8x3honey

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白いベッドの脇の、白いテーブルにかかる、白いテーブルクロスの上。白いマグカップに注がれた紅茶を前に、白いワンピースの白い少女がニコニコ笑っている。吹き込む風にこれまた白いカーテンがふわりと膨らんで、ユウマはぎょっとして勢いよく窓を閉めた。

「なっ、何で窓なんか開けてるんですかっ!フロワロの瘴気は体に良くないんですよッ」

少女は一度、まあとでも言いた気にたっぷりと睫毛が揺れる目を見開いたけれど、またすぐににこにこと微笑むとユウマに椅子を進める。邪気の無い顔に毒気を抜かれたユウマは、流されるままに椅子に座った。小さな椅子はひとつだけ。少女はベッドに腰掛けている。

言葉が出ないユウマに、少女は紅茶をすすめた。


「熱いから、お気を付けて」


促されるまま手を伸ばしてカップに口をつける。あまり嗅いだことのない類の匂いが口の中に広がって、知らずほうっとため息をついていた。

「美味しいですか?」

はい、と頷くと嬉しそうに笑うこの少女は、重篤な竜斑病患者である。




ISDFはドラゴンと戦う国際軍事組織であるが、何も竜討伐以外の仕事が何も無いという訳では無い。竜災害に苦しむ人々の支援やボランティアも、彼らの立派な仕事である。

しかし竜退治に特化して「造られた」人間、如月優真にその類の任務が回ってきたのは初めてだった。任務の名称は《 code:F》。
それらしく銘打たれてはいるが、病院に入院している竜災害被害者たちと触れ合い元気づける……というのが名目で、ISDFに対する世間からのイメージを良くして避難勧告等に従ってもらいやすくする、というのが真の目的の、謂わば市井の懐柔作戦だ。毎週日曜日に8回。二か月間のボランティア。ボランティアと言われていても給料が出る、きちんとした任務であった。

ユウマは最初、己の価値が真に発揮できるのはこんな任務ではないと断った。しかしISDFは軍である。上司からの命令だと言われてしまえば逆らうわけにはいかず、万年人手不足なのも事実であった。

あまり気乗りはしなかったが、仕方が無いと割り切って迎えた今日、当日。
他の隊員が3人から4人の患者を当てられている中、ユウマに渡された紙にはたった1人の名前しか書いていなかった。何故かと上司に訊ねれば、訪問は部屋ごとだからと言う。となると少女は個室ということになるが、年端もいかぬ少女がいったいどうしてかと首を捻った。上司は苦笑する。
「若いお嬢さんと話したことがなくて困惑する気持ちも分かるが、その子はきみにしか任せられなくてね」
その言葉の意味を問う前に、ユウマは答えに気が付いた。与えられた資料の頁を繰って、やはりと頷く。

憂木由仁はとびきり重篤な竜斑病だった。ユウマのように、フロワロに耐性のある人間でなくては中てられてしまうほどの。




自己紹介をするより先に紅茶をすすめてきた少女は、ユウマが紅茶を飲んでようやく憂木由仁と名乗った。知っている。17歳です。それも知っている。全部、ポケットに捩じ込んだ資料に書いてあるから。

「ユウマさんは何歳ですか?」
「いくつに見えます?」
「わたしと同じか、少し上くらい」
「じゃあそれでお願いします」

適当な受け答えにも嬉しそうにほけほけ笑っている由仁を、ユウマは失礼にならない程度に観察した。随分と白い少女だ。白い肌に白い髪。白い部屋にいるのも相俟って、彼女はユウマの目に随分と浮世離れして見えた。蜜色の瞳はマモノのようだ。生きているのか死んでいるのかすら、よく分からない……そう考えて、首を振る。流石にそれは失礼だ。

「今日は来てくださってありがとうございます。軍人さんってもっと怖い人だと思ってたのに、若い人でビックリしました。」

ユウマは口を開きかけてやめた。何と言えばいい。俺もです?こちらこそ?駄目だ、何を言っても礼を欠く気がする。
結局曖昧に微笑んだだけのユウマに、由仁は気を悪くした様子もなくサイドチェストを開けた。

「クッキー食べます?」
「お構いなく」
「いいえ。先生たちから、精一杯軍人さんをおもてなしするよう言われていますから」

断った甲斐もなく、白い皿にクッキーが並べられた。何の変哲もないバタークッキー。
これも任務だと言い聞かせて手を伸ばす。

「それにわたし、嬉しいんです。もうずっと外には出てないし、あんまり人と喋ってなくて。最近は先生も、あんまり来てくれないの」
「あの……いえ、何でも」
「何ですか?何でも聞いてください。さっきも言いましたけれど、わたし、人と話すの久しぶりで。お喋り出来るだけで嬉しいんだもの、何でも喋ります。」
「……いつ頃から病院に?」
「十二年前です。」

こともなげに言う彼女に、ユウマは目を瞠った。十二年。ちょうどユウマが生まれた頃から、彼女はずっと此処にいることになる。
可哀想だ、と思って、そんな自分を恥じた。
彼女の人生は彼女のものだ。己が評していいようなものではない。

ただ少しだけ、優しくしてあげようという気にはなった。テーブルの上のクッキーに手を伸ばす。

「僕、とても美味しいクッキーのお店を知っているんです。もしよかったら、今度買ってきますけれど……」
「本当?嬉しい!ありがとうございます」


こうして《 code:F》第1回、顔合わせは終了した。第2回は一週間後。
この一週間の間にとりあえず、ユウマはバタークッキーの美味しいお店を探さなくてはならなくなった。




一週間後、ユウマはまた病院を訪れていた。目指す病室は特別病棟の奥の奥の奥。一度通った道だから、進むユウマの足に迷いはない。
彼の手にはワインレッドのクラシカルな缶があった。中身はもちろんクッキーだ。吟味に吟味を重ねたそれを選ぶのにはたっぷり五日がかかっていたが、これも任務。任務ならしょうがない。


憂木由仁と札が掛けられた扉を前に、ユウマは立っていた。正直言って面倒臭い。が、仕方がない。これは任務なのだ。ユウマにはこの任務を完遂する義務がある。

コンコンコンと三度ノックすれば、返事よりも先に扉が開いた。自分より頭ひとつと半分ほど下から、蜜のような色の目をした白い生き物が見上げてくる。

「お久しぶりです、ユウマさん」

心底嬉しそうに言った由仁だったけれど、その白い手に導かれて中に入るより先に「あなたは女性なのだから人を確かめてからドアを開けるようになさってください」と説教をする必要があったから、ユウマは心を鬼にした。
ぐっと眉間にシワを寄せて怖い顔をつくる。口が「あなたは」の「あ」の形をつくったとき、部屋の奥からそよそよと風が吹いた。弾かれたようにそちらを向けば、視線の先で揺れるカーテン。暗く淀んだ東京の空には竜が羽撃き、毒々しい色の花弁が舞う。

「あなたはまたっ……!」

慌てて駆け寄って窓を閉めた。説教をしなくてはならないことがもうひとつ増えたようだ。
ユウマは顰めっ面を作って振り返った。
由仁はほやほや笑っていた。



近年増加している性犯罪と、フロワロが人体に与える悪影響についてたっぷり30分は語った後、ユウマはようやく椅子に座った。怒られている間も何処か嬉しそうだった由仁は今日もベッドの上だ。細い手が慣れた様子でティーポットを傾けると、またあの独特な香りが病室に広がった。

「これ、お土産です」

持ったままだった紙袋を渡せば、中を確認した由仁が歓声をあげる。

「可愛い!」

包装用紙やリボンまで気にするのが女子というものだとアドバイスしてくれた上司は確か妻帯者であったか。なるほど、本当のことらしい。
由仁は缶に結ばれていたリボンを取ると蛍光灯に透かした。赤いレース。縁には白と赤のフリルがたっぷり付いている。
由仁はそれを丁寧にテーブルの端に置いた。白いテーブルクロスに映える。

「本当に買ってきてくれたんですね、クッキー。」
「約束しましたからね。」
「食べてもいいですか?」
「どうぞ。」

白いだけの素っ気ない皿の上に、クッキーが並べられた。薔薇の形を模しているらしいクッキーをひとつ手に取った由仁が、小さく微笑んで口に運ぶ。
「美味しい。」
途端心の何処かが軽くなったけれど、それがどういう感情か深くは考えずに自分も手を伸ばした。
「それはよかった。」
口に入れる。さっくりとしてほんのり甘い。
知る人ぞ知る名店だとデータベースのレビューで見た人気店のクッキーは、噂に違わぬ味だった。

「今更ですけど、ユウマさんは紅茶はお好きですか?コーヒーの方がよかったでしょうか」

コーヒーもあるんですけど、と由仁は言う。ぶつけただけで折れてしまいそうなほど細く頼りない指が指し示す白い棚をなんとはなしに見ながら、何度か飲んだコーヒーの味を思い出した。
苦味と酸味。豆が焦げた味の黒い液体。ユウマにとって、コーヒーのイメージとはそれくらいのものである。腹に溜まるわけでなく、栄養があるわけでもない。さして飲む必要性も見当たらなかったが、ヨリトモ提督含む上司や同僚達は好んであの液体を摂取していることは知っていた。おそらく眠気覚ましに利用しているのだろう。ユウマは職務中に眠くなることなど無かったから、やっぱり無縁のものであった。好き嫌いなんて考えたこともない。

少し考えて、ユウマは首を振った。

「いいえ。紅茶が好きです。」

この紅茶しか飲んだことがないが。

「よかったぁ。茶葉は何が好みですか?用意します。」
「そうですね。この紅茶は特に好みです。」

これしか知らないだけであるが。

「アールグレイですか?好き嫌いが激しい茶葉ですが、お口にあってよかったです。ミルクや砂糖はお入れになりませんか?」
「ええ。このままで十分美味しいですよ。」

食物の経口摂取を栄養補給としか考えない男は、大した栄養素を持たない赤茶色の液体をそっと啜った。無意味な水分補給であったが、心地よいあたたかさが咽喉を滑り落ちてゆく。それだけでほっとしたような、安心するような、そんな気持ちになるのは何故なのか、考えても分からなかったから、気のせいということにした。


「ユウマさんは、普段、どんなことをなさっているの?」

会うのも二度目だからなのか、由仁は少々突っ込んだことを聞いてきた。軍規に触れない程度なら構わないかと考えて、ユウマは最近の任務を簡潔に列挙する。

「竜を倒したり、倒したり、倒したりですかね。」
「お強いんですね!」
「ええ、まあ。」
「他には?」
「避難が遅れた人を助けたりしますよ。」
「他には?」
「他には……やっぱり竜を倒したり」
「竜と戦ってばっかりですね!」
「……それが俺の存在意義なので。」

そこで由仁は笑おうとして失敗したような、変な顔をした。

「そんなことないです」
「え?」
「存在意義なんて、そんな。ユウマさんはユウマさんだから、それでいいんですよ。」

まったく訳が分からなかったが、分かろうとも思わなかったので、「はぁ」と曖昧に頷いておいた。これは任務であり、義務なのである。

由仁はまたほわっとした笑顔に戻ると、「竜と戦っているユウマさん、見てみたいです。きっとかっこいいんだろうなぁ」と言った。

「危ないですよ。ドラゴンのブレス攻撃はとても広範囲なので。」

そもそも由仁の体では、咲き乱れるフロワロの瘴気に耐えられるかどうかすら危うい。地面に立った瞬間、肺だの心臓だのまで侵食されて死ぬかもしれないのだ。

「もし見たいのなら、遠くから見てください。竜はとても体が大きいので、この病院からだと……そうですね。国会議事堂あたりまでなら、十分見えるんじゃないかと」

由仁は「それじゃあユウマさんが見えないじゃないですか」と唇を尖らせた。あまり血色のよくない唇の端にクッキーの食べかすがついていて、こどもみたいだと思った。俺もこどものようなものだけれど。




《 code:F》第3弾は、第2弾の一週間後……とはいかなかった。ユウマに任務が入ったのである。竜退治の任務だ。本来のユウマの役目であり、ユウマが一番頼りにされる任務。死にかけの女と毒にも薬にもならないような会話をするだけの任務より百万倍も有意義な任務だ。
だというのに、何故だか胸にしっくりしないような、納得いかないような、不思議なわだかまりがあった。他の対象者が三度目の懇談会を設けている中、ただひとり、あの目に痛いほど白い病室でユウマを待っているだろう彼女に、心のどこかで悪いと思ってしまっているのかもしれない。
面倒臭いな、とユウマは舌打ちをした。

「珍しいな」

聞きとがめたらしいヨリトモが、厳つい顔に見逃しそうなほど僅かに心配の色を載せた。

「今日は調子が悪いようだが、具合でも悪いのか」
「いえ、申し訳ありません。何でもありませんよ。」
「……それならいいのだが」

訝しげなヨリトモに、ユウマはにっこりした。この顔は得意だ。人付き合いを円滑にするためには笑顔が重要だと前に本で読んで勉強した。
そういえばあの本はどこにやったっけ。女性との付き合い方も載っていたはずだ。例えばデートに遅れたとき。由仁は恋人ではないしデートでもなければ約束をしていたわけですらないけれど、詫び方は似たようなもののはずだ。いや、詫びなければならないことなどないのだが。

「……ヨリトモさん」
「なんだ」

ユウマは思い出した。この厳つい顔の男は今でこそ独り身だが、過去には妻帯していたこともあったはず。

「……女性を待たせてしまった時は、どうやって謝れば良いのでしょう?」

彼は常には鋭い目を大きく見開いた。
他人のまんまるい目を見て初めて、ああ、あの娘の目は大きかったのだなと思った。




次の日、ユウマは病院へ向かった。手には花束。真面目で無骨で女遊びなどしたことないような男と二人、額を突き合わせて考えた結果である。彼女はきっとフロワロを憎んでいるだろうから、花屋のお姉さんには紫とピンク以外の花にしてくれと条件を出して、あとはおまかせした。入院している知り合いに渡すのだと言ったら、やや小振りの青い花を花束にしてくれた。何でも幸運を呼ぶという意味があるらしい。特に興味はないが。

コンコンコンと三度、ドアを鳴らした。
数秒の間があって、「どうぞ」と不思議そうな由仁の声。きっと俺だと思ってないんだろうなぁと思いながら扉を開けば、外を眺めていたらしい由仁が驚いた顔をしていた。例の如く窓は開いている。

ユウマはため息をついて、窓を閉めた。

「窓は開けるなと何度言えば……」

まあ会ってそうそう怒ってばかりいるのもどうかと中途半端に小言を終わらせて、右手の重みを彼女の目の前に差し出す。

「遅れて申し訳有りませんでした。これは、お詫びに。」

どうぞと掲げた花束を、呆然とした彼女が受け取る。その顔がゆるりと綻んで、

「ありがとう」

どきん、と胸が高鳴った。不整脈だろうか。帰ったら精密検査をお願いしよう。





白一色だった部屋には、この間渡したクッキーの空き缶が飾られていた。
それからもう一つ。白く美しい彼女の髪に、ワインレッドのフリル付きリボン。

「リボンが欲しいなら、きちんとしたものを贈りますよ」

花束を白い花瓶に活けていた由仁は笑って、「これがいいんです」と言う。

「ユウマさんが初めてくれたものだから。」

クッキー缶の包装で喜べるなんて、女というものはよく分からないなとユウマは思ったけれど、悪い気はしない。
そうですか、と話を終わらせようとして、いつしか読んだ『人付き合いの本』を思い出した。

「似合ってますよ。」

言葉選びはこれでよかっただろうかという疑問はすぐに解けた。
由仁が普段は血の気の無い頬を薔薇色に染めて、心底嬉しそうに笑ってくれたから。



(151201)


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