十八:これから
大学から歩いて数十分という場所にエナガのアパートはあった。
最新の物件というわけでもなく、築何十年というやや年季が入ったものであるため家賃も生活費に負担がかかるほどのものでもない。
だからと言って見るからに古めかしいということもなく、多少の改装はしてあるため室内環境は今どきの大学生にも申し分のないくらいのもので、蓋を開けてみればかなり好条件の物件だと言える。
「ちょっとここで待ってて」
家に帰るなりエナガが言った最初の一言がそれだった。
そして、陸遜を玄関に残してエナガが居間に向かってから数分間、バタバタと慌ただしい音が聞こえた。
ドアの磨りガラス越しに忙しなく動くエナガを見るに、部屋の片づけをしているのは一目了然だった。
「待たせてごめんね。もう入ってきていいから」
「それでは、失礼します」
陸遜は事前に言われた通り靴を脱いでエナガがいる居間のドアを開ける。
先程の物音からして相当の荷物が散らばっていたのかと思えば、一見してみると部屋の中は意外とすっきりしている。
「レポートや試験のための資料や文献が床に放置しっぱなしだったからさっき慌てて片づけたの」
「そうだったんですか」
道理で物音の割には片付く時間が短いわけだ。
成程と一人考えていると、それを察したようにエナガが口を開く。
「もっと汚いかと思ったんでしょ?」
「え、…そ、それは」
「大丈夫、本当のことだから。今回は図書館に行く前々日に掃除してたからまともだっただけの話だし」
「そう、ですか…」
「…もしかして呆れた?」
そう言って少しだけ困ったような顔をするエナガに陸遜は慌てて否定する。
珍しくわたわたと両手を左右に振って違うと言う陸遜を見てエナガは思わず吹き出した。
「エナガ殿……」
「ご、ごめん。でも、そう言ってくれてよかった。自分でもずぼらだって分かっててもやっぱり肯定されるのは凹むから。それに、陸遜には嫌われたくないしね」
「え…?」
今、さらりとすごいことを言わなかったか。
一瞬己が耳を疑うも目の前ではっきりと言われたため聞き間違えということではなさそうだ。
うっかりあらぬ期待をするも、それはエナガの次の言葉に一瞬にして崩壊する。
「だって折角できた友人なんだから。って、ならもっと普段から整理整頓しろよって話だよねー。これからはそうするから今回は大目に見て盛られると嬉しいかな」
「え、ええ…わかり、ました」
「陸遜?あの、大丈夫?」
「…大丈夫ですよ。それに、私があなたを嫌うなんてことはありませんから」
何が悲しくて部屋が片付いていなかっただけで好きな相手を嫌いにならなければならないというのだろう。
みたところ少なくとも最低限の整頓はされているし、所謂塵部屋というわけでもないのだ。
一人で暮らしているのだからその分他にもやることがあって家事を完璧にこなし続けるのは難しいことくらい分からないわけでもない。
あの謎の空間にいた時の出来事といい今のことといい今日はよくエナガに振り回される日である。
否、実際エナガ本人は陸遜を振り回しているわけでもなく、その言動も以前の陸遜ならいつも通りとさして気にも留めないものだった。
要は陸遜側の気持ちの変化が原因とも言える。
己が心境の変化に現金だと思うが陸遜はそれを否定することなど今更する気はなかった。
勉強机にある椅子に腰をかけるようエナガに促されるまま座ると、エナガは台所へ行くとお茶が入れられたグラスを両手に持って戻ってきた。
渡されたグラスのお茶を一口飲み終えるとエナガの溜息が聞こえた。
「それにしてもどうしてこうなったのかな…」
そう、無事元の世界に戻ってこれたまではいい。
問題はエナガだけでなく、今度は陸遜が一緒にこちらに来てしまったことだ。
図書館に戻された後、そこからがある意味大変だった。
第一に何故か陸遜までもが来てしまったこと、そして身に着けていた服がいつの間にか二人して現代のそれに変わっていたこと、さらには時計を見ると時間がちょうどエナガが陸遜の世界に連れて来られた直後と変わらないことだった。
ずっとこの場に留まっているわけにもいかず、とりあえず人目を気にすることなくゆっくり話し合える場所ということで今エナガの部屋にいるというわけだ。
戻って来られたのを喜ぶどころか陸遜を巻き込んでしまったという事実に責任を感じているエナガとは裏腹に、陸遜の方は至って平然としている。
普通なら早く帰る方法を探そうなど思ってもっと焦ってもいいはずだ。
内心そう思っていてもエナガの手前それをおくびにも出さないのか、それとも既に何か他に打開策があるのか。
不安になって反応を窺うように遠慮がちに疑問をぶつけると、返って来た言葉はそのどちらでもなかった。
「なんとかなりますよ」
「や、でも本当に大丈夫?無理してない?」
「不安がないと言えば嘘になるのかもしれません。ですが、今までの状況を考えるとあの空間を造った者が必要とあらば何らかの行動を起こしてくるはずです」
「私の時みたいにってこと?」
「ええ、恐らく」
「でも、それじゃいつになるか分からないじゃない」
「確かにそうですね。数日か…最悪エナガ殿と同じくらいの月日まで何の変化が起こらなかった場合は、戻る方法を自力で探していくしかありません」
「私も協力するから!こうなったのも私のせいかもしれないし…本当ごめんね。恩を仇でしか返せていないなんて…」
先程から胸の内に渦巻いていた罪悪感を吐露するエナガに陸遜は非難するどころか笑顔で彼女を見た。
「エナガ殿」
「……?」
「確かにこの状況はいろいろと問題があります。しかし、私はあなたを恨んだり怒ったりする気はありません」
「でも…」
「今思えばあの光はエナガ殿を元の世界に連れて帰るためのものだったのでしょう。それでも私はあなたに手を差し出したことを後悔していません」
「陸遜…」
「それに、こうやって一時でもこちらの世界で自分の知らないものに見て触れることができる機会は滅多にありませんから」
良い勉強になると言う陸遜にエナガは驚きを隠せなかった。
自分の例があるとはいえいつ戻れるかも分からない状況下でこうも前向きに物事をとらえていくその強さ。
こうした精神面での強さはやはり敵わないと改めて思うエナガだった。
もしかしたら自分がいなくても陸遜なら一人で帰る方法を見つけてしまうのではないか。
そう思うものの、それでもやはり少しでも何か力になりたいとエナガは思った。
「陸遜、私じゃ役に立たないかもしれないけど出来る限りのことはするね」
「エナガ殿にそう言ってもらえると心強いです。エナガ殿は役に立たないと言いましたが、十分過ぎるくらい私の助けになっていますよ」
「そ、そうなの?」
「はい。それに…少々不謹慎かもしれませんが、こうやって何の気兼ねなくあなたとゆっくり話すことができるのは願ってもないことですから」
「え、でもそれって向こうにいた時と変わらないような気がするんだけど」
「それはそうかもしれませんね。少なくとも私にとっては思ってもみない機会ですから時が来るまでは有効に活用したいと思っています」
何せここには自分の気を乱す者がおらず、堂々とエナガを一人占めできるのだから。
これ以上の役得はないだろう。
もちろん自分のいた世界に帰ることが最重要事項には変わりないが、それでもこの喜びは当分消えそうになかった。
そんな陸遜の心情を知る由もないエナガは今後の生活のことについてどうするかを真剣に考え始めているのだった。
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