06
途中まで、IFの「供養される」と同じです(*´-`)


 ふと、原稿用紙から顔を上げた岸辺露伴は、己の養う幼い少女の帰りが遅いことに眉根を寄せた。彼女は遊びに没頭すると時間を忘れる癖はあったが、それでも日の傾き始めるころには空腹を抱えて帰ってきていた。
 時刻は18時22分。外は薄暗く、家々には明かりが灯りはじめている。露伴は薄手の上着を一枚羽織ると、スケッチブックの入った鞄を肩にかけ、家の鍵を手に取った。




 それは、彼女が普段遊び場にしている公園の側の繁みに転がっていた。

「――ん?」

 はじめは、水か何かで濡れているのかと思った。だが、鼻をつく異様な臭いに、それは間違いだと悟る。ちょうどその時、街灯がつき、その惨状を照らした。
 赤黒い水溜まりに、頭が、腕が、耳が、臓物が転がっている。死んでいるのは恰幅のいい中年男性のようで、その表情は苦悶に歪んでいた。側には、紐のようなものが落ちており、それを辿ると犬の死体に行き着く。

 ――この場で何があった?
 『天国の扉』は、死者の記憶を読むことはできない。露伴にそれを知る手立てはなかった。

 異常な光景に、しかし露伴は恐怖よりも先に興味が湧いた。明らかな事件、それも殺人ときた。漫画のリアリティのために、あらゆる手段をもって様々なことを取材してきた露伴だが、流石に殺人事件の現場を取材したことはない。今を逃せば、いつチャンスがくるとも知れなかった。

 血溜まりは、既に乾きかけていた。現場を荒らさぬようにだけ注意して、露伴はスケッチブックを開く。しばらく筆を走らせていた露伴は、少し離れた場所にも血が点々としていることに気付いた。
 それは、繁みの奥へと続いている。懐中電灯を持ってこなかったことを悔やみつつ、露伴はそれがどこまで続いているか、辿れる場所まで辿ることにした。

 繁みに立ち入り、目を凝らしながら、露伴は血の行方を追う。この方向ならば、公園に抜けることになるか。点々とした血は地面に染み込み、既に乾き切っているようだった。
 しばらく行けば、公園の生垣に突き当たった。露伴の膝ほどの高さだ。越えようとしたところで、大の大人がそう苦戦するようなことはないだろう。だから、ここを越えようとして苦戦するとしたら、それは背の低い子供なのだ。生垣は一部のかたちが崩れ、側には見覚えのある靴が落ちていた。

 露伴は自身の服についた枝葉を払い落とすと、公園をぐるりと見渡した。ブランコ、砂場に、ジャングルジム。この暗さでは、人影の有無も確かめられない。
 唯一、灯りに照らされたベンチには、学生の忘れ物らしき学ランが広げ置かれていた。――否、その学ランは掛け布団がわりだったらしい。半ばそれに隠れるようにして、露伴の養い子がベンチに寝ていた。

「こんな場所に、いたのか」

 心なしか、彼女の顔色は悪い。目元には涙の跡も見える。呼吸を確かめると、ずいぶん息が浅いようだった。
 強い予感に背を押され、露伴は学ランに手を掛けた。灯りの下に、彼女の姿が晒される。服は所々破れ、桜色だったワンピースには赤黒い染みができていた。哀れをもよおす有様に、しかし、覗く彼女の肌には傷ひとつない。
 どういうことだ、と疑問を抱いた露伴が、彼女に触れようとしたところで、露伴の肩に痛みが走る。何かが露伴の肩を強い力で掴んでいる。

「おい、テメェ、そいつに何する気だ」

 その怒気を含んだ声に振り向けば、今時珍しいリーゼントに髪を固めた不良の学生がいた。上半身がカッターシャツであることを見るに、彼が露伴の養い子に学ランを掛けたのだろう。

「君こそどういうつもりだ? 僕は彼女の保護者だぞ」
「ハァ〜?」

 リーゼントの不良は、露伴の言葉を心底受け容れ難いといった様子で、苦々しげに露伴を見た。

「保護者なら、子供から目ぇ離してんじゃあねえぜ」
「生憎、うちは放任主義でね」
「……そうかよ」

 どうやら、この目の前の不良は見た目に反して、『面倒見のいい』『他人を放っておけない』タイプの人間らしかった。露伴にしてみれば、邪魔されたくない領域にまで干渉してくるタイプの傍迷惑な人間か。
 彼は親指でクイと近隣の邸宅を指し示す。

「いま、そこのうちで電話を借りて、救急車を呼んだ。怪我はねえから分かりにくいが、正直危険な状態なんじゃねーかと思う」
「……ああ」

 触れた彼女の身体は、酷く冷たかった。


 呼ばれた救急車は、すぐそこまで来ているというのに、道が細くて公園の側へと近付くことができないようだった。救急隊員の担架も待たず、露伴は彼女の身体を持ち上げる。腕にかかる体重は、あまりに軽かった。
 身体を動かされたからか、その拍子に彼女は薄く目を開く。瞳は虚ろだ。

「せんせい」

 呼び掛けているのか、いや、寝言のようなものなのだろう。視線の先は虚空にあって、露伴を見てはいない。

「私の方のハンバーグが小さいです……」
「馬鹿だな」

 呟かれた言葉に、こんな時まで食べ物ばかりかと露伴は呆れる。彼女らしいといえば、彼女らしいか。なんとも本能に生きている。




「……さん、岸辺さん」

 呼び掛けられて、ハッとする。場所は病室、露伴の座る丸椅子の横には、白いベッドに寝かされた彼女がいる。どうにも、ぼんやりしてしまっていたらしい。
 露伴の反応を確認して、医師が話を再開するが、言葉は露伴の耳をすり抜けるばかりで、その内容は頭に入ってこない。唯一理解できたのは、彼女の命が明日の朝まで保つかも分からないということだった。

 ……血を、失いすぎたのだろう。
 露伴が見た彼女に、傷などなかったというのに、露伴には現場で見たあの血が彼女のものだとしか思えなかった。
 怪我を負わずに出血する。あるいは、出血した傷が消える。それが普通ではあり得ない現象だということは露伴にも分かっている。だが、そのあり得ないことが起きたのだと、露伴の目にした状況は物語っていた。
 一体、彼女の身に何があったのか。露伴は『知らなければならない』と思った。ただの知的好奇心からなのか、彼女を庇護する立場にあった者としての責任やら使命やらに駆られているのかは分からない。ただ、このままでは、彼女の命が尽きるのを待つだけになるということをぼんやりと理解していた。

 露伴は顔を上げる。病室からは医師が消え、いつの間にか彼女と二人きりになっていた。深夜の静寂が、その場を支配している。
 たくさんの管に繋がれた彼女に、露伴は視線をやる。

「君は、死ぬのか」

 意識のない彼女が、それに答えることはない。その身に起こったことを、彼女の唇が告げることはない。
 だから、知ることができるとすれば、それは――。


「『天国への扉』」

 めくれ上がるページに記されていたのは、連続殺人犯の手によって、今にも殺されようとしている人間の記憶だった。
 通常の「取材」では知りようもない、リアリティ溢るる感情。彼女は自分が死ぬということよりも、他人に害されるということこそに恐怖していた。その恐怖に押し潰されぬよう、足を止めずに走ること。逃げることこそ、彼女なりの戦いだったようだ。連続殺人犯に追われるというシチュエーションと相まって、真に迫るものがある。
 真実それは、彼女の感情、その記憶だ。そこには、努力の甲斐もなく彼女が追い詰められ、甚振られたということまでもが記されていた。

 露伴はそれを破り取ろうとして、手を止める。この記憶は、彼女を構成する要素の一つだ。露伴に記憶のページを破られた者は、その後疲労に襲われる。それはこの幼い少女も例外ではない。瀕死の彼女からページを破り取ることが、彼女の命を脅かす行為となるだろうことは明白だった。

「――待てよ?」

 露伴は自身の上着の胸ポケットをさぐる。出てくるのは、いつの日かに彼女から破りとった記憶のページだ。破り取ることが害となるなら、これを彼女に戻せばどうなる?
 露伴にとって、それは一つの賭けだった。






 おはようございます、私です。目が覚めると、そこには見覚えのない真っ白な天井が広がっていました。

「知らない天井です」

 くぐもる声を押し出して呟きます。今度はばっちり言えました。満足感を噛み締めては、頬を緩ませます。
 しかし、本当にここはどこでしょう。身じろぎしようとして、腕に何かが引っ掛かるような違和感を覚えました。あら、これは?

「起きたのか」

 先生の声に、目だけ動かしてそちらを見ます。身体がやけに重くて、首を動かすことさえ億劫でした。

「今ナースコールをする。もう少し寝ていろ」

 素直に従い目を閉じますが、眠気は全くやってきません。寝過ぎた上に、寝覚めの悪い昼を迎えた時のような疲労感があります。

「ねむれません」
「熊のぬいぐるみはないぞ」
「では、先生をぎゅっとしなければいけませんね」
「やめろ」

 サービス精神の足りないことです。そういえば、ナースコールを鳴らした、ということはつまり、ここは病院だということでしょうか。腕の違和感も、点滴の針だと考えれば納得がいきます。
 ……ああ、そうでしたね。私は殺されかけたのでした。

 私が余程酷い表情を浮かべていたのでしょう。先生は、早く眠ることを促すようにポンポンと掛け布団を叩いてきました。何となく慰められたような気分になって、尚更のこと先生をぎゅっとしたくなります。
 もそもそと指先を動かしていると、先生は私の手のひらに、ころんとしてぐにぐにしたものを乗せてくれました。これは……消しゴム、ですか。あの、先生、これじゃありません。
 仕方がないので、その消しゴムをにぎにぎしているうちに、お医者さまが到着しました。顔に縫合手術の跡はありませんし、カエル顔でもありません。気の良さそうな、しわくちゃのおじいちゃん先生です。

 問診は意識の有無の確認から始まり、身体の調子が確認されたところで、数日の入院を提案されました。経過観察して、異常なければ退院できるということです。機械での検査はないんですね。時代柄でしょうか。
 よくぞ目覚めたと、お医者さまはたくさん褒めてくれました。病院に搬送された時には、私は血圧低下や酸欠で随分と危ない状態だったそうで、今朝目覚めるかも怪しい命だったようです。一通りの処置が施された後、深夜になって症状が落ち着き安定し、快復に向かったとのこと。
 そもそもの怪我を仗助さんが治して下さらなければ、失血によりその場で死んでいたでしょうし、おそらくそれは私だけの手柄ではないのですが、自分も何かを頑張れたような気がして、えへんと胸を張りたくなります。

 起こすに起こせない身体を、気持ちばかり動かすと、お腹の方がくうきゅるると鳴りました。……急にお腹が空いてきたような気がします。ハンバーグ、はちょっと今は気分が乗りませんので、鯖の味噌煮か蓮根のはさみ揚げが食べたいですね。三つ葉と刻み海苔を乗せた鶏雑炊なんかもいいでしょう。
 うまく回らない舌をなんとか動かし、そのことをお医者さまに伝えます。お医者さまは「ほっほ」と笑って、近くにいた看護師さんに幼女に次の点滴パックを手配するよう指示しました。

 点滴で! お腹は! 膨れません!
 力なく足をばたつかせた私に、先生が呆れたような顔をしたような気がしました。

「岸辺さん、少しこちらへ」

 おや、お医者さまが先生をお呼び出しです。そのままお部屋の外へと行ってしまいました。幼女には内緒のお話でしょうか。耳を澄ませようにも、病院は意外と環境音がして、お部屋の外の声なんて聞きとれません。
 私の寝そべるベッドの側では、看護師さんが点滴のパックを新しいものに付け替えてくださっています。針から腕に刺し直しでなくてよかったです。にぎにぎしていた消しゴムは、すっかり温くなってしまいました。置き場所にも困るので、早く先生に戻って来て欲しいのですが。

 と、そんな風に考えているうちに先生がお部屋に戻って来ます。入れ替わるようにして、点滴のパックの交換を済ませた看護師さんがお部屋を出て行きました。病室には、先生と私の二人きりです。
 先生のお家ではよくあることだというのに、お部屋の外には他の人がたくさんいるからか、妙に緊張してしまいます。神経質といった方が近いのでしょうか、自分でも制御できない部分で気を張り詰めているような感覚でした。

「先生、お医者さまとは何のお話だったんですか」
「君の気にすることじゃあない」
「そう言われると、余計に気になってしまうじゃありませんか」

 言わないにしたって、もう少し、気の利いた言い回しはなかったんでしょうか。心配はいらない、だとか、僕に任せておけ、だとか。そうすれば私も、考え事は全て先生に預けてしまえますのに。
 ……そういう頼もしさを先生が発揮するのは、先生の好奇心に関わることだけでしたね。されたらされたで、今回奇異な目に遭った幼女はスタンドの餌食になってしまうでしょうし。それとも、もう遭った後でしょうか。

「消しゴム、お返ししますね」
「……ああ」

 先生が私の手の平から、消しゴムを受け取ったのを確認して、私は目を閉じます。

「僕は一度家に戻って、入院に必要なものを準備してくる。熊のぬいぐるみはその時に持ってきてやるから、君はここで安静にしていろ」
「はい」

 もしや、お医者さまとの先ほどの会話はそのことでしょうか。事務連絡のようなものですね。

「いいか、大人しくここにいるんだぞ」
「わかりました」

 私もそれなりに取り繕って、大人びた子供の振りくらいできるのです。むしろ、前世の年数を合わせた年齢でいえば先生よりも歳上なくらいで、振りも何もないはずですのに、先生には今ひとつ信用がないようで、念を押すようにもう一度、大人しくしておくよう言い含められてしまったのでした。解せません。
 そうしてしっかり念押しした先生は、病室を出て行きます。お気をつけてと見送って、幼女は先生の言いつけ通りじっとしています。

 どれほどの時間、そうしていたでしょうか。いつまでたってもやってこない眠気に、痺れを切らした私は目を開きます。視界に入るのは、ざらざらとした質感の白い天井です。これが見慣れた天井になる前に退院できることを、私は静かに願うのでした。




 入院した翌日に私が知ったことは、病院食というのはそのまま食べるにはあまり美味しいものではないということでした。世の中全ての病院食に喧嘩を売りたいわけではないのですが、少なくとも幼女の入院する病院のお食事は、冷めていて薄味という悲しい取り合わせのもと提供されているものでした。残酷なことです。
 お腹が空いて、慣れない環境にむしゃくしゃしていた私は、お食事にこそ救いを求めていました。そうして期待に浮き上がっていた心を、冷めたブリの塩焼きときゅうりの酢の物さんは、物の見事に突き落としてくれたのです。塩気が、塩気が足りません。塩分です。お醤油の出張が必要です。それを出来立てホカホカで食べさせてください。

「調子はどうだ」

 お昼過ぎに病室にやってきた先生は、お昼ご飯の鮭のムニエルと茹でキャベツでまたしても打ちのめされている私にそう問いかけました。

「不機嫌です」
「そういうことを訊いているんじゃあない」

 小さく眉根を寄せた後、椅子に飾るようにして置かれていた黄色い熊のぬいぐるみを、私の方へと寄せました。私はそれに抱き着き、荒ぶる心のまますりすり頭を擦りつけます。

「むしゃむしゃくしゃくしゃしています」
「なるほど、元気そうだな」

 先程までぬいぐるみの飾られていた椅子に、先生は腰掛けます。スケッチブックを開こうとしたところで、思い出したように何かの包みを取り出して、ベッドのサイドテーブルに置きました。

「そ、それは……!!」

 芳しいソースの匂いにピンときます。分かってしまえば、それはもうフードパックの形にしか見えないのでした。触れば、まだ温かいではないですか!
 私はそこから紙の包装を剥ぎ取り、輪ゴムを外します。先生は匂いを逃すためか、病室の窓を開けました。フードパックをご開帳すれば、そこには鰹節のたっぷりかかった美味しそうなたこ焼きが並んでいました。

「どうしましょう! 先生が素敵に格好よく見えます!」
「まだ君に食べさせてやるために買ってきたとは言ってないんだが」
「まだ、ということはこれから言う予定だったのですね!」

 発言の撤回は認めません。このたこ焼きは、本日いまこの時点から私のものです。そうと決まれば、これは私のお腹の中に大事にしまっておかなければなりません。

 爪楊枝を手に取り、一つすくい上げるとぱくりとかぶりつきます。素晴らしいことに、幼女のお口にはひと口では収まりきらないほど大きなたこ焼きです。
 そのひと口目で、私は目を見開きました。表面がカリカリに焼かれています! ふわとろタイプを想像していただけに、その食感は衝撃でした。外のカリカリと内のとろとろ、二つの食感で阿吽の呼吸のダブルスとは……やりますね。小麦粉生地に絡むソースのお味にも、思わずうっとりしてしまうのでした。これぞ私が求めていた塩分です。しっかりした味付けに、ふにゃりと頬を緩ませます。
 ふた口目には、中のタコにたどり着きました。はぐはぐ噛んでいるうちに、何だかとても嬉しくなってきます。体調が万全であれば、ベッドの上でぴょんぴょん跳ねていたことでしょう。口の中はいっぱいで、胸の内もいっぱいいっぱいでした。

「先生、ありがとうございます! これこそ、今の私にとってのごちそうです」
「ああ。……あまり周りを汚すなよ」

 はーい、と朗らかに返事をした幼女を、先生は胡散臭げに見た後、避難させるように私の側にいたぬいぐるみを動かしました。失礼な。
 ここで先生を怒ってもいいのですが、ひとつこちらが大人になって寛大な処置をいたしましょう。この美味しいたこ焼きを、先生にもお裾分けして差し上げようではないですか。流石に全部は渡せませんが、ひとつふたつならば吝かではありません。

 私はたこ焼きを爪楊枝にさすと、先生へと差し出します。開かれたスケッチブックに落とさぬよう、手も添えておきました。先生は少し呆れつつ、たこ焼きをぱくりと口にします。まさかひと口で食べられてしまうとは……。
 平然とした様子でもぐもぐしている先生に慄きつつ、私は二個目のたこ焼きを食べ始めたのでした。

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