名前の無い話



「お兄さん、青いね」

目を閉じてそう言った彼女は、車椅子に座っていた。どういう原理で動いているのか、彼女が車輪を回しているわけでもなく、後ろで誰かが押しているわけでもなく、車椅子はひとりでに前に進む。勿論、車椅子は電動ではない普通の車椅子だし、道は坂道でも何でもない普通の道だ。

「…………」
「ふしみ、さるひこって言うんだ。どうやって書くの?」
「……チッ、あんた…ストレインか」
「そうだね。で、どう書くの?」

あっさり肯定した彼女。伏見の座っているベンチの横に車椅子が止まり、彼女は目を閉じたまま伏見に問う。

「…伏見稲荷の伏見に、さるは動物の猿、比較の比と古文の古。伏見猿比古」
「伏見猿比古、いい名前だね」
「どこが…」
「ふふっ」

チッ、と舌を打つと、彼女はおかしそうに笑い、顔を伏見の方へ向けた。やっぱり目は閉じたまま。長いまつ毛は伏せられ、口元には笑みを湛えている。自毛なのか、するすると風になびく金色が妙に眩しかった。

「あんたは…」
「ん?」
「……あんたはなんて言うんだよ、勝手に人の名前を見ておいて、自分の名前名乗らないとか言うんじゃないだろうな」

ほぼ無意識だった。彼女の名前などどうでもいい、それなのに気づいたらそう言っていた。勝手に名前を知られたから苛ついているんだ。と伏見そう思うことにして、隣にいる彼女に視線を向ける。
相変わらず、目は閉じたまま。彼女はぽかんとした表情を浮かべ、次に少し困ったような顔をした。ふわり、金色が揺れる。

「…ないよ、」
「…は?」
「名前なんて、ないよ。いや、あるにはあるんだろうね。でもあの呼び方は好きじゃないな」

困ったように笑う彼女に、なにがおかしいのかと伏見は眉を寄せる。泣きそうな顔にも見えるその笑顔に無性に苛ついた。

「番号で、呼ばれるんだ。4番って」
「…………」
「お兄さんは、情報提供したらあそこを潰してくれるのかな?」
「…内容によるな」
「そっか、じゃあ大丈夫だ」

なにが、とは問わなくても分かる。青の王を作ろうとしていた施設のように、彼女のいる施設も同じような物なのだろう。
閉じたままだった目が、ゆっくりと開く。
真っ黒に染まった丸が2つ、義眼とも言えないただの黒い丸。

「もうちょっと目玉っぽいのにしてくれたらいいのにね」

そう言って彼女はまた笑う。声を上げて、自らを嘲笑うかのように。



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