その人は、俺にとっては先輩で。 でも、いつも遠くから見てるだけの全く知らない人だった。 「鳳、何突っ立てるんだ?次教室移動だぞ」 「あ…うん」 机に広げていた数学の教科書を片づけ、急いで音楽の教科書を取り出す。 俺は、机の前でため息を吐きながらこちらを見遣る日吉に眉尻を下げた。 「お前、テニス以外の時もちゃんとしろよ」 「そんな言い方しなくてもいいだろ、それにさっきは考え事をしてたんだよ」 「考え事?お前が?」 「だから日吉そういう言い方は……って、どうしたんだろう?あれ」 「あ?」 教室から音楽室までは少し距離がある。 急ぎ足で歩いていた俺と日吉は、渡り廊下を通り過ぎる際に目についた人ごみに、進む足を僅かに緩めた。 「何かあったのかな?」 「さあな」 「でもあんなに人ごみになってどうしたんだろう」 「跡部さんじゃないのか?この学校で人が集まるなんてそれくらいだろ」 「そうかな?だって跡部さんは女性に人気が高いけど、あそこに集まってる人は男子生徒もたくさんいるみたいだし」 校舎と校舎の間にできた裏庭。 そこは普段なら人気のない場所のはず。 そんなところに人が集まっていたら普通は気になる。 でも、日吉はそんなことまったく興味がないようで。 集まる集団に一瞥を投げると颯爽と廊下を歩いて行った。 「そんなことより、早くしないと授業に遅れる」 「あ、うん、そうだね」 さっさと俺の前を進んでいく日吉に駆け足で着いて行く。 廊下を渡りきる際に、横目でなんとなく集団に目を向けたけれど、人垣の向こうに何があるのかは全く確認することができなかった。 ……ほんとになんだったんだろ? 「鳳君、窓側の席どうぞ?」 「ありがとう」 「あ……日吉君も、どうぞ」 「……」 音楽室に着けば、俺たち以外のクラスメイトはすでに席についていた。 女の子二人が窓側の席を譲ってくれたけど、なんだかいつもこんな気がする。 席を譲ってもらったり、何かとしてもらったり……いいのかな? それに日吉の奴、折角席を空けてもらったのに礼も言わないなんて。 「日吉の分もありがとう」 「ううん、あ…それじゃぁ先生来たから」 俺は日吉の分の礼も伝えると、すでに腰かけていた日吉の隣に腰を降ろした。 パタパタと駆けて行く女の子はどうやら俺たちとは正反対の席に座ったらしい。 そんな女の子の良心に、俺は日吉に目で訴えたけど、日吉は全くの無反応だった。 「なんだよ」 「別に何でもないよ」 「なら無駄に見るな」 「……」 そうして始まった音楽の授業。 ヴァイオリンもピアノも好きだから、音楽は俺にとっては嬉しい授業のはず。 でもなんだかさっきの日吉の態度と女の子の良心に申し訳なくなって、俺はあんまり授業に集中することができなかった。 「……あ」 「?」 そんなとき、チラリと目の端に入った光に目を細める。 俺はあまりの眩しさに小さな声を漏らしてしまった。 日吉が気づいてこっちに顔を向ける。 「ちょっと光が眩しかっただけだよ」 「……」 怪訝そうな表情を浮かべた日吉に小さく謝る。 音楽の鑑賞中に声を上げるのは無作法なことだとわかっていたから。 でも、なぜか日吉はまだこっちを見ていて……。 俺は不思議に思って日吉の視線の先に目を遣った。 「…あ」 すると、窓の外を見ていた日吉の視線の先には、五階に佇むこの教室から望む裏庭が広がっていた。 その光景に俺は思わず腰を浮かしそうになる。 けど、気づいた日吉が俺の腕を掴んで抑えてくれた。 「授業中だ」 「…あ、ごめん。ありがとう」 「さっきの人ごみの理由はあれか」 「……うん、そうみたいだね」 跳ね上がった心臓を落ち着かせるように深呼吸をする。 そんな俺の様子に日吉も掴んでいた手を放して、再び音楽室内に視線を戻していた。 「……跡部さんの他に、もう一人いたんだったな」 「うん」 そして、その言葉を最後に日吉は音楽鑑賞に集中していった。 けれど、俺は見つけてしまった一つの姿からなかなか意識を手放すことができなくて。 流れる曲を聞きながら、再び横目で窓の下を覗き込んだ。 「……せん、ぱい」 滅多に教室から一歩も出ることをしない先輩が、一人、木陰に凭れて眠っている。 やさしく耳を掠めるヴァイオリンの音に誘われて、先輩のやわらかな髪がまるで踊っているように見えた。 「……」 俺はゆっくりと頬杖をつくと、ハナミズキの花に包まれて眠る先輩をじっと見つめた。 それとともにじんわりと熱くなる頬を両手で隠して……。 5月21日。 俺は知らない、あんなにきれいで穏やかな人を。 空気までもが澄んでいて、誰もが近づくことを許されないほどの美しい人を…… 俺は、知らない。 距離の分だけ