二十七:瓦解


その言葉を聞いた途端、エナガは自分の中で何かがガラガラと音を立てて崩れるのを感じた。
聞きたいのに聞きたくなかった言葉。
告げられた想いに嬉しさと苦しさで思考が真っ白になったため、その後どうして別れたのか、どうやって自室まで戻ったのか記憶にないほどエナガは動揺していた。
ふらふらと頼りない足取りで仕事場へと戻ったのはいいものの、正直仕事ができるような状態ではない。
心の動揺が態度はおろか表面にまで現れていたらしく、幸い仕事で致命的なミスを犯す前に顔色が悪いと周囲に言われ早退する許可を得られた。


自室に戻り寝台にまで辿りついた途端、エナガは糸が切れた傀儡のように寝床に倒れ込んだ。
そのまま寝入ってしまえたら良かったのだが、流石に真昼なので眠気に誘われることはなく虚脱感を抱えたまま横になっている。

『      』
告げられた言葉だけが頭の中で煩いくらい反響する。
かき消そうと意識すればするほど言葉は強い力をもってエナガの心を縛っていく。

向けられた想いが仲間や友としての情であったならどれだけ悲しく安堵しただろう。
その反面告げられた想いに図々しくも歓喜している自身がいる。
矛盾した思いを自覚している理性がこの時ばかりは恨めしい。
どうせならこれでもかと言うくらい愚鈍で単純であれば良かったのに。

自己否定的な言葉が頭の中で浮かび続けてどれくらいが経ったのか。
無意味な現実逃避をしていたエナガを否応にも呼び戻したのはふいに来訪を告げる音だった。


「エナガ、いるんでしょ?」

(尚香…?)


扉を叩く音の後に聞こえてきた声にエナガは眉を顰めた。
正直今は誰にも会いたくない。
いっそ狸寝入りでもしてしまおうかとも思うものの、相手が相手なだけにかなり失礼な態度になる。
なおも逃避を切望する思考を強引に引き戻すと、緩慢な動きで起き上がりふらふらとした歩みで進んだエナガは扉に手をかけた。


「待たせてごめんなさい」

「いいの。それよりも…大丈夫?」

「…少し寝たから、まあなんとかかな」

「よかった。食事に誘おうと思ってエナガを待ってたんだけど、体調崩して帰ったって聞いたから」

「えっと、ちなみに誰から聞いたの?」

「蘇峰って人よ。エナガを迎えに行ったら彼に会って教えてくれたの」

「…そうなんだ」


尚香の言葉から察するにどうやら蘇峰はそれ以外のことを彼女には知らせていないらしい。
そのことがエナガの警戒心を幾分か和らげるも束の間。
エナガの表情から何かを読み取ったのか尚香は急に険しげな表情になった。


「エナガ、何か私に隠してない?」

「別に何も…どうしてそう思うの?」

「だって、さっきあからさまに安心したって顔をしたから」

「気のせいだよ」

「そんなことないわ!」

「………」


思っていた以上に安堵の気持ちが顔に出てしまったのだろう。
今更己の失態に悔いたところで後の祭。
これではすんなり帰ってもらえることは難しそうだ。

ならばいっそ起こった全てを暴露してしまおうか。
半ば自棄に走った気持ちが生まれてきたエナガは一つ盛大な溜息をつくと改めて目の前の友人に向きなおった。


「確かにあるよ、隠し事」

「やっぱり」

「聞きたい?」

「嫌なら無理には聞かないわ。でも、困っているなら相談に乗りたいと思っているわ」

「…分かった」


よくよく考えたら陸遜が動いた以上このまま内密にということにはならないだろう。
どうせ日が経てば周囲にばれることだ。
このままだんまりを決め込んで身動きがとれなくなるよりも、ここは少しでも理解者を増やしておいた方が何かといいのかもしれない。
自棄と諦めの入り混じった気持ちを抱えつつ、話す気になったエナガはここで漸く尚香を自室へと招き入れた。






◆ ◆ ◆ ◆






日が傾き空も茜色に染まりつつある夕刻。
尚香との話を終えたエナガは彼女を見送った後、再び自室に戻るもざわついた落ちつくことができず何かに急きたてられるように屋敷を離れた。
現在、人で賑わう通りをエナガはただ行き先もなく歩いている。
仕事を終えそのまま家族の待つ我が家へ帰る者、仲間と一日の疲れを癒すため酒場に行く者。
そうした彼らの流れと逆行するようにエナガはふらふらと足を進めていた。

今、エナガの思考の大半を占めているものは先程の尚香との会話。
話を聞いた尚香が真っ先に聞いたのはエナガがどうしたいのかということだった。

このまま逃げ続けることはできないどころか不可能である。
そんなことは嫌と言うほど分かっているエナガだが、そうかと言って納得のいく答えが見いだせていないのもまた事実であるため、現実逃避という形で立ち往生しているのが現状である。

単純に好きか嫌いかで答えろというだけなら迷わず前者を選ぶだろう。
しかし、そこに立場だの状況だのといったものが絡んでくればそうそう簡単に答えてしまっていい話ではない。
単純に考えればいいと他の者が何と言おうが少なくともエナガはそう考えている。

結局のところ何かを選んで何かを棄てる覚悟が自分にないだけ。
そして、動けない自分とは対照的に陸遜はもう覚悟を決めたのだろう。

堂々巡りの思考に終止符を打ったのはエナガを呼ぶ声だった。


「あ、お久しぶりです、エナガ殿」

「瑁…くん」

「えっと、そんなに警戒しないでください。偶然です偶然!」

「そう…それじゃあ私はこれで」

「ま、待ってください!ここで会ったのも何かの縁ですから、あの、お願いですから少し話でもっ」

「ちょ、ちょっと」


まさかここで腕を掴まれ必死の形相で懇願されようとは思いもしなかったエナガは、次第に増えていく好奇の視線に居た堪れなくなった。
とっさに掴まれたままの腕を引くと瑁が離れないのをいいことに、そのまま彼を引きずるような形で人の流れをかきわけて人気の疎らな場所に向かった。







逃げるように二人が行き着いたのはエナガが少女を助けたあの川辺だった。
ひとまずという形でこの場に辿りついたため、エナガは話がある瑁とは違い然程長居するつもりはない。
よって態々地面に腰を下ろすことはしないまま、くるりと瑁に向き直るといつもよりそっけない言葉を口にした。


「で、何を話すつもりなの?」

「あ、えーと……。お元気ですか?」

「………まあ一応」

「そ、そうですか」

「……で?」

「………えーと、その、すみません」

「別に。もう用がないなら私行くね」

「ま、待ってください。せ、せめて‘あの理由’だけでも!」


切羽詰まった声色で言い放ったことは正しく彼の本音だった。
やはりというべきか…、何にせよエナガにとってよくない状況に転んだことは間違いない。

瑁の言う理由が何を指すのか、彼の雰囲気と目を見るに導き出される答えは一つ。
彼の兄と自分とのことである。
公の場所でしたやりとりだ。
大喧嘩に発展していなくとも、人は何かと噂好きなもの。
どこに人目があったのか分からない故、瑁の耳に入っていてもおかしくはない。
あるいは当事者の兄直々に話を聞いたのかもしれない。

何故兄を拒むのか。
正解ではないかもしれないが、よりつきつめて…ぶっちゃけてしまえば大方知りたいのはそういうところだろう。
エナガとて好き好んで拒絶しているわけではない。
だからこそこうして悩み悩んでいるのだ。
自分自身でさえ最良の答えを見つけ出すことができていないのに、他人なんぞに脳内のとりとめのない考えを完結に説明できるわけがない。
それでもここで何か適当に答えておく方が無言のまま立ち去るよりも相手は幾分か納得してくれるだろう。
たとえそれが理路整然としない断片的な言葉であっても。


「私に」

「え?」

「私に覚悟がないからと、私の置かれた状況が特殊だから」

「特殊とは?」

「それは……」


そう言いかけたきりエナガは口を閉ざす。
単にここにいていい人間ではないと言うことは簡単な上、エナガがこの世界の住人ではないことは瑁とて知っている。
身分や立場上住む世界が違うとでも言ってしまえばそれまでかもしれないが、それはそれで、だったら愛人だの妾だのになればいいと返されたら…住んでいた環境上正直それだけは言われたくない。
あれも違うこれも嫌だとエナガが一人悶々と考えていると、話の続きを聞くことを諦めた瑁は彼女の思考を制止させるように一言名を呼んで意識を自分へと向けさせた。


「私の願望を言えば、お二人にはこれからも一緒にいてほしいです。でもこればかりは当人同士の問題なので‘私は’無理強いしません」

「………ちょっと待って」


さりげなく‘自分は’ということを強調した目の前の少年。
自分はしないのなら一体誰がするのか…そんなこと言うまでもない。
それはいただけないと抗議を含んだきつい視線に変えるも、効果はみられないどころかむしろ瑁の視線の変化に気づいたエナガが逆に戦慄させられることになった。

悪戯成功とばかりに得意げな笑みを浮かべた瑁の視線の先を追うように、後ろを振り向きそこにいた存在が誰であるか認識するや、エナガは目を大きく見開いた。


「陸…遜……」




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