二十六:見て見ぬふり
廻る季節に応じるようにそれぞれの心境や価値観に微妙な変化を促しつつも、全てが全て変わるわけではない。
良きにしろ悪きにしろ変わらないものもあるのが人というものである。
「ほんと仕事って面倒だよなー」
「なら堂々とサボれば?」
いかにもダルそうに隣を歩く青年にエナガは付き合っていられるかと半ば無視を決め込んでいる。
誰がサボろうとこちらに皺寄せが来なければ別にいい。
ただ同行と称して自分を巻き込んでサボるのはいただけない。
配属当初のいざこざがあって以来妙に懐かれた仲間とは何だかんだで付かず離れずの良い関係を続けている。
とはいえ以前のように集団でエナガの後を付いて回るような真似はある機を境に何故かなくなった。
不思議に思いつつも別に害が出るわけでもないため、エナガもエナガでその件については強く問い質すことはしなかった。
だが、集団こそ消えたものの個々は別物という具合に時折この青年、蘇峰のように隙をみては仕事に同行する形でさりげなくサボる輩は減ることはなく現在に至っている。
(集団でやられるよりは断然マシと思うしかないのか…)
「そんな溜息つくと幸せが逃げるって」
「…誰のせいだと思ってんの」
「あー、俺なわけ?」
「他に誰かいるとでも?」
「んー、例えばあそこの軍師殿とか?」
「は…?」
頭を掻いた後目先の階段に向かい指をさす蘇峰につられエナガもまた視線を移す。
その先にいたのは陸遜だった。
誰かと話し中らしく向こうはまだこちらに気づいてはいない。
ここ最近いろいろとあって陸遜から逃げてばかりいるエナガにとって出来る事ならこのまま素通りしたいところでもあるのだが…。
何を思ったのか自称同行者の蘇峰は先を急ごうとする彼女を制止した挙句、とんでもない質問を投げかけてきた。
「なあなあ、あの軍師殿のことどう思ってるわけ?」
「んな!?どうもなにも……い、いい友人だけど」
「いい友人ねぇ。それじゃあ向こうがそう思ってなかったら?」
「え、…友達じゃないってこと?」
「違う違う。それ以上って思ってたらってことだよ」
「〜〜っ、ないないないそれは絶対にない!」
最初の問いでさえ意表を衝かれたというのにまたも蘇峰の爆弾発言にエナガは思わず抱えていた書簡を落としかける。
興味本位でからかわれていると分かってはいるが、よりにもよって今この話題というのがエナガにとって耐えられないものだった。
俯いて暴走する何かを堪えるようにぎゅっと書簡を抱きしめるエナガに何か思うことがあるのか、蘇峰はなおもこの話題に喰いかかる。
「そこまで言うならちょっと試してみる?」
「試すって何を…っ!?」
直後、横から伸びた腕に引き寄せられるままエナガはついに抱えていた書簡を手放した。
投げ出された書簡がバラバラと乱雑な音を立てて床に散らばる。
これで確実に離れた相手にも気付かれたはず。
急いで逃げようにも気付けば大きなぬいぐるみを抱えるように蘇峰に拘束され身動きが取れそうにない。
「ちょっと、話して!」
「んー、まだ駄目」
「まだって、いいから早く……っ」
「だからまだ……お、こりゃ当たりかもなー」
「当たりって何?私にも分かるように説め…い!?」
拘束している蘇峰の腕ばかりに気を取られていたため、ぐいと片手を蘇峰以外の何者かに掴まれたかと思うとエナガはまたもそのまま相手の方へと強引に引き寄せられた。
予期せぬ事態に動揺しつつエナガは自分を蘇峰から引き離し新たに拘束している相手の顔を見上げる。
相手を確認した瞬間、驚きと新たな動揺によりエナガの心臓はドクンと跳ねた。
(陸、遜……っ)
何故…。
とっさにそう思うも、疑問はすぐに解消される。
あれだけ盛大に物音を立てれば誰しも注目するわけで、その上その相手が陸遜であるならば今までの経験と彼の性格上困っているエナガを見過ごすことはない。
よくよく考えれば想定されうる状況、というわけだ。
自分の鈍さに情けなく思うも、今はそれどころではない。
掴む手の力強さに内心眉を顰めたかったものの、一応助けてもらった手前それを面に出すことや抵抗することはできずにエナガは口を噤む。
しかし陸遜の視線はエナガに向かうことなくひたすら蘇峰に向けられている。
黙ったまま恐る恐る陸遜の顔を見上げたエナガは思わず表情を強張らせた。
目が笑っていない…。
表情こそいつも通りで大した変化がないように見られるだけにその違和感を際立たせている。
瞳の内に宿すその感情は、恐らく…否、確実に怒りであることは見てとれた。
下手をしたら殺意も秘めているのかもしれない怖さを秘めながら、陸遜は普段より幾分か抑揚のない声で目の前の蘇峰に言い放つ。
「冗談はそれくらいにしてもらいましょうか」
「………」
陸遜の思っていた以上の反応にこれには流石に蘇峰もやりすぎたと自覚したらしく、先程までの飄々とした雰囲気はすっかり失せている。
普通の者に比べて幾分か要領の良い蘇峰だが、今回ばかりはこの場をやり過ごす機転が思いつかなかった。
まずいとは思いつつも弁解は許さないという無言の威圧に一切の思考が活動を拒否している。
蒼白の蘇峰と同じく気まずい思いをしているのは救出された側のエナガとて同じだ。
助けられて一安心どころかできることならこの場から逃亡したいくらいの心境である。
とはいえここで自分が無理にでも逃げようものなら、残された蘇峰の立場が危ない。
自業自得とも言えるかもしれないが、蘇峰とて悪意があってのことではないため、尚更見捨てる訳にはいかなかった。
ここは自分が話を進めないといけない、と妙な使命感に駆られたエナガが口を開くより先に動いたのはやはり今なお彼女を拘束する人物だった。
「それでは」
「………」
(え、あの、ちょっっ……)
二人に何も言わせることなく言うことを言った陸遜はエナガを解放することなく踵を返して歩き出した。
これに慌てたエナガだが、抵抗すれば事を悪くしかねないと思い、言いたい文句を胸に無理やり押し込めつつ、ぽかんと呆気に取られている蘇峰に後は任せたと一瞬だけ視線を送った。
結局興味本位で首を突っ込んだ挙句思わぬとばっちりをくらった哀れな男蘇峰が正気を取り戻したのは二人が去って少しばかり経った後のことだった。
蘇峰と強制的に別れて数分間、無言のまま前を進む陸遜にエナガは気が気ではなかった。
彼の機嫌を損ねたのは自分ではないが、間接的には原因となっている。
子どもが親の機嫌を窺うように上目遣いにちらちらと陸遜を盗み見ていると、案の定その行為に気づいた陸遜は足を止めてエナガに向きなおった。
「気にしないでください。ただ私が気に入らなかっただけなのですから」
「あ、うん……?」
条件反射で応えたものの、そこでふと妙な違和感をエナガは覚えた。
‘私が’気に入らなかったとは…?
目的格こそ抜けているが先程の流れからエナガと蘇峰のことを指しているのではないか。
だとしたら、陸遜の言葉にはただどころかもっと深い意味があるのかもしれない。
(もしかして……?)
ついさっき蘇峰に対してありえないと全否定した自分を疑いたくもなったと同時にエナガは羞恥と嫌悪に襲われた。
しかし、そんな心と裏腹に妙に冷静な意識がこれまでの陸遜とのやりとりを思い返しては思い当たる節を片っ端から採り上げていく。
やはり…。
その先に続く言葉を考えただけで今にも頭が爆発しそうになった。
狂喜と少しでも自惚れてしまったことへの自己嫌悪で叫びそうになるのを必死に抑えようとするも、異変に気づいた陸遜によってエナガの努力はあえなく崩れた。
「エナガ?」
「だ…っ、ああああああぁ〜〜〜!」
「…え?」
悲鳴とも奇声ともとれる叫びを挙げるや、引き起こすきっかけとなった人物から逃げるように掴まれた手を払うとエナガは突然駆けだした。
よもやここで逃げられるなど微塵も思っていなかっただけあって、事実上置いてきぼりをくらった陸遜は先程の蘇峰のように呆気に取られた。
しかし、エナガの異変にそのまま呆けている陸遜でもなく、すぐに我に返ると迷うことなく彼女の行方を追ったのだった。
◆ ◆ ◆ ◆
また逃げてしまった。
罪悪感とともに後悔に襲われるのはもう何度目だろうか。
一人廊下を走り抜け、逃げに逃げたエナガは壁に身を預けると、そのままずるずると崩れるように座り込んだ。
暫しの急速の後、息を整え再び立ち上がろうとしたエナガを驚かせたのが上から聞こえた声だった。
「どうしたんだい?」
「ひっ!………凌統さんか」
「誰だったら不味かったわけ?」
「い、いや…別にそういうわけじゃないんですけど」
「ふぅん」
何故全力で走っていたのか追及されるかと思いきや、どうやら深い理由を聞く気はないらしい。
それとも何か思うことがあって敢えて何も言わないのか。
いずれにしても有難いことには変わりない。
苦笑しつつそんなことを思いながら立ちあがった矢先、凌統から思わぬ言葉が出た。
「言えないなら俺が言おうか?」
「え?」
何を――。
触れられたくない核心を衝かれたかのように感じたエナガがとっさに視線を凌統に向ける。
そしてそれが気のせいではないことを自身へと向けられている視線から理解した。
無言の追及から逃げるように視線を泳がせて一歩後ずさるエナガに、凌統は何かを読み取ったらしく少しばかり目を細めた。
「そうやって知らないふりをするつもりかい?」
エナガの心を覗いたようなかのように投げかけるその問いは、この期に及んでもなお逃げ道を探している彼女を暗に責めている。
何から知らぬふりをするかなど…心当たりがあり過ぎて正直どれも当たってほしくはないものばかり。
このような状況下でも逃げたいと思い続けている自分に、エナガはつくづく卑怯だと半ば他人事のようにそう思った。
できることならまだ腹を括ることはしたくない。
「何を…ですか?」
鈍った思考で考えて出た言葉がそれだった。
言われた傍から知らぬ存ぜぬの逃げ言葉に自分自身内心自嘲したくなる。
そんなエナガに追い打ちをかけるように事態は彼女の望まぬ方向へと傾いていく。
「ああ、漸く不味い誰かさんの登場ってわけですか」
「――っ」
「エナガ、一体何があったのですか!?」
声する方に向かなくとも誰であるかなど嫌というほど分かった。
ただ振り向く勇気が今のエナガにはなかった。
視線を伏せぎゅっと拳を握りしめるエナガに凌統はこれみよがしに盛大な溜息をついた。
その態度からして無言の皮肉が含まれているのは言わずとも見てとれる。
「アンタ結構最低だね」
「…否定はしません。でもこっちにだって事情があるんです」
「へぇ、どうせ自分勝手な事情でしょ?」
「………そうですけど」
この二人にしては珍しく刺々しい会話の応酬に不審を抱いた陸遜は、事の次第を窺うよう二人を交互に見た。
口出ししない陸遜を凌統は一瞥した後、再びエナガへと視線を向けて二度目の溜息をついた。
そして、また先程のようなやりとりが続くかと思いきや、
「まあ後は当事者のお二人で好きなようにやってくださいな」
「は……」
「あの、凌統殿…?」
かくもあっさりと引き下がると凌統は当事者の一人である陸遜へと丸投げた。
てっきり更なる追及を強いられるかと思ったエナガは予想外のことに呆気にとられ、陸遜は陸遜で事情も把握できぬまま任せられてもどうしたものかと困惑している始末である。
そんな中、事態を更に混乱させるように丸投げをした当の本人はというと、動揺する当事者たちなど知ったことかと踵を返すとさっさと退散してしまった。
「全く…世話が焼けるったらないね」
去り際に呟いた凌統の言葉は幸か不幸かエナガたちに聞こえることはなかった。
引っ掻き回すだけ引っ掻き回した凌統がいなくなるのをなんとなく見届けてしまったエナガだったが、我に返ってすぐそのことに後悔する破目になった。
別に凌統の言う通り陸遜と話し合う必要などどこにもないのだ。
むしろこれ以上距離を縮めたくないがため、そして唐突に襲った羞恥と気まずさから逃れるため態々逃げてきたというのに。
だからといって今更逃げることは相手が相手だけに不可能と言ってもいい。
やはりもう腹を括らねばならない時なのだろうか…。
だが未だ大きく揺れ動く己の答えをここで即固めるなど、エナガにできるわけがなかった。
そんな風に足踏みをしているエナガの様子に気づいたのか、先に動いたのは言うまでもなく陸遜だった。
「エナガ、その…一体何があったのですか?」
「えっと、特に大したことじゃ……」
「つまり私には言えないことというわけですね」
「そいういうわけじゃ……」
ほぼ断定を含んだ物言いに気圧されてきっぱりと否定できず言葉を濁して沈黙したエナガに、陸遜はやはりと納得するとともにここは無理にでも追及するべきか思案した。
先のエナガの言動を鑑みるに、見過ごさない方が得策と言えるのだろう。
ちらりと思案のため伏せていた視線をエナガに向けると、後ろめたいことでもあるのかびくりと小さな肩が動いた。
「不快な思いをさせたのならお詫びします」
「そんなわけないでしょ。むしろ私の方が……」
「先程のことなら気にしないでください。…ただ何故置いて行かれたのかについては気になりましたが」
「あ、あれは……そのっ、別に…き、気にしないで頂けるとありがたいなあと」
「ですが…」
「お願いだから…あーもう無理、耐えられない…っ」
「エナガ?」
途端先程のやりとりを思い出したらしくエナガはその場に蹲ると頭を抱えて呻き出した。
またも急変したエナガの様子に陸遜は再逃亡されるのではないかと内心警戒したが、状態が状態なだけに逃げる前に制止できると思い直すと彼女の出方を窺った。
ひとまず彼女が自責の言葉を吐くに至るほど何に苛まれているのかを知る必要がある。
そうして自分の世界で妙な反省会を開いているエナガをまじまじと観察していくうちに、感じたのはある違和感。
心なしか頬が赤い…?
思い返せば踞る前もその頬にほんのりと赤みを帯びていたような……。
ある一つの予想が陸遜の脳裏にちらつく。
だがそれはあくまで予想であり期待に近かった。
何せエナガの異変は突然起きたものであり、予想を確定させうる要素が少なすぎるのだ。
とはいえここでその予想を打ち消すにはまだ早い。
試しに気遣うようにエナガの肩にそっと手を置いたところ、びくりと思いの他大きな反応が返ってきた。
「エナガ?」
「んな、な、何?」
「…何故逃げるのですか?」
「な、何となく…」
「何となく?」
「そ、そう、なんとなく」
「………」
吃るエナガの視線は目の前の陸遜を見据えることはなく、動揺を浮き彫りにするかのように辺りを泳いでいる。
以前には見られなかったその言動に陸遜の中で予想は次第に確信へと変わっていく。
一方肩に手を置かれたままのエナガは、逃げることができないという焦りよりも別の感情に支配されそれどころではない。
単に触れられているというだけではあるが、その事実こそエナガを羞恥に至らせている。
今までは気にもしなかったことで動揺するのは流石に不審に思われると知りつつも、残念ながらそれを上手く隠せるほどの余裕を持ち合わせてはいなかった。
「エナガ」
「な、なんでもないなんでもない。何も考えてないし分からない!」
「私は何も聞いてはいませんが…」
「………あ」
墓穴。
そんな言葉が脳裏に浮かぶ中、エナガは恐る恐る陸遜の方を見やる。
視線が合わさった直後、エナガは自身の行動を激しく後悔した。
注がれる視線は彼女に対する呆れも怒りも含まれていない。
ただひたすら相手を視る視線。
もしかしたら心の内など見透かされているのではないかと思えば思うほど逆に逃げるように目を逸らすことができなかった。
ドキリと盛大に跳ねた鼓動は動揺に比例するように速度を上げている。
一方、今度こそびくりとも動かず固まるエナガを見た陸遜は迷わずある決断をした。
自身の感情を自覚した当初、相手が相手なだけにその想いを伝える過程は慎重にと考えていた。
恋愛もある種の駆け引きのようなもの。
下手に感情のまま突っ走るのは相当な賭けであり無謀なことこの上ない。
後々のことも考えると外堀から徐々に固めて着実に行動に移した方が良い。
少なくとも陸遜はそう思っていた。
だが、この状況においてそのような手間をかける必要などないと結論を下した。
今は強引にでも押し切る構えでいくのが上策ということである。
「もう気付いているのでしょう?」
「な、に、を…」
「知らないとは言わせません」
「言われもしないことを知ってるなんて言えるわけが」
「ならば言わせていただきます」
「え?」
直後、告げられた言葉にエナガは表情を強張らせる。
それは思わぬ言葉への驚愕ではなく、もう逃げられないというタイムアウトを宣告されたことへの絶望に近かった。
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