How long should I wait?
無人の駅で降車した昊希は、ユグドラシアド中央駅の近くに聳え立つ巨大な木を見上げる。被っていた布が強くはためいた。
非現実めいた大きさに、好奇心を刺激される。枝の末端ですら、大人が幾人かで手を繋ぎ輪になって、ようやっと囲めるほどの太さだ。木の天辺は、ここから遠すぎてどこにあるのかも分からなかった。
この横、もとい下方に広がっている大穴が、『永遠の虚』と呼ばれる場所らしい。ひとけのなさも相まって、ここだけ世紀末のような、終末の気配を感じてしまう。ファンタジー度の高さに、場違いにも胸がときめいた。
あの浮いたビルは、どういう原理でそこに存在しているのだろう。興味は尽きない。
周囲を見渡せば、上へと続く階段を見つけた。展望台でもあるのだろうか。軽い気持ちでのぼり始めて、昊希はすぐに後悔することになった。
吹き荒ぶ風が強敵すぎる。子供の身体である、というのも、ただ階段を上るという行為の難易度を上げた。命綱になるのはスタンドだ。時折風に飛ばされそうになっては、スタンドを木や柵に引っ掛けてやり過ごす。
一体自分が何の試練を行っているのか。延々とのぼるうちに分からなくなってくる。時間の感覚も失せてきたころ、階段が終わりを告げ、開けた場所に出た。
昊希はその場所に、なんとなく清水の舞台を思い出した。間違っても、ここから飛び降りるようなことはしないが。申し訳程度に柵が設けられているのは、落下防止の措置だろうか。あれではかなり心許ない気がする。
近くに深々と突き刺さった鉄骨らしきものの強度を確かめ、そこへスタンドを巻きつけた昊希は、柵の方へと歩き出した。柵の前まで来たところで、少しの間、深呼吸する。吸い込んだ空気は、どこか埃っぽく霧のにおいがした。
そうして、霧の揺蕩う真下を――『永遠の虚』を覗き込む。
途端、悪寒が這い上がり、ぞわりと鳥肌が立った。得体の知れないものが、その先に潜んでいる恐怖。未知のものに、足下が竦む。
……そう、未知だ。
それはヴァニラ・アイスの暗黒空間を前にした時とも、昊希が前世を思い出し、副次的に自分のいる世界を自覚した時とも異なった。
知らない場所、知らないもの。昊希の探していた手掛かりとは無関係の、もっと無慈悲で強大な何かだ。
背を雷でうたれたかのような衝撃が走る。直感的に昊希は悟った。
ここで手掛かりが見つからないとすれば、それは、どこを探したところで見つかるものではない。ここになければ、どこにもない。
手掛かり、などというものは、元よりどこにも存在しなかったのだ。だというのに昊希は、存在しないものを、今の今まで探していた。
「――あは」
気付けば、自然と笑いが零れ落ちていた。
望まずとも理解させられる。絶対的で揺るぎない理不尽を突き付けられたような、そんな感覚に身を震わせた。
どうにも勘違いしていたらしい。昊希には、自分がここにいる『意味』のようなものが、果たすべき『役割』があるような気がしていたのだ。自分も有象無象の一人だと自覚してしまえば、それは恥ずかしい思い上がりだとわかる。
この世界からしてみれば、昊希は何者でもない。何者にもなれない。
切なさとみじめさが、胸の内をじわじわと埋め尽くしていく。それはあっという間にいっぱいになって、だというのに、どこにも出ていけないで、ぐるぐると停滞していた。そんなことにもお構いなしでその感情は湧き上がり、増え続け、昊希の心を圧迫する。
大声で泣きわめいたなら、このわだかまりも消えるだろうか。自分の置き場がわからなくなってしまった不安と、どこにでも置ける自由さが同居して、妙にハイになっている。過度の負荷に、どこか麻痺しているのかもしれない。心の足場を失って、浮かんでいるような心地だった。
そもそも――、何故手掛かりなどを探そうとしたのか。それを知ってどうしようというのか。昊希は思考を巡らせる。
昊希がここにいるのは、何者かによる意志などではない…とまでは断言できないが、少なくとも今のところ、それを匂わせることは起こっていない。無作為、偶然という言葉が似合う。
原因究明ができる類の現象だとは考え辛いだろう。それにも関わらず、昊希は自分がこの街にやってきたことの意味を、その理由を求めて行動した。確かに気になることではあるが、真っ先に探すべきは、この街の外へ出る方法であるべきだろうに。なんとも不自然だ。
――この世界を否定することで、元の場所に戻る、なんてことを考えていたんだろうか。
そんな思考に至ったところで、昊希は空虚な笑みを浮かべた。未練がましいことだ。暗黒空間に呑まれたあの時に、昊希は一度死んでしまったようなものなのに。
割り切るには、感情が追いついていないのだ。彼の存在が話に絡むと、どうしても青臭い自分が顔を出してしまう。むず痒い気持ちになった昊希は、その場で転げ回りたくなるのを自制して、『永遠の虚』へと背を向けた。
立ち去る足取りは軽い。吹き付ける強風が、被っていた布を一層高く舞い上げた。
この街での昊希の身の振り方が決まったのは、それから五日後のことであった。
その日、地下鉄で昊希の隣に座ったのは、白髪まじりの髪を上品に結わえた、落ち着いた雰囲気のある老婦人だった。
大きな駅での乗客の乗り降りに、混雑する地下鉄の中。彼女がそこから目を離している際に、膝上にあったハンドバッグは人波にさらわれて、地下鉄の外へと追い出されそうになっていた。
気付いた昊希が声を上げ、それを切っ掛けにして、他の乗客もハンドバッグの存在に気付く。近くにいた者の働きかけでハンドバッグは車両内に押し留められ、老婦人の膝上に再び戻ってくることとなった。
その出来事を切っ掛けに、昊希は老婦人と言葉を交わすこととなる。
彼女は主人に先立たれ、子供もいないので、親戚のところに厄介になろうと考えて田舎から出てきたのだという。その行き先がHLであるところが飛び抜けてパワフルだ。
「貴方はどんなご用事なの? おつかい? それとも遊びにいくところかしら」
そう訊かれたので、昊希は自身が仕事を探していることを告げた。今日の地下鉄での外出も、求人情報を探してのことだったのだ。
幼い見た目の昊希が、労働条件などの話を出すことに、彼女は驚きはすれど笑うようなことはなく、真面目な様子でゆったりとした相槌をいれてくれる。
老婦人がそんな様子であるものだから、昊希も期待二割に冗談八割で、どこかいい働き口がないか訊いてみる。すると彼女は、丁度これから厄介になりにいく親戚が営んでいる店があるので、そこに住み込みで働けるよう口利きをしてくれると言った。
この話の流れであれば、もしかするとネームプレート製作所で働くことになるかもしれないぞ、と面白半分に考えていた昊希は、その紹介先がバーレスクだと告げられて唖然とした。
老婦人の纏う雰囲気から、身内で営むガーデニング用品店やアンティークショップのようなところを思い描いていたのが悪かったのだろうか。予想の斜め上、むしろ外側を通って突き抜けたまま、帰ってきてくれない。完全に不意打ちだった。
予想を外して衝撃を叩き込んでくるという点では、ある意味、この常識外な街の期待を裏切らない展開なのだろう。むしろこの街ならばお似合いだといえる。
恐るべしHL、つくづくここで暮らしていける気がしない。安定と平穏の中で歳を重ねたように見える目の前の老婦人も、この街に来てのける時点でただ者ではないのだ。
街の外から来た人だというので、昊希もなんとなく仲間意識を持っていただけにショックだった。
繁華街を思わせる店が多く立ち並ぶ区画に、その店はあった。バーレスク――寄席や舞台演劇といえばまだ聞こえはいいが、舞台上でやっているのは一般にストリップダンスやそれに類するものである。間違っても、昊希のような子供はお呼びでないだろう。ないと思いたい。
少しだけ老婦人の良識を疑い始めた昊希は、老婦人が店の者に話し掛け、彼女の身内を呼び出している間に、店の内部を盗み見た。
入り口はライブホールの扉のような様相で、入ってすぐの位置に受付らしきものがあった。薄暗い店内には、テーブル席がいくつも設けられている。その奥にあるのは、色鮮やかな照明の数々に照らされる舞台だ。
営業時間外であるのか、店内に人影はない。静けさが、日が落ちてからの店の賑やかさを一層思わせた。
怪しげで魅惑的でいて、不安と期待が入り混じるような。その独特の空気を感じ取り、昊希は思わず逃げ腰になってしまう。
このままこの場所にいて、自分は大丈夫なのだろうか。急に心配になってきた昊希は、無意識にスタンド像を揺らめかせた。
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