Hurt from Lost one



 窓際のテーブル席に座った昊希は、空腹を抱えつつ、ホットサンドの出来上がりを待つ。何とはなしに、床に着かない足先を揺らした。カウンターの向こう側の動向を気にして、視線がそちらへ向いてしまう。

「はーい、お待たせ。ホットサンドとホットコーヒー、コーヒーのお代わりの時は声を掛けてね」

 さばさばとした雰囲気ながらも、愛想のいい接客っぷりは好ましい。昊希は大きく頷いて、ホットサンドの乗ったプレートを出迎えた。プレートの側に添えるようにして、コーヒーが置かれる。
 ふきんで手を拭いた昊希は、早速ホットサンドへと手を伸ばした。両手で持って、思い切りにかぶりつく。
 サクサクのパンの層の後は、レタスとハムの層が出迎えてくれた。熱は通りかけながら、未だ瑞々しい食感の残るレタスが、噛んだ際にシャキシャキ音を立てる。口いっぱいに頬張ることは、昊希に幸福感と満足感を与えてくれた。何より美味しいのだ。昊希の頬がふにゃふにゃ緩んだ。
 気付いた頃には、一切れ食べ終わっていた。あと一切れしかない。それがこんなにも惜しい。

 こちらは先程と具も変わり、卵とチーズ、それから、カリカリに焼いたベーコンを挟んだサンドのようだった。まだチーズはとろとろで、齧り付けばみょーんと伸びる。粗挽き胡椒がいいアクセントで、ケチャップを付けてみてもまた別の楽しみ方ができそうだった。今回は、つける前に勢いのまま完食してしまったわけだが。おかしい、昊希の想定では、もう少し落ち着きある態度で食事に臨んでいたはずなのに。
 最後まで駆け抜けてしまった事実に呆然としつつ、コーヒーカップに口をつける。少し冷めてしまっていたが、そんなことが気にならないくらいには美味しかった。そういえば、飲んだのはいつぶりだろう。エジプト滞在中は一切飲んでいなかったので、随分と久しぶりな気がする。

 はふ、と息を吐く。満腹感に心まで満たされたような気持ちがした。食事の力というものは凄い。
 空になったコーヒーカップから顔を上げると、ちょうど隣のテーブルに食事を届けてカウンターに戻るところの女性店員と目が合う。笑みを浮かべた彼女が、コーヒーのお代わりの有無を訊ねたので、考える間もなく「お願いします」と返した。
 この店に昊希が長居することが決定した瞬間だった。

 湯気の立つコーヒーを美味しくいただきながら、昊希はこれからのことに思考を巡らせていた。
 ひとまずは、無一文を脱し資金を得た。通貨価値が昊希の認識している通りであれば、数日は持つだろう。幸い、資金に変えられそうな装飾品はまだ残っている。なくなる前に、住む場所とある程度の文化的生活を維持するだけの収入が欲しいところだが。
 ……収入。七歳児の身体には、早速ハードルの高い案件が降りかかってきた。
 そもそも、昊希には本日の宿がない。そして、日本に戻る手段も持たない。当分の活動拠点を見繕う必要があった。考えるべきことは山積みだ。
 昊希はコーヒーカップを机に置き、肩の力を緩めた。無意識のうちに力の入っていた眉間を揉む。
 今考えて、全てに答えを出せるわけではない。優先順位の高いものにだけ対処し、残りは一旦棚上げしてしまうことにする。

 そうと決めれば、あとは行動するのみだ。
 昊希は何度か会話しているうちに、すっかり親しみを覚えた女性店員――名はビビアンというらしい――に話し掛け、ここから近くてほどほどの安全が確保されているホテル、あるいはモーテルはないかと訊ねた。




 部屋へ入って昊希がまずしたことは、ベッドに飛び込むことだった。120cmにも満たない身長に、西洋人の大人が寝転べるだけのシングルベッドは大きい。広々とした寝床に、昊希は柄にもなくはしゃいでしまっていた。
 ビビアンに幾つかの候補を挙げてもらって、最終的に選んだのがこのモーテルだった。ビビアンは、昊希が子供の容姿なせいか、心配している様子を見せて、なんならうちに泊めてもいいとまで言っていたが、昊希としては、それは事態が窮まって、手の尽くしようがなくなってからの選択肢だと考えていた。

 モーテルゆえに、ホテルと違ってルームサービスの類はないが、掃除は行き届いた様子で、清潔さが保たれていた。部屋にはユニットバスにテレビ、冷蔵庫、電子レンジが備え付けてある。コーヒーメーカーも置かれていて、それなりに快適に過ごせそうだ。しばらくはここに滞在することになるだろう。
 朝食付きでお手頃価格、というか、朝食の値段がほぼタダ同然だった。安価なモーテルの朝食は、味に期待できないのが世の常であるので、外に朝食を買いに行くことも検討している。それとも、外を出歩く危険さを考えるのなら、モーテルまでのデリを頼んだ方がいいのだろうか。

 こてん、と首を傾げた昊希に、聞こえてきたのは爆発音だ。窓際に顔を寄せれば、遠くのビルから火花と煙が立つのが見える。まるでショートブレッドを手折るかのような気軽さで、そのビルは倒壊した。……朝食の心配よりも、明日までこのモーテルが倒壊しないか心配した方がいいような気がする。

 これが、この街の日常だ。
 窓から離れながら、どうしたものか遠い目になってしまう。昊希の常識とは、あまりにかけ離れていた。「とんでもないな」と口にも出して、改めてそれを確認したところで小さく笑う。
 実害を被らない範囲では面白いのだ。正直、魔術の実在や生態が摩訶不思議らしい異界生物、オーバーテクノロジーな科学の話には心が躍る。異界と人界の交わりにより、新たに生まれた文化は混沌として、未知の可能性を秘めている。興味は尽きず、端から調べて知識を得たいし、ものによっては現地に赴き、自分の目でそれらを確かめたくある。そういう意味で、HLは昊希にとって魅力的な街だった。

 ――それでも。そうと開き直るには、心が苦しくなるのは。この街に、昊希がいまひとつ心が傾けられないのは。
 きっと、何かが違えば今頃、彼と――虹村形兆と、七歳児ではない木村昊希が、あの杜王町で、何ということはない日常を送る未来もあったのだろうかと、考えてしまっている自分がいるからなのだろう。
 それは、未練だった。自分のもとに訪れると楽観していたものは、今や失われた可能性となってしまった。カレンダーに表示される数字は、夏の半ばを知らせている。
 世界がいわゆる原作に沿って進んだとして、虹村形兆が東方仗助と接触し、弟を庇って死亡するのは五月のこと。今からでは、それを変えることどころか、彼に会うこともできない。彼はもう、いないだろうから。これでは、後悔のしようもない。悲しむこともできない。

 手の届かない場所にある。そうなって初めて、二回目の人生だった自分が、どれほどの奇跡の上で彼と知り合えたのかを実感した。それを言い出せば、三度目の時の再会も。
 自分は、運命というのを誤解していたのかもしれない。それは別に、逆らうことのできない水の流れのようなものではなかったし、ましてや、必然とは程遠いものだった。偶然性に意味を求める行為、というのが感覚に近いか。偶然の折り重なり合いが意味を持つこと。そこに運命の存在を感じるのだ。

「……会いたかったな」

 口に出した言葉に引き摺られるように、感情が大きくゆらぐ。自分の中でうねりのたうち回るそれの首元を締め上げ、息の根を止めた。
 終わってしまったことに時間を割くというのは、建設的ではない。この心の動きは無意味で、エネルギーの無駄というものだった。理解している。理解していて、切り捨てるのは惜しかった。

 昊希は『虹村形兆』を知っている。自分の友人で、器用なのか不器用なのか分からない、情に厚く弟思いの、神経質で律儀な彼。
 それと同時に、この世界の『虹村形兆』を知らない。昊希は、この世界の彼について全くの無知である。彼との面識はなく、彼とは縁もゆかりもない。赤の他人、第三者だ。つまりは、既に死亡しているであろう彼は、自分の知る『虹村形兆』ではない。
 彼の死を悼む。その資格を持たないというのは、昊希にとって随分と堪えることだった。
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