鈍化

「おはよう、なまえ」
「焦凍くん」

中学も三年に上がって、春。受験生。
再び同じクラスになれた私と焦凍くんは、一緒に登校していた。

下駄箱を開けて上靴を取り出そうとした時、はらりと紙のようなものが舞い落ちた。レター用紙を四つ折りにしただけのそれを拾い上げる。いつまでも上靴に履き替えない私を不思議に思った焦凍くんが近づいてきた。

「何かあったのか」
「紙が入ってて・・・。まだ中見てないけど」

と言いながら焦凍くんの横で一回、二回と紙を広げる。そこに書かれていたのはただ一言、『今日の放課後講堂裏まで』。

「行かなくていい」
「ええ、でも・・・」
「差出人の名前載ってないだろ。名乗ることもできない礼儀知らずの奴のために時間なんか割く必要ねぇ」

確かに、そうだ。筆跡から見て誰か分かるわけでもないし、もしかしたら別の人のと間違えて私の靴箱に入れた可能性もある。
私が黙々と考え込んでいる間にも焦凍くんは私の手から紙を抜き取って自分の制服のポケットに入れてしまった。

「行くぞ、なまえ。遅刻しちまう」
「あ、うん・・・」



そんなやり取りを焦凍くんとしたのが、朝。

焦凍くんは進路のことで職員室に用があるとかで帰りは自ずと一人になる。行き帰りを共にする約束は元々していないので、どちらかに予定があるとそれぞれ待つでもなく帰るのは二人の間でなんとなく出来た暗黙の決まり事だった。このべったりしすぎず程々の距離感で居られる感じは私にとっても心地いい。
帰ろう、と思い教科書を鞄に詰めていると目の前に影が差した。

「みょうじさん、今ちょっといいかな」

二つ隣のクラスの仮谷くんが私の進行を妨げるように目の前に立っていた。
彼、仮谷くんとは去年同じクラスになっただけの元クラスメイトだったのだけど、ことある事に話しかけてくること、"心の声"が下心を含んだものであることから私はあまり得意ではなかった。特に嫌なことをされた訳でもないのに無下にするのも・・・と思い最低限の会話は交わすようにしているけれど、彼の眼差しが好きになれず、クラスが分かれたと知った時にはほっとしたのを覚えている。そんな彼が、目の前に。

「・・・どうしたの」
「あ、ごめんね。ここではちょっと話しにくいからさ。着いてきてくれるかな」

講堂の方まで。
その言葉を聞いて、あの紙の差出人が彼であることが分かってしまった。



「君のことが好きなんだ。僕と付き合って欲しい」
「・・・」

講堂裏まで連れてこられて開口一番に告白の言葉。頭の中ではもう告白をされて心臓が高鳴るなんてことも無く、どうやって断ろうかという考えがぐるぐると支配していた。

「・・・あんな手紙まで書いておいて、どうして迎えに来たの」
「朝に轟焦凍に行くなって止められてたでしょ。君も妙に納得してたし、来ないだろうなあって。だから彼がいないタイミングを見計らって」

ね。
朗らかに笑う彼には狂気さえ滲み出ていた。彼は、下心こそあれど色恋沙汰のような類なんてほんの僅かな皮のようなもので、それを剥いでしまえば別の類のものが"在る"というのがひしひしと伝わってきた。駄目だ、逃げないと。

「・・・ごめんなさい、付き合うのはできない」
「・・・なんで?やっぱり轟焦凍のことが好き、とか?噂は本当だ、」
「焦凍くんは関係ない・・・!」

彼に守られてばかりじゃダメだ、と誓ったのだ。焦凍くんは私のことを気にかけてくれているけれど、受験生になって先を見据えて頑張ってるんだからこれ以上枷になるようなことはしたくない。

「焦凍くんとは何もないし、誰かが好きとかそんなのじゃない。ただ、貴方とは付き合えません」

これ以上ここにいたら何をされるか分からない。一息で言い切って踵を返そうとした、その時。

「てめぇ!"無個性"なら"無個性"らしく大人しくしとけよ!!」
「!」

罵声と身動きが取れなくなったのはほぼ同時だった。右手に痛みを感じるところから、仮谷に手を掴まれ逃げようにも逃げられなくなってしまったようだ。

「ッやだ、離して・・・!」
「"無個性"の女に為す術なんてあるわけないだろ?」
「・・・」

この人は"個性"至上主義者のようだった。

「元からそういうつもり、だったんでしょ・・・」
「へえ、物分かりがいいのは好きだよ!そうだよ、僕・・・僕はね君みたいな"無個性"をねじ伏せて自分の思うがままにするのがたまらなく好きなんだあ。なのにさ、君だけは思うままにならない!轟とずっとベッタリしてんのも気に食わないし!なんで君みたいなやつがあんなんとつるんでるのか・・・あ、体でも売ってるのかな?」

男はつらつらと並べ立てる罵倒で参らせるつもりのようだけど、それに対して何も心が反応しなかった。今まで"個性"によって散々言われてきたことが幾度となくあったから、今更涙なんて出てこない。いつ終わるんだろう、とぼんやり考える余裕があるくらいだった。私の心は鈍るところまで鈍ってしまって、最早痛みを痛みとして認識できていない。
そんな、いつまでも屈しない私に対して苛立ちを見せるでもなく、面白いおもちゃを見つけたかのような笑みを浮かべる男。この男の"個性"は知らないけれど、公共での"個性"使用禁止が掲げられている社会においても"無個性"だけを屈服させようとする性癖の持ち主のようだった。逆に私が今ここで"個性"持ちと言えば彼の興味は削ぐことができるのだろうか。

「口で言っても利かないなら体で解らせるしかないよね」

悶々と考え事をして油断している隙に、腰を引き寄せられ目の前にさす影がどんどんと濃くなっていく。

ーキス、される

その時頭に浮かんだ、ただ一人の幼なじみ。ヒーロー志望の彼の名前を紡いだのはほぼ無意識だった。

「焦凍、くん・・・」