「…お頭、いい加減にしてくれないか?ログも今日で溜まる、出航は明日なんだ」 「だーっはっはっはっは!堅ェことは後だ、後!ベン、お前も飲め!」 「………」 毎度の事ながら、この人には手を焼かされる。もうため息すら出そうにない。手に持っていた煙草を口に運べば、慣れたその匂いに気分を落ち着かせた。 「なあーベンも来いよー」 「いい加減ほっといてやれ、頭ァ!ベンは頭と違って忙しいんだよ!」 「だァー!!お前らそれどういうことだァァア!!」 酒瓶を片手に懐のサーベルを取り出した赤髪海賊団船長。ぶんぶんとその剣を振り回して追いかけるのは、古株のクルーの一人、ヤソップだ。そんな光景を目の端にベンはタバコの煙を吐くと、その見慣れた展開を気にすることもなく静かに船縁へと歩いていった。 「ベンも苦労するな」 「ルーか…、なに今に始まったことじゃない」 ふっと横に現れた肉付きのいいクルー。その手にはいつ見ても欠くことのない骨付き肉が握られていた。縁に肘を掛けながらさらりと答える。 「明日出航か?」 「あぁ」 「頭は…」 「まぁ、予想はしていたしな、特に問題はない」 「さすがだな」、と肉に食いつきながらベンを見遣るルー。その視線に答えることなくベンはそのまま甲板に目を向ける。そこには、いつ終わるのかわからない宴とガキの駆けっこの光景が広がっていた。どたばたと揺れる振動はこちらまで伝わってくる。 「…はぁ」 「出たな」 「…」 今日は出ないだろうと思っていたため息。やはり出たか。それに気づいていたらしい隣の奴は口角を上げて、「今日はまだ聞いてないと思った」と言っている。そんなルーに一度視線をずらして呆れたように答えを返してやろうと、おもむろに煙草の灰を落としたそのときだった。 「!!っ」 「「ベン!!」」 「「「「「!!!???」」」」」 いつもなら蚊でも叩くように造作もないことだったが、今日に限って相当疲れが溜まっていたのか。はたまた、どこぞの“お転婆”が酔った勢いで本気を出したからなのか。二日酔い続きの更なる延長線上の今日。四皇の名をはせる赤髪海賊団らしからぬ、ゆるみ切っていたクルーたちの顔にようやく緊張感が戻る瞬間が訪れた。 「っ…」 「ベン!」 ふっとその場でふらつく。ベンは不意に左の額を手で押さえると、横から掛けられる声にようやく何が起きたのかを理解した。そっと、額に当てた手を視界に入れれば、ぺたりとその手に付着する液体。久しぶりに目にする自分のそれに思わず見惚れてしまう。なんだったかこれは… 「ベンっ――――!!!」 バタバタとけたたましい足音を立ててこちらにやって来る原因である男。これからお転婆と命名しようかと本気で思ってしまった。ベンの元に辿り着いた瞬間、悲鳴を上げながら床に膝をつくその男は、足音だけでは飽き足らずベンの眼前でこれまたけたたましい声を上げていた。その五月蠅さに眉間に皺が寄る。 「ハァ…す、すまねェ!!この通りだ――――!!」 「ぁあ?気にするな、お頭」 いきなり目の前にやってきた赤が眩しい男。ベンの前に来るなり、息を切らせて甲板の床と挨拶をしている。ゴリゴリと鳴る音がわざとらしくも耳に届いてきた。そして、頭を床に擦りつけている男の元から不意に聞こえたゴトンッ、という鈍い音。どうやらベンの額に傷をつけた獲物がそいつの腰から落ちたようだ。掠っただけにしろ、どうやら覇気まで纏わせていたらしいそいつ所持物は、綺麗なまでにその刀身を光らせていた。ベンはそれを一瞥すると、本日二度目になるため息を漏らした。 「こんなのただのかすり傷だ」と左上から垂れてくるものを無造作に手でふき取る。そして、足元に伏せる男に顔を上げさせた。 「あ、?あぁっ…、って!!止まってね―よ!!」 静かにさせようと思ったのが、裏目に出たようだ。ベンの顔を見るなり立ち上がったその男は、ひとりで頭を抱え始めていた。頭を振ってその目は最早涙目だ。だが悪いなお頭。今日はあんたに付き合ってやれそうにない。俺も相当疲れてるようだ。“お頭”を横目にベンは額に再び手を当てる。すると、なぜか急激に眠気に襲われた。おそらく昨晩、一昨日と寝ずじまいだったからそこから来ているんだろう。そう思案するが、目の前のお転婆にはそんなこと微塵も理解されない。「俺のせいだー」と叫ぶそいつは、周りのクルーに「落ち着くように」と声を掛けられていた。 そして、ベンはバッタバッタと走り回る男に、今一度「はぁ」と三度目になるため息をこぼすと、横にいたルーに「あの人を頼む」と目配せをした。「まさに大変だな」とでも言いたげな顔で返されたが、今日はそんなルーに反応を返すことも億劫なほど疲れているようだ。悪いな、本気でここらで失礼させてもらう。 「ダァ―――!!あのベンが―!!一大事だ!!死ぬ―――――!!!」 訳のわからないことを叫びだしたお転婆をその場に残し、ベンはその場にスッと立ち上がって船内へと入っていく。自分の船室に入る際に遠くから聞こえた雄たけびのような声は聞いていないことにした。 「……」 眠ってからどのくらい経ったのか。起き上がった際に眺めた自室には、ベッドに入る前に見た明るさはすでに残っていなかった。 「夜か」 現実のような、それでいておぼろげな…不思議な夢を見た気がした。こんなことを言うのは柄じゃないとはわかってはいるが、久しぶりに見た夢は、あまりに鮮明で変に頭に焼き付いていた。ベッドから足だけを下ろし、膝上に肘を乗せる。そして、静かに見つめた部屋に特に変わった様子がないことを確認した。ソファにも、机に置かれた書類にも、どこにも何の変化は見られなかった。 「……」 だが、何かがおかしい。何かとははっきり断言できないが、この胸のうちにある感覚は本物だった。ベッドに触れてみるが、そこにはじんわりとした自分の体温からできた温かさがあるだけ。その温度やシーツのやわらかさから推測すれば、自身がこの場に長く横になっていたことくらい容易に分かった。ベッドは正常だ。だが、何かおかしい。 「可笑しいのは俺の方か…」 ため息混じりにサイドテーブルに置かれていた煙草に手を伸ばす。そして灯した火に煙を寄せれば、闇夜に一糸の煙が立ち上った。 「…いや、」 点けたばかりの煙草をふかす。徐にそれを灰皿にこすりつければ、いつもなら最低三度はふかす煙草も、このときばかりは呑む気がさっぱりとどこかに失せてしまっていた。そして見上げた窓の外。ベンは口角を上げた。 「可笑しくもないらしい」 すっと立ち上がり、風呂場に足を向ける。部屋つながりになっているそこは、ぼんやりと窓から漏れる月明かりに照らされていた。 「…やはりな」 自分の目に写る、相反する自分。映し出された自分の姿に思わず笑いが零れた。起きた瞬間に感じた違和感。寝ている、いや、寝る前から感じたあの不思議な感覚。 「おもしろい」 はらりと掻きあげた髪。そこに見えるのは綺麗な銀髪と古傷を描いた額だけ。己の赤が滴っているはずの傷がなくなっていた。 「夢ではないらしい」