三十:隙あらば…
「困りましたね…」
目の前の光景を見て呆気にとられた後、陸遜の口から出たのはこの一言。
中庭へ出る手前の数段の階段、側面の壁にもたれかかり寝息を立てているのは数週間前に晴れて恋人となった彼女。
何故このような場所で眠り込むに至ったのかは定かではないが、恐らく本人とて本気で寝るつもりは毛頭なかったはず。
起こそうにもここ数日試験と課題の準備に追われ、更に加えてこちらの仕事も合間に行っていて睡眠時間をかなり削っているという話を聞いているため、こうも熟睡されてはそれも可哀想になる…のは多分惚れた弱みではない。
だからとはいえ、この季節である。
季節は着実に真冬へと向かう頃であり、いくら今日が比較的暖かくても初冬は初冬。
放置すれば風邪を引くのは必然。
起こしたいが起こしたくない。
矛盾を解決する案が浮かぶのにそう時間はかからなかった。
(まあ言うなれば、役得ということですか)
そう勝手に納得すると陸遜は手ぶらなのをいいことにエナガのすぐ傍らまで近づき、起こさぬよう注意を払いつつそっと抱き抱えるとそのまま腰を上げさも当たり前とばかりに自室にある仮眠室へと直行した。
◆ ◆ ◆ ◆
エナガが夢の中の住人から現へと意識を戻したのは陸遜に発見されてから一時間ほど経った頃だった。
心地良い暖かさに囚われて完全に覚醒することを惜しむ気持ちに勝てず寝返りをうつも、頭上から聞こえる声により強制的に起床を余儀なくされる。
「目が覚めましたか?」
「――うわっ」
「うわとは何ですうわとは…風邪を引かないよう折角寝台まで運んだというのに」
「運ぶって……あっ」
漸く事情を呑み込めたエナガはしまったと表情を強張らせ固まった。
中庭付近で微睡んでいたはずの自分が何故ベッドに横たわっていたのか。
よく考えれば誰かが運んでくれたと分かるが、睡魔の残党に負けて寝ぼけ眼のまま布団の中にいたため、てっきり自室だと勘違いしていたのだ。
数秒前までの自分に、エナガは思わず叱責したい衝動に駆られる。
「なんというか…スミマセンデシタ」
「全くですね。たまたま私が見つけたからいいものの、下手をしたら風邪を引いていますよ」
「返す言葉もない…です」
「それに寝込みでも襲われたらどうするつもりだったのですか?無防備にも程があるのでは?」
「いやそれは………あるね、うん。蘇峰ならやりかねない」
「蘇峰…?」
エナガの口から出た人物に陸遜は急に眉を顰める。
確かに蘇峰はエナガの知り合いとあって何かと彼女に絡む傾向がある。
故に個人的不純な動機で少なからず注意を払っている存在ではあるが、彼のエナガに向ける感情は男女のそれではなくどちらかといえば仲間に対するものであるはず…。
もしかしたら自分すら気づかぬところでその想いを押し隠しているのでは?
それならばこちらも相応の牽制をしなければならない。
勿論エナガには悟られぬようにだが。
思考が危険な方向へと傾いていく陸遜を停止させたのは、やはりエナガの次なる言葉だった。
「この前危うく顔に落書きされかけたんだよね……ほんと用心しないと」
「……エナガ、一言言って置きますが、私が言いたいのはそういうことではありません」
「ん、ああ。文字通り襲うってこと?ないないそれはない。蘇峰に限っては絶対に」
「大丈夫と言い切れる保証はないでしょう?」
「あるよ。だって蘇峰、彼女いるから」
「恋人がいるから安全とは限りません」
「それがね、……超が付くほど恐いんだって。以前浮気しかけたら夜中に押掛けられて脅されたみたい」
「……は?」
「右手に太刀を持って無表情のまま、『浮気したら殺す』って凄まれてマジ泣きしそうだったって愚痴を聞かされたから」
「…………」
やけに真剣に納得するエナガに、今度は陸遜が返す言葉がないと脱力した。
自分が暗に言いたいことを理解していたのはいい。
だがどうして……。
(いつもこうなるのでしょうね……)
こう…、妙な方向へと脱線していくのだろうか。
彼女とて決して鈍いわけではない。
しかしながら、現に陸遜の意図したことを読み取った上で斜め上の方向に論を展開していくあたりどこかずれているのだろう。
これが、エナガがエナガたる所以なのだと慣れるしかないと思う反面、もう少しこちらの気も察してほしいというのが陸遜の思うところである。
「それに私を襲うような物好きは……」
言いかけたところでふとこちらを伺うように見上げるエナガに、陸遜の中で少しばかり悪戯心が生まれる。
見上げてくる瞳に応じるように視線を落とし、口元を僅かばかり上に吊り上げて相手を挑発するような微笑を浮かべた。
「襲ってもいいのなら襲いますが」
「ぜ、是非とも遠慮してくださると助かります」
「そう思うのならもっと周囲に気を配るようにしてください。見ているこちらの身にもなっていただきたいものです」
「善処するので、あの、今日はこれで帰ってもいいかな?明後日最初の試験があるから…」
「そういうことなら仕方がないですね」
「ありがとう。あと、本当にごめんなさい」
「いいえ。好きでしたことですから、そんなに畏まらないでください」
「それなら良かった」
無事寝台の主の許しを得たエナガはほっと安堵すると、靴を履き立ち上がると去り際に今一度礼を述べてからそそくさと退出した。
その慌て様に一応先程の軽い脅しが効いたのかと感心すると同時にこれでも一応異性として意識されているのかという何とも言えない心境に陸遜は一人苦笑した。
逃げるように部屋を出たエナガはその数分後に不運にも凌統と遭遇した。
出くわす事態は何ら問題ない相手ともいえるが、そこでただ出くわすだけで済まないことが問題だった。
殊に凌統は陸遜とのあれこれについていろいろと関わってきた相手であり、彼自信悪気はないのは分かっていても、やはり会う度に何を言われるのか今になってもひやひやしているのが現実である。
案の定挨拶程度で終わることなく暫しの時間凌統に捕まり話をする破目になった。
それも、エナガにとって非常に好ましくない方向に。
「で、今度はどうしてああなったわけ?」
「ああって………まさかっ」
「そう、結構注目集めてたんだよねぇ」
「嘘でしょ…だって陸遜何も言わなかったのに」
「まあ知らせない優しさもあるって言うけど」
「第三者から知るくらいなら、いっそ教えて欲しかった…」
「どうせどこかで転寝でもしてたんでしょ?ま、あれだ、人の噂も七十五日だろうし」
「あの、本当に見たんですよね?」
「だからこうして聞いてるんだって、何で軍師殿に抱き――」
「言わなくていいです!ああもう絶対外で仮眠なんかするもんか!明日明後日は会わないからいいとして、今度会ったら蘇峰に確実にからかわれるじゃない!」
「からかわれることについては否定しないけど、それよりももっと危機感持った方がいいんじゃないの?」
「それは気をつける予定です。あと、寝てる私なんかをどうこうしようとする人間はそういないでしょ……まあ言ってて少し虚しくなるけど」
「何というか、個人的に軍師殿に同情するね…」
「どういう意味ですか?」
「いろんな意味で。あと、蘇峰だっけ、きっとそいつに言っても同じこと言うと思うけど?」
「…なら言いません」
ふいと拗ねるように顔を背けるエナガだが、その先に久しぶりに会う顔を見つけた。
いつからいたのか定かではないが、柱に背をもたれ至極面白そうにこちらを観察しているのを見るあたり、恐らく今来たところとは言い難い。
エナガの様子に気づいたのか、はたまた最初から気づいていたのか分からないが、凌統もまた離れてこちらを見ている彼女の存在を視界に捉えた。
二人の視線の先にいる女人、いや女仙とでも言うべきだろうか。
凡そこの国の者と思えぬ風貌で、且つどこか人並み外れた独特の気品と気高さを併せ持つ彼女、ジョカ。
以前現れたのは確かエナガが自分の世界にいた頃である。
今度は何の為に姿を現したのか。
内心訝しむエナガに構うことなくジョカは柱から離れると二人の元へと歩みを進めた。
「楽しんでいるところを邪魔したな」
「や、していませんけど…」
「こんな美人の知り合いがいるとは聞いてなかったけど?」
「知り合いというか…」
「ほお、私とは赤の他人とでも言いたいのか?」
「からかわないでくださいよ…。それに、知り合いというには畏れ多いからなだけです」
「困った顔をするな。余計困らせたくなる」
「それは非常に困ります」
「何というか、話に割って入るのは気が引けるんだけど…あんた何者だい?」
凌統の物言いが僅かに厳しいものに変わる。
表情こそ変えてはいないものの、先程より幾分か抑揚のない声に警戒心が感じ取れる。
しかし、当のジョカは凌統など関知するところではないという具合に眉一つ動かすことなく、そしてまた怯むことなく一歩一歩二人の、正確にはエナガのもとへと足を進めていく。
「エナガから聞いてはいないのなら知る必要のないことだ。それに用があるのはお前ではない」
「エナガってわけかい?」
「そういうことだ」
「二人ともそんなにツンケンしないでって…ぅえ、ジョカさん!?」
仲裁に入ろうとジョカと凌統の間に慌てて入ったエナガだが、何故かジョカにより腕を捕られ拘束を受ける。
突然のことでどう対処したらよいものかと考えあぐねるエナガとは対照的に、形の上では人質となった彼女を見て凌統の表情は今度こそ一変して剣呑なものになる。
丸腰でこそあるが、ジョカもまた然り。
ならば事の次第によっては実力行使もとばかりに、凌統がそれまでの気楽な立ち振る舞いから臨戦態勢に入る。
するとジョカは不敵な笑みを浮かべ、エナガを片腕で捕えたままふわりと花弁が宙に舞うような軽やかさで飛び上がると、数歩後退し凌統との距離を取った。
「あんた…何のつもりだ?」
「何も取って食おうというわけではない、心配するな。後で送り届ける」
「それで俺が信用するとでも?」
「凌統さん、あの、私は大丈夫ですから」
「エナガが言うのだ。信用するんだな」
「ちょっと待――」
凌統の抗議を最後まで聞くことなくジョカは言うことだけ言うとそのままエナガとともに闇に溶けるようにその姿を消した。
追いかけようにも身動き一つせずに消え去った相手を探し出すなど不可能。
苦虫を噛み潰したような面持ちで頭を掻き毟った後、凌統は張っていた肩の力を抜くと視線をエナガが来た方の廊下へと向ける。
「一応知らせておきますか」
一人そう呟くと凌統は踵を返しエナガの第二の世話役兼恋人のいる部屋へと足を進めていった。
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