも思わなかったようだが、あの事件をきっかけにエナガという存在に興味を覚えたことだけは窺えた。
それはエナガにとって皮肉なことではあるが、仕事場での知り合いが増えたのは喜ばしいことだった。

そう、喜ばしいのだが――。


「…で、いつまで付いてくるの?」

「ん、最後まで」

「私この書簡を呂蒙さんのところまで届けにいかないといけないんだけど」

「だからさ、それが終わったらまたもとの仕事に戻るだろ?」

「どうせ通り道だから付いていっても変わりないって」

「こんなに4、5人でわらわら行くほどのものでもないし、第一道的にどう考えても通り道どころか寄り道の部類だと思うけど?」

「淡々と言うね…」

「こういうのあれだろ。前言ってた、“くぅる”ってやつ?」

「……違うって」


この際とばかりにたいして意味をなしていなかったらしい男装もやめ、女であることを隠さなくなったのだが、それでも彼らは構うことなく、…否、構うという配慮以前にある意味同性に接するかのようにエナガに突っかかってくる。
エナガもまた自己責任の下何かと自由を許された大学に入り、知らず知らずのうちに許容範囲も拡大したこともあってか、昔ほど異性と話す抵抗もなくなっていたため、こうした扱いに女としてどうなのかと疑問を抱きながらも、反面では対等に接してくれる彼らに悪い気はしなかった。

だが、それはそれ、仕事は仕事である。
今は彼らに構っている場合ではない。

いい加減そろそろ本気で怒ろうかと思った矢先、助け舟はタイミングよく現れた。




◆ ◆ ◆ ◆




エナガが呂蒙のもとに向かう中、丁度その呂蒙と別れた陸遜は自室へと向かうべく広い廊下を一人歩いていた。
そしてあと少しで曲がり角というところで、陸遜は雑談をしながらこちらに向かってくるエナガらの声を耳にした。
一方エナガの側は金魚の糞のごとく付きまとう同僚に注意が向いているためもあってか、近づいてくる足音に気付かないでいる。


「そろそろいい加減にしてよね…」


仏の顔も三度まで、とカウントダウンを宣告したエナガに、一体何事かと陸遜は思わずその足を止めた。
まさか曲がり角に人がいるだろうなど夢にも思っていないエナガは、ぴたりと立ち止まると、それに合わせるようにまたぴたりと歩みを止めた男たちに再度忠告した。


「今は昼休みじゃないんだから」

「えー、まだ大丈夫でしょ?」

「そうそう。真面目過ぎだって」

「真面目で結構。むしろあなたたちが不真面目過ぎ」

「そんなことないって。一応仕事はきちんとやってるし」

「…あ、そう。なら勝手にすればいいけど、私の邪魔はしないでくれる?」

「邪魔?」

「そう、邪魔だから付いて来ないで」


そうぴしゃりと言い放つも、何故とばかりに首を傾げたり顔を見合わせたりするあたり簡単には帰ってくれないだろうことは目に見えていた。
心なしか頭痛を覚え始め、エナガは無意識に片手で頭を抱える。

どうやらこれは本気で怒らなければならないらしい。
そう考えたエナガが怒りの第一声を発しようとした頃合いを見計らったかのように、助け舟として間に割って入ったのが先まで様子を窺っていた陸遜だった。


「エナガ殿、少しよろしいですか?」

「え、あっ、陸遜?!」


まさかここで出くわすとは思わなかったエナガは背後からの不意打ちに面を喰らい、思わず声を荒らげ振り返るも、同僚がいる前でうっかり呼び捨てにしてしまったことに気づき、慌てて体裁を整えようとした。


「ええっと、私に用…なんですよ、ね?」

「ええ、急を要するので出来れば今頼みたいのですが…」


さりげなく男たちに視線を向けた後、すぐ自分に何かを確認するように微笑みと視線を向けた陸遜に、それを感じ取ったエナガは後ろにいる仲間が何かを言う前に逸早く口を開いた。


「全然大丈夫、問題ありません!」


威勢のいい返事をするエナガに自分の意図を察してもらえたと分かった陸遜は、ここだと通行の邪魔になると言ってもと来た方向へとエナガを誘導したのだった。

そして、エナガの勢いに若干呆気に取られていた金魚の糞の彼らはというと、二人の気配が遠のいた後。


「なんて言うかさー…」

「ああ、あれだよな」

「玉の輿ってやつ?」


…と、当事者の耳に入らないのをいいことに、先のやりとりの裏を分かっているのかいないのか言いたい放題ぼやいていた。







ある程度の距離を進んでからもう大丈夫だろうと陸遜は立ち止まる。
それにつられ横を歩いていたエナガもまた歩くのをやめた。


「ここまで来ればもう問題ないでしょう」

「手間かけさせてごめんなさい」

「謝る必要はありませんよ。私が勝手にしたことです」

「でも、助かったよ。あ、本当のところ用事はないの?」

「ええ、私の用事は先程済んだばかりですから」

「もしかして…方向からして、呂蒙さん?」


その通りではあるが、ここで肯定などするものならまたも謝罪のオンパレードに入りかかることは目に見えていた陸遜は、エナガの気を逸らすべく話を他へと振ることにした。


「そう言えばあの方たちは?」

「あ、ああ。あの人たち同じ仕事場の仲間で…。フレンドリー…親しくしてくれる分には問題ないんだけどね…」


だけど公私をもう少しだけ分けてほしいと、溜息をつきながらも彼らに対して肯定的にとらえているエナガに、尋ねた陸遜は以前のようなあの複雑な感情に囚われた。

見知った者がいない世界へ放り出され、右も左も分からない中で気を許せる者たちが増えることは誰が見ても喜ばしいことだろう。
しかし、そう思う反面それを素直に肯定できない感情が沸き起こっているのもまた事実だった。

親しくされることを問題ないとエナガは言うが、陸遜の中で無意識に出た答えはどちらかというとその逆に近い。
それに気づいた直後、何故そう思ったのかと自問するも、納得のいく答えを割り出す前にその思考は中断された。


「陸遜?」

「え…」


そこでふと視線を戻せば突然黙り込んだ自分を心配したエナガの顔があった。
自分で考えていた以上に物思いに耽っていたと分かった陸遜は、大丈夫かと気遣うエナガに心配ないと笑顔で応えた。


「本当に?無理、してない?」

「本当です。無理はしていません」

「…ならいいんだけど」

「エナガ殿」

「何?」

「ここの生活には慣れましたか?」

「それはまあ…、最初はどうなることかと思ったけど、こうしていろんな人と仲良くなれて少しは落ち着いたかな」

「そうですか」

「もちろんこうしていられるのも呂蒙さんや陸遜たちのおかげだから、その点についてはすごく感謝してるよ」

「私も、ですか?」

「当然でしょ。現にこうやって何かと助けてくれるのってほとんど陸遜だしね」


そう言って改めて「ありがとうございます」と深々と礼を言うエナガに、陸遜は胸中にある絡まった複雑な思いの糸が少し解けるのを感じた。

とりあえず、エナガがいいならそれでいいではないか。

自分の中の問題が解決したわけではないが、今はそれだけで十分とばかりに顔をあげたエナガに応じるよう柔らかな笑みを向けた。

この時――。
返した微笑に見知らぬ土地で独り頑張る知り合いに向けるものとは少し別の感情が入り始めていることに陸遜自身まだはっきりと自覚をするには至らなかった。
完全に気づくのはあと少し…、エナガとの別れが迫った時のこととなる。






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