こころまい
 飛び込むとふかっとした感触に包まれる。次いで鼻孔をくすぐるのは埃と彼の人の匂いに他ならない。懐にしがみつきながら、猫のようにごろごろ喉を鳴らしつつ温もりを堪能する。素面ではこんな大胆な態度を取れない。僕は弱虫で意気地無しで卑怯な人間だから。
 先生は何も言わない。彼の顔を直視出来なかった。どんな表情でいるのかすら僕は知らないままでいる。呆れているのか怒っているのか、困っているのかそれ以外の感情を抱いているのか。お酒の入った頭ではまともに思考することすら不可能だった。まどろみに沈んでいく。
 ちゅっ、と微かなリップ音が遠くで響いた。否、正確にはすぐ近く。吐息のかかる距離で放たれたそれに、僕は僅かに目を見開かざるを得ない。ふ、と細められた先生の眼は嫌になるほど美しい。薄い唇は柔らかく弧を描いていた。再び巡りあう口唇に、これが夢であったならと思ってしまう。
 僕は意気地無しだから。卑怯な人間だから。先生が酔った僕に口付けを贈っていることに気づいていてなお、知らんぷりするのだ。先生も弱虫だから、これ以上のことはしてくれないのだ。
 お互い一歩を踏み出せないままでいる。ぼやけた輪郭を指先でなぞるみたいに無駄な行為だ。
(僕は先生が好きだけど)
 僕が踏み出さないその理由はあまりにも残酷で。
(僕が好きな先生はもうこの世にいなくて)
 あんまりにも都合がいいのではと勘繰ってしまうから。
(目の前にいる先生は先生であって先生じゃない)
 抱きしめ返してくれない先生は、何かを悟っているのかな。

病的



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