3
「迷惑をお掛けして申し訳ない、総司令」
ナグモ博士は白んだ頭を軽く下げた。
「もう少しで完成しそうなんだが、あと一歩、何かが足りないんだ。何分こちらも手が足りない。優秀な部下が辞めてしまったばかりでね。」
「いやいや。君ならいつか完成させるだろう。まあ、なるべく早く頼む。人類に時間はないのだから」
アクツ総司令はそう言ってラボを去り、残されたナグモ博士はユウマに向かって問いかけた。
「……これでいいのかい、ユウマ」
「ええ。申し訳ありません、博士。」
「なに。珍しいお前からの頼みだ。Dインストールの実施を遅らせることくらい、訳はないさ。それにもともと私は反対派だよ。計画の責任者がそう言っても、信じられないだろうが」
「いえ。博士の立場は理解していますから。それに、俺の立場も。」
「ユウマ……、」
哀れそうな顔をした博士に、ユウマは微笑んでみせた。その笑みがひどく歪んで泣きそうなものだということにユウマ自身が気付かないから、博士は一層哀れんで、愚かにも己の存在意義を探し続ける一人のこどもを直視できない。
「あと2週間でいい。猶予をください。Dインストールは俺に課せられた義務ですが、あの子のお見舞いも、俺の任務です。」
不器用な言葉に、そうか、と不器用に頷いた。
そうだ。これは任務。Dインストールと同じくらい……とはいかないまでも、どちらもユウマに課せられた任務だ。どちらも遂行するためには今Dインストールを実施するわけにはいかない。それだけ。
『わたしが、死ぬまで。』
そう言って幸せそうに微笑んだ由仁の顔が瞼の裏にちらつくのも、きっと任務だからだろう。
7度目は雨が降っていた。
白い病室の中からぼんやりと、雨に打たれて葉を震わせるフロワロを眺めている由仁の前。視界を遮るようにお土産を置く。
「これは何ですか?」
「カメラです。」
「カメラ!写真を撮るの?」
「ええ。俺ときみの」
由仁は大きな目をぱちぱちさせると、パッと顔を赤くして俯いた。
「や、やだ、わたし、こんな髪だし、肌も綺麗じゃないし……」
栄養不足で使い込んだ筆の先のようになった毛先をくりくりと弄る。
ユウマは毛束を手に取って、傷んだ毛先には気付かない風を装ってそこまでの過程を撫でた。
これは任務。
「とても綺麗な髪です」
由仁がちょっと泣きそうな顔をしたからもしかしたら言葉の選択を誤ったのかもしれないけれど、すぐにありがとうと嬉しそうに頬を赤らめたので間違ってなかったのかどっちなのだろうと思った。
もう体を起こすことも出来なくなった由仁を起こすのはユウマではなく背もたれの部分が昇降可能な電動ベッドの役割だ。
ベッドの上。
初めて横に並んで座る。柔らかな肩がユウマのそれとぶつかった。
これは任務。
「それでは撮りますよ」
撮りますよと如何にも手馴れたように言ったけれども、任務以外で写真を撮るのは実は初めてだった。ヨリトモ提督に教わったセルフタイマーを起動させて、若干緊張しながらテーブルの上に置く。
セルフタイマーの存在を知らなかったらしい由仁がきょとんとした顔をした。
パシャリ
「えっ!もう撮れたのですか」
「はい、バッチリ。見ます?」
「わ、わ、ちょ、ちょっと、あの」
「きみ凄い間抜けな顔」
「わあぁぁあっ!やめっ、やめて!撮り直し!撮り直しです!!!」
長時間わあわあ騒げるだけの体力のない由仁からカメラを守りきるのは、ドラゴンフライ3匹を同時に相手取るより遥かに楽だった。
力尽きてぐったりとした由仁をベッドにきちんと寝かせて、白い頬を指で擦る。カギの形をつくった右手の関節で、そっと。
由仁が擽ったそうな顔をした。
「何だか今日のユウマさんは変です」
「失礼なことを言うのはこの口ですか?」
「あはは、いひゃいれすよぅ」
白い頬はユウマが軽く抓っただけで真っ赤になった。ため息をつきそうになるほど弱い存在だ。少し前まで、ユウマが徹底的に嫌っていたモノ。
けれど今は、この病気の娘に対する嫌悪感は湧いてこなかった。
「……あなたが、」
もうすぐ死ぬということを受け入れているというふうなことを、言うから。
「もうすぐ死んでしまうなら、今の内に優しくしておいてあげるべきかと思ったんです。」
「……冥土の土産に?」
「最期の思い出に」
おもいで、と娘は繰り返した。
まるで初めてその言葉を聞いたかのよう。
「ならばうんと優しくしてください」
「ええ。任務ですから。とはいえ、優しくと言っても何をしましょうか」
「由仁と呼んで」
「へ、」
ユウマはセルフタイマーを知らなかった由仁と同じ顔をした。
「由仁と呼んで」
由仁はささやか過ぎて聞き逃しそうな願いをもう一度呟く。
「由仁と呼んで」
もう一度。
「……俺、呼んでいませんでしたか」
「一度も。」
そんなはずがないと思ったが、思い返せば確かに名を呼んだ記憶はない。由仁と会うときはいつも2人きりだったから、あなた、とか、きみ、とかで事足りていたのだ。
頭の中ではもう何度も呼んでいる名前。
いざ改めて呼ぶとなるとどうにも緊張して、ごくりと喉が鳴った。かっこわるい。
「由仁」
緊張してガサガサ罅割れた声になった。
けれど由仁は嬉しそうに笑って「はい」と返事をするから、これは任務、これは任務とひたすら自分に言い聞かせる。
「次は手を握って」
これは任務。
「抱き締めて」
これは任務。
「ユウマさんが最近悩んでいることを、わたしに教えてください」
これは……、
「今、なんて?」
「ユウマさんが最近悩んでいることを教えてくださいと言いました」
「どうしてです」
「苦しそうだから」
「苦しいのはきみの方でしょう」
「ほんとうに?」
それは普段のふわふわした声ではなかった。びっくりして顔を見ようとするけれど、白い頭は今ユウマの腕の中にある。
離そうと力を緩めれば、そっと上から手を添えられた。
「きっと『軍事機密』でしょう。けれど関係ありません。だってわたしはもうすぐ死ぬ。ユウマさんの苦しさは、わたしが全部、あの世まで持ってゆきます」
詭弁だ。
けれどそれを指摘する言葉が、喉に支えて出てこない。
いい加減認めるしかなさそうだと諦めて、ユウマは肩に入っていた力を抜いた。
抱き締めた頭に頬を寄せる。
『わたしが、死ぬまで。』
悲しいことを言う幸せそうな顔を見た。
震える白い睫毛。
その先に涙の珠の幻影を見た一週間前から、『これは任務』の一言で片付けられなくなっていることに気付いていたのに、気づかないフリをしていた。
気付くべきではないと思った。
だって己は軍人で
人工生命体で
強くなければいけなくて
竜を屠る、そのためだけの存在で
そして彼女はもうすぐ死ぬ。
フロワロに、竜に、殺されて死ぬ。
胸のあたりが酷く痛んだ。思わず由仁の頭を胸に押し付けると、白い頭は擦り寄ってくる。ああ、痛い。心臓を掻き毟りたいような、それでいて触れたくないような、理解し難い衝動に苛まれる両手で由仁を抱き締める。
俺はこれを憐れみだろうと理解していたのに、どうやらそうではないらしい。
今はまだ温かい腕の中の娘。
「抱き締めて」と言われて抱き締めたのに、いつの間にか抱き締めさせてもらっていた。
「俺は」
声が震えた。
「居なくてもいい人間でしょうか」
「どうして?」
「強さを受け入れるのが怖いんです。俺が俺でなくなってしまう。けれど頭では分かっているんです。どんなに怖かろうが、嫌だろうが、受け入れなくてはならない。俺はそのために生きている。」
「竜を倒せなくては生きている意味がない?」
「ええ。」
「ではわたしこそ、生きる価値がない人間でしょうね。」
何を言っているんだこの人は、と思ったのが、抱き締めている腕経由で由仁に伝わったのだと思う。ユウマは泣きそうなのに、由仁はふふふとおかしそうに笑った。
「特に毎日意味もなく、来る日も来る日も窓から四角い空を飛ぶ竜の群れとフロワロを眺めて、誰の為にもなれず、日本の為にも、世界の為にも何も出来ない。消費する食料と酸素のことを思えば、いっそ死んでしまった方が世界の為になるでしょう。本当に生きている価値がないのは、わたしの方」
「そんなこと!」
思っていたより大きな声が出て、自分でびっくりして肩を揺らした。腕に触れる由仁の指が宥めるようにゆらゆら動く。
細く細く息を吸って、まるで言い訳を口にするかのように
「……俺はあなたが淹れる紅茶が好きです。」
小さな声で言った。きっとこの距離でなければ聞き取れなかっただろうほどに小さな声で。
この気持ちは哀れみではない。けれどそれなら、この胸の痛みは何によるものか。
答えはこの言葉だった。
「好きです。」
由仁はすべて分かった上で何も分からないような顔をして、
「わたしもユウマさんとお話するのが好き。」
と言った。
「大好き。」
これは恐ろしい女だ。
弱いフリをして、こんなにもユウマの動揺を誘う。
「もう一つ言いたいことがあります」
「何ですか」
「俺、本当は十二歳だって言ったら、信じてくれますか」
「わたしの髪は本当は若葉みたいに綺麗な黄緑色なのよって言ったら、信じてくれる?」
お互いの額が擦れる程の至近距離で見つめ合って、同時に噴き出した。
「もちろん信じます」
「わたしも。」
(151201)
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