十六:望郷の果て


静寂が漂う薄暗い書庫に二人の男女。
人目を避けての逢瀬かと思いきや、実際のところはその真逆で色気の「い」の字も見られない。

それもそのはず。
何せ逢引きどころか仕事の関係上そこにいるだけなのだから。

一定の間隔を空け互いに黙々と抱えた書簡を棚に戻すといういかにも事務的な作業を行っている中、女、エナガの方がぽつりと呟いた。


「なんていうか、大学の図書館を思い出すな…」

「そう言えばエナガ殿は学生でしたね」

「うん、まあ私は駄目学生なんだけどね…」


そこでふとエナガの中で忘れていたある不安が沸き起こる。

この世界に飛ばされる直前自分は何をしていたのか。
思い出したくない事実にエナガの顔色は蒼白へと変じ、額にはじわりと冷や汗が滲み出でいる。


「…やばい」

「エナガ殿?」


急に手を止めたエナガの異変を感じ取った陸遜は気遣うように声をかけるも、完全に余裕がなくなったエナガは一人地獄の真っただ中にいた。


「レポートも試験も放棄したってことは、単位が…。しかも今第二外国語が取れないと…」


最悪の二文字がエナガの脳裏に過る。


「……嫌」

「あ、あの、エナガ殿?」

「留年だけは絶対に嫌―っ!」


急に叫ぶと頭を抱えしゃがみこんで現実を拒絶し出すエナガを陸遜が正気に戻すのに多大な労力を要したのは言うまでもない。







◆ ◆ ◆ ◆







公共の場にも関わらず取り乱し、散々喚き散らし、漸く落ち着きを取り戻したエナガは今、冷静さを取り戻すまで付き添ってくれた陸遜と休憩も兼ねて陸遜の執務室で一足早いティータイムに入っていた。


「…取り乱してごめんなさい」

「構いませんよ。エナガ殿にとってそれだけ重要な問題なのでしょう?」

「そう、なんだよね…」


ある意味人生が懸っているといっても過言ではない。
改めて現実を見つめ直してみると、今までは冗談で済んだものが愈々済まなくなってきているのだ。
最初のように取り乱しはしないものの、深く腹の底から吐き出されたため息がその深刻さを物語っている。

現に戻る手段がないこの状況を嘆いていても仕方がないことは百も承知。
それに、元いた世界に戻るということはこの世界に別れを告げるということになる。
自分の意思とは無関係に連れてこられた土地ではあるが、慣れ親しんでいくにつれ故郷とは違う温かさを感じ始めた頃でもあり、帰れるとしてもはいそうですかとすんなり戻れない。
ぐっと手に力を込めると手中の杯にある茶に小さな波が立った。
胸中を表わすように頼りなさげにゆらりゆらりと立ったそれが完全に消えた折、エナガは徐に口を開いた。


「でも……」

「……?」


(欲をいうなら一旦は帰りたいかな)


ぽつり…――。
本音ととれる呟きに応えたのは向かいに座る陸遜ではなく、足下から溢れ出んばかりの白光だった。


「な、何?!」


あまりにも突然の異変に光の中心にいるエナガはおろか、それを目の当たりにした陸遜もまた驚愕し言葉を失っている。
光は当人たちの意思を無視してその輝きを強め次第にエナガを包みこんでいく。


「――っ」

「エナガ殿!」

驚きで動けずにいた身体がやっと言うことを聞くようになったのも束の間、逃げ出そうにも時既に遅く、光はエナガの腰を包み込んでいた。
覆われてしまった部分はどんなに身体に力を入れても一ミリたりとも動かすことができない。

その異変を感じ取った陸遜は身動きが取れないエナガを引きずり出そうととっさに手を伸ばした。
エナガが辛うじて動かせる手を伸ばそうとした刹那、まるでこの状況に気付いたように光はその輝きを一気に増し、部屋全体を包み込んだ。

白光が消え室内がもとの雰囲気を取り戻した時、そこにあったはずの存在は髪の毛一つ残さず消えていた。
微かに漂う茶の薫りだけが閑散とした室内に今の今まで人がいたということを物語っている。



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