溺れない塩の魔物
(※名もなきお嬢さんがノアとデートしてる)


「これが海! とってもキラキラして、すごく遠くまで広がっているのね」

ノアベルトは海にいい思い出がない。
正直近付くのも嫌だったのだが、付き合っている女性に、デートだといって強引に連れ出されてしまった。彼女は海に訪れたことがなかったようで、恋人と二人でこの光景を見るのが夢だったらしい。
青い空の下、さざ波が寄せては引いていく。透き通った水は、重なり合ったベールがゆらゆら揺れるように、光を受けて多色に煌めいていた。

「おばあさまに昔聞いたことがあるわ。海って、塩の魔物の涙が溜まってできたんですって」
「そんな心当たりはないんだけど! それ、絶対嘘だからね!?」
「まあっ、私のおばあさまは物知りでお話し上手だったのよ。嘘だなんて失礼ね」

むっとむすくれた彼女は、美しい海にすぐにまた夢中になって、不機嫌さをたちまち霧散させる。彼女のこうした享楽的なところは、ノアベルトとどこか似ていた。
彼女はそのまま、しばらく海辺を眺めていた。
好奇心に輝いていた瞳は、いつしか静かに凪いで、穏やかさをたたえている。

「きっと塩の魔物は泣き虫の寂しがりやなのよ。……こんなに泣いたら、いくら魔物でも溺れてしまうわ」

どこか心配そうに言った彼女に、ノアベルトはえへんと胸を張った。

「僕は泳げるよ」
「貴方はそれでいいかもしれないけど、塩の魔物も泳げるとは限らないでしょう?」
「ありゃ」

ノアベルトは、彼女に自分が塩の魔物であることは告げていない。彼女の魔術可動域であれば、ノアベルトが魔物であることに気付いてもいないだろう。
彼女がそっと、ノアベルトの右手に左手を重ねた。ノアベルトがその手を握りしめると、彼女も優しく握り返す。その手は柔らかく温かだった。

「誰にだって泣きたい時はあるでしょうし、流れる涙に止まってくれとまでは言わないけれど。でも、せめて泣いているその魔物が、ひとりぼっちではありませんようにって、そう思うの」
「……うん。そうだね」

彼女の心配は杞憂というもので、ノアベルトの側には、大切で仕方のないリーエンベルクの家族がいる。ノアベルトが泣いていたら、きっと寄り添って話を聞いてくれたり、励ましてくれるだろう。
――涙の海に独りで溺れる塩の魔物は、もういない。


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