年に数回行われる日本男子テニス高校選抜の合宿。 俺は、今回もその合宿に参加していた。 「学校休めるのはラッキーかもしんねーけど、この合宿キツイんだよなぁ」 「まーまー、テニスを鍛えられるんだからいいんじゃねぇの?」 「ま、そういうことだな」 練習場から合宿所へと向かうバスの中は、あたり前だが合宿参加者で溢れかえっている。 俺はそいつらの話声を遮断するように目を瞑ると、先日見かけた女性のことを思い出していた。 「徳川?」 「…」 「なーにひとりでやってんの?」 「…何もしていない」 「ま、見ればわかるけどね」 「…」 ならば話掛ける必要もないだろう。 視界に映る茶髪眼鏡に息を漏らすと、俺は窓の外に視線を投げる。 然し当の本人は俺の態度などお構いなしなのか、クスリと微笑を漏らすと相も変わらず話掛けてきた。 「そう言えば徳川さ。ここ数日あの香りがしないね」 「……」 「紅茶みたいな甘い香りって言うのかな?」 「…なんだそれは」 「あれ、気づいてなかったの?この合宿に参加してからなんか好い香りがたまにしてたんだよね。街行ったあととか特に」 「……」 前の座席からこちらを覗き込むように顔を向ける入江。 その眉間には、微かな皺が寄せられている。 だがそれもすぐに消え失せ、いつもの笑みが浮かべられる。 入江は何か考察するように顎に手を添えると、徐に右目を伏せた。 「街でいい人にでも逢ってたのかな?もしかしてダメになっちゃった?」 「……」 「はは、冗談だよ徳川」 得意満面で何を言うのかと思えば…。 呆れたように入江を無視すると、俺は「話はこれで終わりだ」言わんばかりに再び車窓に目を向けた。 すると、偶然にもふと目に入った道なり。 あぁ…あそこの角は…。 「あそこの角曲がると街だよね」 「……」 タイミングよく漏らされた入江の声に思わず肩が震える。 だが入江の瞳も俺と同じく窓の外に向けられており、幸いこちらの様子に気づかれることはなかった。 同じ方向、見てたのか……。 横目で捉えた入江の顔。 僅かに細められた薄茶色の瞳は真っ直ぐにその道角を射抜いている。 「そうそう、知ってる?ちょっとした噂なんだけどさ」 「…」 流れる景色を見つめながら入江が口を開く。 その目が捉えるのは、小さくなり始めた先ほどの道角。 俺は、差し込んだ日の光によって反射した眼前の眼鏡に目を細めた。 「この辺りには大きな洋館があるんだって」 けれど次の瞬間、全身を駆け抜けるように走った焦燥。 俺は咄嗟の感情に慌てて胸に手を当てると、ドクリと早鐘を打ち始めた鼓動に瞠目した。 目線だけを向けて入江を見遣るが、未だにこちらを見ておらず。 俺は何の言葉も返すことができないまま、落とされる言葉に耳を傾けた。 「それでそこには大層きれいなお姫様が病気に伏していて、その苦しみから解放されるのをずっと待っているらしいんだ。でもそのお姫様があまりにも綺麗すぎてしまうから、誰もが近寄ることも声を掛けることも忘れてしまう。医者も薬師も、魔女すらも。だから、そのお姫様はいつまでもその苦しみから解放されることはない」 「……」 「誰もが近づけない程の澄んだ空気をその身に纏い、この世のものとは思えないほどの美しさに、そのお姫様は今も苦しんでいるんだって」 クスリと微笑を漏らす音が聞こえる。 伏せられた入江の顔は、陽光に当てられた眼鏡で覆われている。 目の色が見えないコイツは本当によくわからない。 「……入江、そろそろ前を見ろ」 「ふふ、ねぇ徳川。もし本当にそんなお姫様が居たらキミはどうする?」 「…」 妖艶に上げられた口角がこちらに向けられる。 差し込む光で色褪せた入江の髪がやけに眩しく見えた。 口を噤んだまま、目を細める。 「わかったよ。もう話掛けないから、悪かったね」 「……」 ひらひらと片手を振り、ようやく前を向いた入江。 俺はそんな入江を流し見ると、僅かに感じた胸の中のつっかかりに眉を寄せた。 「……」 近寄ることもできず…。 言葉を忘れるほどの、美しさ。 腕を掴む手に力を入れると、俺は木々だけを映し始めた車窓に目を向けた。 そう言えば、気づかない内に話掛けることを忘れてたな…… 俺も。 「……フッ、まさかな」 そして、俺は感じた焦燥を掻き消すように目を伏せたのだった。 ……偶然だ。 5月23日。 あの日から数日。 だが、記憶は鮮明だった。 消せない記憶