ようやく来た、この世界での金曜日。 でもそれは私にとって、まだ日曜日の延長線。 明日になればようやく元の世界での月曜日が始まる。 本当に長い週末だった…。 「ルカさま、街には寄られますか?」 「……いつものところだけ」 「承知いたしました」 後部座席に座る私に、運転席からハルトが声を掛ける。 車窓から見える景色に目を移せば、そこには新緑の木々が広がっていた。 「もうすぐで軽井沢の街に入ります」 キキキッと声高な音を高鳴らせ、停止した車。 手際よく車から降りたハルトが後部座席の扉へと歩み寄ってきた。 「お迎えは一時(いっとき)ほどでよろしいですか?」 開けられた扉から差し出されたハルトの手。 それを掴みながら外へと降り立てば、車で遮られていた陽の光が全身に降り注いだ。 「それでは後程お迎えに上がりますので、ごっゆくりとお茶を楽しんできてください」 「ありがとう…」 笑顔を浮かべたハルトが緩慢な動きで運転席側へと戻って行く。 そして、私が喫茶店へと入るのを見送ると、ゆっくりと車道へと走り出していった。 「これはこれは、春瀬さんではございませんか」 「…こんにちは」 「いつもの、でよろしいですかな?」 「お願いします」 喫茶店へと入れば、そこには見慣れた店内が広がっている。 私はカウンターに立っていたマスターにぺこりと頭を下げると、店の一番奥、小さなハーブ畑を望む窓側の席に腰掛けた。 「当店オリジナルのハーブティーでございます」 「…ありがとうございます」 「それと、いつも来てくださっている春瀬さんには、こちらをご一緒にどうぞ」 「……ギモーヴ?」 「よくご存じで」 コトリと手元に置かれた白と薄桃色の四角形。 私はキョトリとマスターを見上げると、向けられた柔和な笑顔に目を細めた。 「おや、お客様のようですね」 「……これ、ありがとう」 「ごゆっくり」 一言二言言葉を交わしているとカランと小さく音を立てたドアベル。 マスターは微笑みながら断りの言葉を入れると、新しく訪れたお客さんに向かって行った。 その後ろ姿から手元に目を移し、徐にカップの柄を指でなぞる。 そして滑らかなその感触に満足感を抱けば、私は静かに流れる店内の時間に身を埋めていった。 「すまない、そこの席……」 「……?」 そうしていくらか庭を眺めながら紅茶を口に運んでいれば、不意に掛けられた深い声。 テーブルの手元にうっすらと影ができていた。 「はい……」 影をつくる本体にゆっくりと顔を上げる。 すると、そこには見知らぬ男性が立っていた。 こちらをじっと見て、固まっている。 「……」 「………」 パチリと瞬きが落ち、ひゅっと息を呑む音が聞こえる。 けれどその瞬間、パッと逸らされた視線。 その人はわずかに眉を顰めると、次には口角を下げていた。 その行為に心なしか自分の視線も下降する。 「春瀬さん、そのお客様は先ほどまでその席の隣に座っていらしたんです。どうやら忘れ物をしてしまったようで…」 「……マスター」 「……」 私を覆い隠すように立ち尽くし、されど何も言わずに他所を向いている見知らぬ男性。 互いの視線が交わらず、静寂続きの状態に困りかけたころ、つとマスターから助け船が届けられた。 カウンターから顔を覗かせてこちらを見遣るマスターの顔には笑顔が浮かんでいる。 俯きかけていた顔を上げれば、カウンターの向こう側から笑い声が聞こえた気がした。 「はは、春瀬さんにはいつも店内からは死角になっている席に座ってもらっているんですが。今回ばかりは忘れ物をしてしまった彼が悪いようですね。彼がそんなに緊張してしまうのも詮無いことですよ」 「……っ」 「?」 マスターの言葉の意味が解らず首が傾く。 然し、男性の方には何か身に覚えがあったのか目の端で僅かに身体が震えるのを捉えた。 私は未だに茫然とたたずむ男性に一瞥を投げると、ほんの少し掠めた視線に瞬きをした。 「徳川さん、あんまり固まってしまいますと動けなくなりますよ?」 「……あ、あぁ」 「?」 カウンターからこちらに移動してきたマスターが、男性の肩に手を置く。 夢から醒めたように息を吹き返した彼は、一瞬視線を彷徨わせると気まずそうに頭を振った。 「すまない…邪魔するつもりはなかったんだが…」 「ははは、徳川さんそれは無理もないさ」 「マスター…」 ポンポンと気さくに肩を叩くマスターに、その男性はため息を吐く。 こちらに視線を向けられることはないけれど、その人がふとこちらに意識だけを向けたことに気づくと、マスターは微笑ましそうに目を細めた。 それと同時に、男性が口を開く。 「この付近に落とし物がないかと思ったんだが…」 「春瀬さん、この人合宿で軽井沢に滞在してるんですよ。よく来てくださるんですが、今日はどうやらその合宿で必要なものを置き忘れてしまったようなんです」 「……合宿?」 「ええ、徳川さんはテニスをされるんですよ」 「マスター…勝手に話を進めないでもらえますか」 マスターの介入により、徳川と呼ばれた男性がマスターに振り返る。 その顔はどことなく不快に歪められていた。 「ははは、すまないね徳川さん。それなら私は仕事に戻りましょうかね」 「……いや…」 「取り敢えず固まってしまっては元も子もないですから、春瀬さんにしっかりと挨拶をしてくださいね。それから質問をするのが女性への礼儀ですよ」 「……」 「いいですね」と男性の肩に手を置いてカウンター内に戻って行くマスター。 残された男性はと言えば、何かを話そうとしたのか。 僅かに口を開けたまま、マスターの背中を見送っていた。 静寂が落ちる。 「……」 「…あの」 「ぁ…あぁ」 「落とし物…ってなんでしょうか」 「ぁ、…いや、もういいんだ。気にしないでくれ」 「…」 顔を背けながらポツリポツリと紡がれる声は低く小さい。 クールな印象から受ける外見とは裏腹に、聞き漏らしそうになるその声はひどく儚かった。 落し物はもうあきらめた、のかな? でも、それならなぜ彼はまだここにいるんだろう。 私は手元の紅茶に視線を落とすと、水面に反射する彼の瞳と目が合った。 「……っ」 「…」 チラリと見えた夜色の瞳が一気に逸らされる。 「…いや、その…それ見たことない菓子だな」 「…」 すると、先ほどとは打って変わった話題を落とす彼。 早急な話題転換に疑問を浮かべそうになったけれど、静かに彼の行動を待った。 上げられた右手で指差された場所には私の手。 そこには、さきほどマスターが置いてくれたギモーヴがあった。 ? 欲しい、のかな。 「…食べられますか?」 「…ぁ…いや……」 彼の細く白い指がピクリと反応する。 紅茶の水面に映る彼の瞳はどこか不安げに揺れていた。 「…?」 「…いただこう」 ぎこちなくこちらに顔を向ける男性。 相変わらず視線が見(まみ)えることはないけれど。 どうやらこのお菓子が欲しかったことは合っていたらしい。 私は小さな呟きを耳にすると、ソーサーに添えられていた紙ナプキンに二つほどギモーヴを載せ、スッとその人に差し出した。 「…すまない」 「いえ」 長く白い手が伸ばされる。 受け取る際に、不意に私の指先にその人の手が触れたけれど。 それは男性の指先にしては酷くたおやかなモノに感じられた。 「……っ」 「…」 「それじゃ俺は失礼する。邪魔をしてすまなかった」 「…いえ」 ギモーヴを受け取った男性の手が急ぎめに引かれる。 そして受け取ったことを確認すると、彼は礼儀正しくその場で一礼をした。 微かに感じた視線に顔を向けると、その人は私が視線を返す前に踵を翻してしまっていた。 「それでは」と言いながら背中を向け歩いて行く男性。 遠ざかっていく彼の背中に掛かる陽光がやけに鮮明に見えた。 「……」 「春瀬さん、彼、照れてるだけですから」 「…」 「ははは」 私は差し出していたままだった手を引っ込めると、残された数個のギモーヴに視線を落とした。 薄桃色と白の四角形。 ポロリと崩れた角が柔らかな楕円を描いている。 そうして私は遠くに聞こえるドアベルの音を耳にしながら、柔らかな甘味を口に運んだのだった。 「そういえば彼、甘いモノ苦手だったはずなんですけどねぇ」 「……」 5月21日。 異世界の平日で出会った男性は、甘いものが好きだったらしい。 甘いものを理由に