二十九:モラトリアム
季節の移り変わりというものは知らず知らずのうちに巡っていくというもので、エナガが陸遜の世界にやってきて気づけばもうじき半年が経とうとしていた。
(もう半年経つのかぁ……)
昼も過ぎ、人波が少しばかり引いた大学のカフェテリアのあるテーブルにて。
分厚い参考文献を目で追うのを中断し、エナガは改めてそんなことをしみじみと思った。
「こら、現実逃避しない」
「ちょっとぐらいいいじゃん。それにあんただってさっきから全然進んでないじゃない」
「ふ…、少年老い易く学成り難しを実感してるわ……」
「それは、まあそうだけどさ。話をすり替えるのはどうかと思うよ」
「エナガってさり気にきついこと言うよね…。で、あれからあの子と何か進展は?」
「くどい」
「えー、ちょっとぐらい教えてくれてもいいでしょ?」
「あのね、会う度聞かれる身にもなってよ…」
さあ吐け、と懲りずに身を乗り出して迫る理絵に、エナガは徹底的に無視を貫こうかと考える。
しかし、そこは一枚も二枚も上手な理絵である。
エナガの機嫌を本気で損ねない程度のノリでもって粘ってくる始末。
そもそも真面目に勉強をするつもりならこんなところで、しかも友人と一緒になんてやれるわけがない。
要は二人ともこれから迫りくる試練に向け形だけでも慣らせていこうと言う名目で集まっただけである。
押しに弱いエナガが切れるのではなく折れるのは時間の問題だった。
「一つだけしか言わないし、今後一切報告しなくてもいいなら言うよ」
「了解!」
「何だかんだで付き合ってる」
「あー、やっぱり。なんかそんな気がしたわ」
「あのさ、分かってたならいちいち聞かなくてもいいじゃん」
「でもやっぱ気になるよ、いろんな意味で」
「いろんな……って、例えば?」
「好奇心にお節介とか」
「結局前者が八割でしょ、それ」
「まーね。でも心配してるのは本当だから」
「それは分かってるけど、何というか…うん、もういいや」
応えれば応えるほど蓄積する疲労に、挙句最後は言葉さえ出てこなくなる始末である。
その日の勉強会(という名の雑談)はエナガの溜息と同時に閉会となった。
理絵と別れ、家路に就いたエナガは一呼吸就く間もなく荷物を置くなり、もう一つの居場所である向こうの世界へ出かける準備を始めた。
一通り支度を済ますと肌身離さず持っている二つの世界を繋ぐ石を手に取った。
するとそれに応じるように石が赤く輝きを放ち、エナガ全体を包み込む。
光の輝きが失せた時、部屋からエナガの存在は忽然と消えていた。
◆ ◆ ◆ ◆
「重役出勤ご苦労様だねー」
空間跳躍後、長く続く回廊で早々出くわしたのは相変わらずサボり魔こと蘇峰だった。
見たところ手ぶらでいるあたり、今回もまた何かに託けてサボっているのだろう。
「重役も何も今日は非番なんだけど。それに蘇峰こそおサボりは気苦労が大変なんじゃない?」
「うわー、いつにも増して酷いこというよな。それに今日はサボってないよ。仕事の帰り」
「………そうなの?」
「そう、だからそんな人を疑うような目で見ないでほしいんだけど」
「ごめんなさい。えっと、お疲れ様」
「うんうん、そうでなくちゃ……お、何持ってんの?」
「ああこれ?」
エナガの抱えている袋を見つけた蘇峰はそれを指さし、中身はなんだと問いかけた。
袋に入っているのは昨日買ったケーキである。
先日大喬と小喬と談笑をしていた際、エナガの世界の菓子のことが話題になった。
実際行き来できるのなら食べてみたいとのことで、二人とその場にいなかった尚香、そしてちゃっかり自分の分を含め、こうして持参したというわけだ。
別に隠すことではないかもしれないが、正直に話せばこの図体だけは大人な子供は何かと理由をつけて自分にも食わせろと駄々をこねるのは目に見えている。
こういうことに関してだけやたら目敏い蘇峰にエナガは他に活かせないのかと不満に思いつつ、どうしてこの面倒な話を振り切るか思案を巡らす。
「って、ちょっと、蘇峰!勝手に手を出さないでよ!」
「えー、いいじゃん別に。奪い取って食うわけじゃないんだしさぁ」
「見せたらあんた絶対食わせろって言うでしょう!?」
「あ、やっぱり食べ物なんだ。うん、じゃあ俺にも頂戴」
「駄目。これは尚香たちの分だから」
「え、自分の分はないの?」
「それは……ある、けど」
「ならその分少し分けてよ。減るもんじゃ……あ、減るか」
「あのね、とにかく仕事帰りならこんなところで油売ってないでさっさと帰るべき場所に戻れば?」
「んー、嫌。人生寄り道しなきゃつまんないじゃん」
「あんたの人生寄り道しかないでしょうが…」
まさにああ言えばこう言うの応酬である。
季節的には問題ないとはいえ、このままだと折角冷蔵庫で冷やしていたケーキが抱えているせいで人肌並みの暖かさになるのでは。
そんな心配に駆られたエナガは、目の前の集り屋を何とか納得させられないかと口を動かしながら頭の片隅で必死に対策を考える。
(確かケーキ以外にも何か持ってきたはず…)
何かというほど大それはものではなかったが、おまけ程度にあるものをポケットに忍ばせていたのをエナガは思い出す。
なおも責付く蘇峰に聊か強い口調で制止すると、エナガは片手をポケットに突っ込み、そのあるものを取り出した。
そして、どこかに落とされては困るとその包み紙を広げ中にある一口サイズのチョコレートを指し出した。
「はい」
「え、これ何…見た感じ色がヤバそうなんだけどさ」
「チ○ルチョコだよ。甘いから大丈夫。ほら、早くしないと溶けちゃうでしょ?」
「溶けるって…心の準備が」
「だから大丈、ぶ――っ、って、ぅえ!?」
途端、背後からにゅっと腕が伸びてきたかと思えば、その腕は蘇峰へと指し出したエナガの腕を掴み、ぐいっと強引に後ろに引かれた。
腕が回るギリギリの範囲まで引っ張られたところ、チョコをつまんだ指先が数秒ほど妙な生温かさに触れる。
驚いて思わずチョコをつまむ指の力を弱めるも、チョコが落ちることはなかった。
ぎぎぎと、油の切れた機械のようにぎこちない動きで斜め後ろを見れば……。
「ご馳走様です」
「り、陸遜……」
その一言でエナガは先の数秒間に起きた出ごとが手に取るように分かった。
驚き半分呆れ半分で改めて陸遜を見れば、いつもと変わらずの……否、いつもより妙に笑顔な顔でこちらを見ているではないか――。
怖い、いろんな意味で正直怖い。
思わぬところで甘味を食べられて上機嫌なのか、それともエナガと蘇峰のやりとりに警鐘を鳴らしているのか…。
出来れば前者であってほしいところだが、掴む腕に多少なりとも力がこめられているあたり後者なのだろう。
表情を凍らせ内心冷や汗が止まらないのは、何もエナガだけではない。
むしろ陸遜と直接面と向かい合う形で立つ蘇峰の方が彼女より何十倍も恐怖に駆られている。
加えて仕掛けるように彼がエナガにちょっかいを出したのはまだ新しい。
結果二人の仲を取り持つ一要因になったものの、それはそれ、これはこれ。
話は別だと陸遜の目が、雰囲気が全てを物語っている。
「このように人通りがある通路での談笑はいただけませんね」
「も…申し訳ありません」
「ご、ごめんなさい」
「わかっているのなら早く用を済ませて自分の持ち場に戻っては如何ですか。それとも用がないほど暇ということなら――」
エナガの発言はさらりと流し個人攻撃を始める陸遜に、すぐさままずいと感じたエナガは用があるから先を急ぐと強引に陸遜の言葉を遮り、未だ掴まれたままの腕を引っ張って足を前に進めた。
すれ違いざま蘇峰にすまないと目配せをするも、その行為すら恐らく彼にとっては火に油を注ぐ形となったかもしれない。
始めこそ非難すべき要素があったが、今となっては心底彼に申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
「何故遮ったのですか?」
「そんなこと分かってるでしょ?あと蘇峰だけが悪いんじゃないから目の敵にするのはどうかと思うし」
「何も彼を庇う必要はないでしょう?」
「もう少し早く来てくれてたら庇う気はなかったんだけど。むしろもっとやれという気持ちだったから」
「それは残念です」
「…あのね。それに通りでいただけないのは陸遜だって同じでしょ?何勝手に食べることなじゃない。欲しいなら後でちゃんとあげたのに」
「そういう問題ではないのですが…。それにあの時何故態々包みを解いて渡したのです?」
「ああ、あれ。下手に渡して紙をどこかに捨てられたらいろいろ問題かなと思って」
「だったら何故渡そうと考えたのですか…」
「仕方ないでしょ。何かあげないと引き下がりそうになかったんだから」
「そうやって甘やかすから図に乗るのでは?」
「それはそうかもしれないけど、今更あれ以上適当にあしらう方法が思いつかないんだよね」
「それでしたら私が」
「何もしなくていい」
「何故です?困っているのでしょう?」
「困っているけど強制解決するほどまでの問題じゃないってば」
「ですが――」
なおも陸遜が言おうとしたとき、業とらしい大きな咳払いが二人の耳に飛び込んできた。
咄嗟にその方を見やると、眉間に皺を寄せ、米神をピクピクと小刻みに震えさせる呂蒙の姿があった。
しまった……。
そう気づいた時点で二人の足はピタリと止まる。
「いい加減にしないか。歩きながらみっともないにもほどがある」
「「すみませんでした」」
怒りよりも呆れが勝った色で叱責する呂蒙に、二人は声をそろえて謝罪する破目になった。
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