二十五:追って追われて


何歩か進展したかと思いきや…むしろ後退しているのではないかと思うくらいのじれったさ。
けれども当の本人たちにとっては今この瞬間が一番の問題だった。


「どうして呼んではくれないのですか?」

「どうしてって…あの時は仕方なかったからでしょ」

「私が良いと言っているのです」

「だから私は前のままでいいって言ってるの!」


偶然通りかかった呂蒙は公の場である廊下で気にすることなく声を荒らげる陸遜とエナガのやりとりを見て呆れかえった。
やるならどこか人目の付かないところでやってくれ。
そう思いつつも見過ごすことができずにいる自分の性格に嫌気がさしつつも、呂蒙は重い足取りで二人の間に割って入った。


「全く、二人して一体何をやっているんだ…」

「呂蒙殿」

「聞いてくださいよ、呂蒙さん」


そう言って呂蒙へと視線を向けるエナガに、呂蒙は声をかけるべきではなかったかと内心後悔に苛まれる。
そんな呂蒙の心情など露知らずのエナガは苦情を含めた事の次第を吐露し出した。
要は向こうの世界では陸遜のことを字で呼んでいたのに、ここにきてまた呼ばなくなったエナガに陸遜が文句を言っているとのこと。
聞けば聞くほど第三者では解決しようのないほどのくだらなさに、ほとほと呆れ果てて小言も言う気力さえ奪われる。
幸いもう一人の当事者である陸遜が口を挟まずにいてくれているあたりが、事態の更なる泥沼化を防いでいる…今のところは。
恐らくこれ以上長引けば否が応でも彼の乱入は免れまい。
とはいうものの、これといった解決策などあるわけないため、ひとまず強制的に不毛な議論を終了させるより他はない。


「事情は分かったが、お前たち…ここをどこだと思ってるんだ?」

「「あ……」」


呂蒙の一言で漸くこの場がどこであるのかを理解した二人は情けない声を漏らすと気まずさに黙り込む。
ひとまずこれで周囲への迷惑は回避されたと安堵するも、根本の問題の解決に至っていない時点で問題は残っている。
だがそこまで面倒をみてやる気はさらさらない呂蒙は、喧嘩をするなら場所をわきまえてやれとだけ言い残すとそのままさっさと二人のもとを立ち去った。

後に残された二人は二人で周囲の目を気にしてか、流石にこれ以上同じ場で繰り返すわけにもいかずお互い向かい合ったまま暫く沈黙する破目になった。
数分ほど傍から見れば奇妙な状態でいたところ、仕切り直そうと陸遜が口を開きかけた……が。


「わ、私、尚香から頼まれていた事があるから失礼するね!」

「え、あの、話はまだ終わって…」


ない、と引き留めたい陸遜に、こういう時だけは逃げ足が速いエナガは尚香という切り札を出し、そのままそそくさと逃げ去ってしまった。







◆ ◆ ◆ ◆








陸遜から一目散に逃げに逃げた先でばったり出会ったのは、彼の弟であった。
丁度手が空いたので話でもしないかという瑁からの誘いに、兄と違い彼からは別段逃げる必要もなくエナガは構わないと頷いた。
少女の見舞い以来の久しぶりの会話に話題は尽きることなく、近況報告に始まり趣味やら好きな食べ物やら和気藹々と語ることができた。


「そう言えば、瑁くんは好きな人っているの?」

「え、い、いませんよ!」


まさに思いつきという突拍子もない質問に慌てて瑁が否定する。
照れ隠し故の反応かと思いきや、ただ単に恋愛話に慣れてないだけということらしい。
これ以上突っ込んでは可哀想と思い軽く謝罪を入れると、瑁もまた気を悪くさせてすまないと詫びを入れた。


「あ、あのですね。そのように想う方は私にはまだいませんが、その…義姉になってほしい方はいます」

「お姉さんに?」

「はい」

「瑁くんが気に入る人くらいのだからきっと素敵な人なんだね」


エナガにしてみれば思ったことを口にしたまでなのだが、瑁は気まずそうに曖昧な受け答えで誤魔化した。
まさかエナガだとは口が裂けても言えない瑁は苦笑するより他はない。
言いたくとも言えないというもどかしさに苛まれつつも、瑁はふとある疑問が浮かんだ。
こうして自分に聞いてきたのだからエナガにも誰か想う者がいるのではないか。


「もしかしてエナガ殿には想う方がいるのですか?」

「わ、私…?」


何気なく振った話ではあるが、少々迂闊過ぎたとエナガが気づくも、時既に遅し。
妙に目が輝いている瑁を見てエナガは逃げられないことを悟る。
だからといって想う人物の弟に「あなたのお兄さんが好きです」と言う度胸など無論エナガにはない。
その戸惑いが瑁に伝わったようで、手がかりだけでも教えてくれとなおのことせがまれる破目になった。
どう頼まれようとも言えないものは言えない。

即答できず唸っていると、それを肯定とみなした瑁は相手が誰なのかとしきりに迫ってくるではないか。
まずい、それはもう絶体絶命の域にある。
さらに不運なことに、天はエナガに味方する気はないらしい。


「姫への用事は済みましたか?」

「げっ」

「げっとは何ですか…」

「兄上、エナガ殿と何かあったんですか?」

「ああそれはですね」

「それじゃあ私もう行くねー!」

「待ってくださいエナガ!話はまだ終わっていません」

「待つわけないでしょーが!私今日はもう帰るから!」


付いてくるなと暗に言い捨てまたも逃げ出すエナガ。
流石に帰ると言われてはこれ以上追いかけるわけにもいかず、陸遜も諦めたように盛大な溜息をもらした。
そんな二人のやりとりを間近で見ていた瑁は、ふとある違和感を持った。


「あの、兄上。その、話とは…?」


話によると兄は数日ほど手違いでエナガの住む世界に行ってしまったと聞いたが、まさかその間に何か進展でもあったのだろうか。
今までエナガのことを呼び捨てになどしていなかったはずなのに…。
第三者が介入していいものなのかいささか気が引けることもあり、遠慮がちに兄を見る瑁に対して、陸遜は気にする素振りも見せずにこれまでの経緯を述べた。

光に浚われるエナガを引き留めた際、自分も彼女の世界へと誘われた際、呼び方を指摘されたこと。
そのため人目がある場合とない場合とで呼び方を変えていたこと。
折角だからと戻ってきてからも名指しで構わないかと聞いたところ、構わないと言われたこと。
ならばと自分もまた字で呼んでくれと言えば、何故か断固拒絶されたこと。

話を聞くにつけてエナガが息を切らせて駆けてきたわけがよく理解できた。
あの時は別に問い詰める気にならなかったので深く触れないでいたがこれで納得がいく。
一通り聞き終え一人頷く瑁に、本題はこれからと今度は陸遜が彼に詰め寄った。


「それで、エナガと何を話していたのですか?」

「あ、えっと、それは…あの」


とてもじゃないがこの状況で言えるわけがない。
否、言っても問題ない、むしろこれを機にまた何か進展があればいいのかもしれない。
だが、先程のエナガの回避ぶりをみると、今のところこれ以上深入りしてほしくない気持ちがよく分かる…。
いきなりまさかの板挟みの状況に置かれた瑁の歯切れの悪い物言いに、陸遜は陸遜で思うところがあるのか目を細め瑁を見据えた。


「渡しませんよ」


何を…いいや、“誰を”であるかは言わなくとも分かる。
渡すも何も自分の好きは兄と同じ好きではない。
兄の柄にもなく大人げない牽制に、幾らなんでも勘ぐり過ぎだと瑁は苦笑した。






◆ ◆ ◆ ◆






「や、ヤバかった」


またも全力疾走を強いられたエナガはもう限界と息も絶え絶え柱に片手をつくと肩で大きく呼吸をした。
逃げきれたとは思うが結局また顔を合わせれば同じ問答を繰り返してしまうだろう。
分かっていても流石にこればかりは受け入れられそうにない。


(字で呼べだなんて、は、恥ずかし過ぎる…っ)


自分の気持ちを自覚した今、普段の呼び方を変えるだけでも相当の平常心を必要とする。
それに加え周りに変に勘ぐられはしないだろうかなどいらぬ不安も出てくるというもの。

精神に非常によろしくないことの連続に速まった動悸を治め、エナガがほっと一息つこうと深呼吸をしたところ。


「何がヤバかった訳?」

「うわっ…あ、凌統さん」


安堵も束の間、いきなり背後をとられた上、独り言を聞かれたとあってエナガは目を大きく見開いた。
幸い何が危なかったのかを悟られなかっただけ救いとでも言えよう。
相手が相手なだけに冷や汗が背を流れる。
ここは強引にでも誤魔化すしかない。


「な、何でもありません。私急いでいるので失礼しますね」


制止される覚悟でそのまま凌統から離れるエナガだったが、意外にも凌統は彼女を捕らえてまで吐かせる気はないらしい。
易々と回避できたことに若干拍子抜けしながらも、助かったという思いを抱きながらエナガはその場を離れて行った。


「何でもない、ねぇ…」


それ故にエナガは気付かなかった。
去りゆくエナガの背に向けられた凌統の視線はどこか確信めいた疑いの色を含んでいたことに…。




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