どうすることもない



「いらっしゃいませ」

柔らかい声がゆるゆると鼓膜を揺すり、香ばしい小麦の香りと、少し苦みのある珈琲の香りが鼻孔を擽る。目を細め、柔らかそうな髪を揺らす彼女にどうも、と控えめに会釈した。
鎮目町にあるこじんまりとしたカフェ。いつだったか、道明寺に連れられてきたのが始まりだった。

「ご注文は、トーストセットでサラダはなし、お飲み物は珈琲、でよろしいですか?」
「え、あぁ…はい」

かしこまりました。そう言って彼女は静かに微笑んだ。
注文を待つ間、タンマツに指を滑らせ今朝あったニュースの記事に目を通す。ふと、幼児誘拐と言う文字が目に入り、何となくその文字の上に指を運んだ。
よくありがちな誘拐事件。たいして興味もないその事件の記事を読んでいると、目の前にこんがりと焼けたトーストが置かれた。

「お待たせしました。トーストセットとお飲み物の珈琲です。珈琲は、」
「おかわり自由」
「!…はい。おかわりの際はお申し付けくださいね」
「どうも…」

タンマツの電源はそのままにテーブルの上に置く、そして珈琲の入ったカップに口を付けた。ほろ苦い珈琲を嚥下すると、お盆を持ったままの彼女がじっと、テーブルに置かれたタンマツを覗き込んでいた。じっと、少しも視線を逸らさずに。
誘拐事件の記事。タンマツに表示された誘拐された子供の名前や住んでいる場所。それを食い入るように見つめていた彼女はふと顔を上げ、少し悲しそうな顔をする。
見ず知らずの子供に同情しているのかと思えば、彼女は周りの客には聞こえない声量で、ポツリと呟いた。

「なりそこない、ですよ…」
「は、」
「ごゆっくり」

彼女の言葉の意味を理解する前に、彼女はいつものように微笑んで下がっていく。
なりそこない。何の、と聞かずとも解る。王のなりそこない。ストレイン。
こんないくらでもありそうな誘拐事件、その犯人がストレイン?ただのカフェ店員の根拠のない発言。その場で瞬時に記憶から消してもよかった。しかし、妙に引っかかるところがある。
食い入るように画面を見つめていた彼女、呼吸をしていないようにも見えたその姿。
チラ、とカップに珈琲を注ぐ彼女の背中を見る。

「チッ」

伏見はトーストを片手に、タンマツを操作しパソコンの様に青白い光を浮かび上がらせる。キーボードに触れ、ぱたぱたと操作していく。さくり、トーストが音を立てた。

誘拐事件をストレインの犯行として調べると、次々と情報が出てきた。そして瞬く間に事件は解決、そのストレインは拘束され、誘拐されていた子供も無事に保護された。

「いらっしゃいませ」

彼女はいつもと変わらぬ笑みを浮かべる。いつもは賑わっている店内には誰もいない。
ご注文は、と柔らかい声が聞こえた。彼女が何か言う前に、伏見は素早く口を動かした。

「トーストセット」
「サラダはなし」
「コーヒーは」
「おかわり自由」

ふわり、花が綻ぶように彼女が笑う。

「少々、お待ちくださいね」

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