尹倚さんとの約束。 一方的なモノと言えば一方的に決められたものだけれど、セキュリティの施工工事が終わるまで、私は大学の図書館で勉学に励むことになったらしい。 その理由は、高校より大学施設の方がまだマシだから、とのこと。 学校に来る意味がわからなくなってきた……。 「それでは、午前はこの辺りに致しましょう」 「……」 「午後からはお好きな言語を学ぶのはいかがですか?春瀬様であれば、ドイツ語、ギリシア語、ロシア語。お得意なもの以外でも構いませんよ」 パタンと手に持っていた本を閉じた男性。 静寂に包まれた大学の図書館で、高校の授業代わりにと教鞭をとってくれていたのは、先日ここまで送迎してくれた国光さんだった。 「昼食のご用意はいかがいたしましょう?」 「…、天気がいいので」 「承知いたしました」 柔和な所作と穏やかな笑みは国光さんの特徴だ。 私は、「昼食の用意をしてまいります」と席を外していく国光さんの背中を見送ると、ぼんやりと窓の外に目を遣った。 そこには、高校の施設と大学を隔てる中庭が広がっている。 丘陵地帯になっているそこは、広範な芝に覆われており、何本もの常緑樹が植えられていた。 「春瀬さま、本日は天気もよろしいのでそちらの中庭にお席を準備いたしました」 「……ありがとう」 「では、こちらに」 国光さんに連れられて向かった先は、先ほど窓から覗いていた中庭。 前もって準備しておいてくれたのか、こじんまりとしたテーブルセットと軽食が並べられていた。 「……」 そよそよと流れる風が心地好い。 新緑に近づく木々の間で摂る食事は、どの世界でも変わらずに心地好いモノだと思える。 私は、国光さんの入れてくれた紅茶に口をつけると、そっと目を閉じた。 「ぅわぁぁぁ……ッ!」 「…?」 そうして穏やかな時間を堪能していると、突として聞こえてきた小さな悲鳴。 私は閉じていた目を持ち上げると、怪訝な表情を浮かべる国光さんを見遣った。 「なんでございましょうか?」 「…」 「少年のような声が聞こえてきた気がいたしますが……」 パチリと目を瞬かせる国光さんの瞳には疑問が揺れている。 国光さんは、傾けかけたティーポットを支える手を止めると、スッと目を細めた。 その瞳に僅かに鋭さが宿る。 「……」 私はそんな国光さんを見つめると、次の瞬間、ガサリと鳴った高校側の常緑樹に瞼を瞬かせた。 国光さんが音もなく私の前に立ち入る。 「?」 そして、眼前に掲げられた国光さんの背中を見上げた瞬間。 私は常緑樹の上方から小さな物体が転がり落ちてきたことに気がついた。 「わッ…イッテェ―……くそ、あの野郎…」 「……」 ぼてぼてぼてんッ、と鈍い音を立てて落ちてきた物体。 その正体はどうやら小さな少年のようだった。 その事実に、国光さんは一瞬だけ動きを止めると、次には柔らかな笑い声を上げて私に一言呟いた。 「おやおや、どこからか初等部の方が迷われてきたようですね」 「……」 微笑む国光さんに、先ほど感じた鋭さは消えている。 「少し外します」と断りを入れ、そっとその少年に歩み寄っていく国光さんをぼんやりと見つめるけれど、見える背に漂う空気はいつも柔和な彼のものだ。 私は浮かんだ疑問に首を傾げると、手元のティーカップに手を伸ばした。 「あイテテテテテテ……」 「お怪我はございませんか、小さなお客人」 「…え……」 「どこからか舞い降りられてこられたようですね」 「…えっと……」 「ほほほほ、お気になさらずとも大丈夫ですよ。ここは帝丹学園の敷地内ですから」 「あ……、あーっと、その……っありがとうおじいさん!」 「はい」 国光さんの背中で少年の姿を垣間見ることはできない。 けれど、二人の声を聞く限りでは、その少年が今自分の置かれている状況を確認できたらしいことはわかった。 少年の焦った声色から、この場所を学校外と思ってしまっていたのであろうことが容易に見て取れた。 続いて、国光さんの笑い声が耳に届く。 「えっと、……おじいさんは、こんなところで何してるの?」 「おや、それは私がお尋ねしたいことですよ?」 「え?」 「ほほほ、天から降って来られる少年に中々出会うことはありませんから」 「そ…そうかな〜?…えへへ?」 学校内だとわかったことに少々落ち着きが出ていたのか、国光さんに質問を投げる少年。 然し、自分の方が質問される側だと自覚した途端、その落ち着きは脆くも崩れ去った。 私はそんな二人のやり取りから顔を背けると、入れかけだったティーポットを手に取り、自らカップにお茶を注いだ。 「えっと…僕はお姉ちゃんの高校に社会科見学で来てたんだけど、窓の近くでふざけて遊んでたらいつの間にか落ちちゃったみたいなんだ」 「それはそれは…どこかお怪我はございませんか?」 「えっ……?!あ、大丈夫だよ!ほら、僕こんなに元気だし!!」 「さようでございますか」 「うん!」 「それではいかがいたしましょうか…、困りましたね。貴方をお送りしたいとは思うのですが……私はここから離れるわけにはまいりませんので……」 「??」 すると、紅茶を飲んでいる間に少年との話が進んでいたのか。 どことなく国光さんの困ったような雰囲気が背中から伝わってきた。 私はその気配に紅茶を飲んでいた手を止めると、「どうしたのだろうか」不思議に思い、背後に振り返った。 「…おじいさん?」 「あ、これはこれは。私としたことが茫然としてしまいましたね」 「ううん?それより、後ろ見てどうしたの?何かそっちにある……の………っ」 「……っ、少年!」 「…っ」 けれど、振り返ったその瞬間。 なにかを遮るように、ざわりと吹き荒んだ風。 それは、中庭に点在する常緑樹の葉を幾枚も奪い去って…。 まるで雪を降らせるかのように周囲に散らばっていった。 「……」 「…」 ぴちゃり、と静かな音を立ててカップの水面に着地した薄緑色。 柔らかな波紋に掻き消されていく自分の顔が、目の端に映り込んでいる。 私は視界に捉えた小さな少年から顔を逸らすと、カップに入り込んだ木の葉をそっと掬った。 「…っ少年!失礼いたします」 「っ…え、あ……ぅわ!!」 刹那、国光さんの少しばかり荒げられた声と少年の驚いたような声が響き渡る。 「少年、あまり茫然となさりませんように…」 「ぅえっ?……あ、あれ?……おじいさん?」 「はい」 国光さんに抱き上げられでもしたのか、少年のややくぐもった声が耳に届いてくる。 私はその事実に首を傾げると、もう一度だけ背後に振り返った。 …なにをしているんだろう。 「?」 すると、振り向いた先で見つけたのは、国光さんの困ったような笑み。 ……? なんだろう。 「申し訳ございません」 「…」 「おじ…、いさん?」 「少年、言葉を紡いではなりませんよ?」 「……え」 「…」 ピシャリと少年の声を遮る国光さん。 抱き上げられた少年は、「一体何が起こっているのか」と瞠目した様子だったけれど、国光さんの言葉には大人しく従うことにしたよう。 私は国光さんの行動に苦虫を噛み潰したように納得を示すと、目を細めてから口を開いた。 「国光さん」 「…っ!……ッ様……」 「?」 すると、私の声に動揺の色を浮かべる国光さん。 驚いたように目を見開いている。 私は、そんな彼の表情を傍目に淡々と言葉を続けた。 「大丈夫ですから」 「……ですが」 じっと、互いに見つめ交わした視線。 国光さんは最後まで瞳の奥を揺らしていたけれど、何とか理解を示してくれたようだ。 クッと口角を下げると、諦めたように眉尻を下げていた。 「…っ承知いたしました」 不本意ではあるけれど納得してくれた様子の国光さんが腕に抱いていた少年をその場に降ろす。 少年の顔には国光さんが被せたであろうハンカチが掛けられている。 けれど、それも外してもらうように頼めば、諦観の表情を浮かべた国光さんが少年に何かを呟きながらそのハンカチを外してくれた。 「……っ」 「…」 ゆっくりと、国光さんが私の側まで戻って来る。 その様子を見届けると、私は改めて小さな少年をこの目に収めた。 「…」 交差する視線。 視線の交差地点は大人のそれと比べると幾らか低めだけれど、私は相対する少年を一心に見つめた。 …どこかで、見たことある、? 少年の顔を見つけた途端、不意に沸き起こった既視感と疑問。 そんな私に対して、少年の顔はどこか緊張した面持ちと息苦しさを浮かべている。 私は、突発的に浮かび上がったその不思議な感覚をのみ込むと、取り敢えず何か話しかけようと平静に声を掛けた。 「…あの、あなたのお姉さん、何組の方ですか…」 「……っ、ぇ」 「…」 けれど、唐突に声を掛け過ぎたためか。 私の掛けた声に、言葉を詰まらせる少年。 その大きな眼鏡の奥に見える瞳がこぼれ落ちそうなくらいに見開かれていた。 「…あの」 「えっ……っぁ……」 そして、掛けた声に対する返事を待ってみるものの……。 少年から返ってくるのは左右に揺れる双眼と浅い呼吸音だけ。 ……どうしたんだろう。 私は、そんな少年の様子に首を傾げると、「どうしたものか」と眉尻を下げた。 「お嬢様…、やはり私がお伺いいたしますので…」 「……?国光さん?」 するとそんな私たちの様子を見かねたのか、国光さんがそっと私の横に姿を現わした。 …? 不意に現れた影に、やおら顔を上げる。 「ここは私にお任せください」 「……」 苦笑を浮かべた国光さんの顔。 彼は私に一言そう伝えると、私の前で立ち尽くす少年に声を掛けにいった。 私は、そんな国光さんの含みある視線に再度首を傾げると、もう一度だけ少年を見遣った。 「……っ」 「…」 パッと逸らされた視線。 「…」 私はその少年の行動に対して瞬時にすべてを理解すると、「そう言えばそうだった」と、今更ながらに思い出した事実に表情を凍らせた。 ……忘れてた。 誰も私とは目を合わせたくないんだっけ……。 私は冷め始めていた紅茶に視線を移すと、静かに少年から顔を背けた。 直後、国光さんの柔らかな声が耳に届いて来る。 「少年…」 「…、おじいさん」 「少年のお姉さまのクラスをお教えいただけますか?」 「?二年二組だけど…」 「でしたら、ここからあの校舎を真っ直ぐに抜けていかれますと、そのお姉さまのクラスがある校舎に辿り着きます。ご自分でお戻りになることができますか?」 「うん!」 「さようでございますか」 「ありがとう、おじいさん!!」 「いえ、今度は窓の近くであまりおふざけになられませんように」 「うん!気をつけるね!!」 バタバタと背後で遠ざかっていく足音。 それは、少年がこの場から去っていったことを意味していて。 私は、飲み干したティーカップをテーブルに載せると、国光さんに声を掛けた。 「国光さん…」 「春瀬さま……」 「ありがとう、ございます…」 「いえ、私は…」 そよそよと流れる風。 それは、先ほどよりもどこか冷たく感じられる。 私は国光さんの俯いた表情を横目に入れると、静かに瞼を閉じた。 「春瀬さま、そろそろお戻りに……」 「……」 「お茶を…お持ち致しますね…」 「…ありがとう」 そして、先ほどの少年の影を追いだすように。 私は脳裏にたくさんの新緑を描いた。 5月25日。 どの世界もやっぱり変わらない。 掻き消された新緑