こころまい
 やれやれと言った様子で彼の手を引いたのは、ナカハラその人である。待ち望んでいた瞬間。儚げな瞳は地に伏せられていて、視線が合わさることはない。
「……自分は」
 控えめに開かれた薄い唇に目線を移す。想像していたよりもずっと低い声色に、驚愕の色を隠せなかった。
「萩原」
 朔太郎、と名乗られるよりも先に、体が動いていた。勢いよく飛びついて、彼の背に手を回す。ナカハラが狼狽えた様子で僕の名を呼ぶが、この感動を抑える術を僕は知らなかったのだ。
 ずっと会いたかった。君が覚悟を決める瞬間を待っていた。ずっと。心中で幾度も気持ちを吐き戻す。
「会いたかった、ずっとずっと待っていたんだよ」
 彼の両手は、きっと行き場をなくしたまま空中で漂っているに違いない。初対面の人間に抱きつかれたのだ、不快な思いをしているに決まっている。だのに、僕は自分勝手で自己中心的だから、彼を離してやれないのだ。
 あと少しだけ、このままで。
 ぎゅっ、と彼を抱く腕に力が入る。不思議なことに、彼からは真新しい月の匂いがした。
「孤独になんてさせないよ。僕がずっとそばにいたげるからね。貴方のことが知りたくて知りたくて、ずっと待っていたんだよ、……ずっと」
 ずっと、と言い終えると同時に、彼の手が僕の背に触れた。
「ようこそおいでくださいました、萩原朔太郎様。僕と一緒に、どうか、文学を守ってください」
 遠慮がちに抱きしめられている。やんわりと縮められた距離感は、歪で不格好だ。耳元にかかる吐息がくすぐったくて、腰が動いてしまう。
「よろしくね、司書さん」




 これが全ての始まりとは知らずに。

日常



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