眠い、ただ眠い。最近は何をしていても眠いだけ。目を覚ましても、歩いていても、眠くなる。襲い来る眠りの波に抗えない。海深く、どぷりと沈んでいく塊ように、ただ落ちていく。そんな眠りに呑まれていた。 「ルカさん?……さん?」 だから、呼ばれても、触れられても、瞼が重い。何を考えようとも頭の中には真っ白な靄が広がっていた。ゆさりゆさり、と優しく肩を揺すられるけれど。聞こえる声もだんだん遠のいて。わたしはただ、深く沈む眠りにこの身を委ねていった。 カサカサと音が鳴る。周りの新緑はいつものように踊っている。靄の中でもその艶やかさを失わないで、その美しさを魅せている。私はゆっくりとした歩調で、それらを眺めながら音も立てずに歩みを進めていった。聞こえる葉擦れの音に耳を傾けて、ゆったりと進んでいった。 そうすれば、ほら。見えてきた、いつもの始まり。夢の始まりが眼前に広がった。 「フッフッフッフ。鷹の目の野郎」 聞こえた声に立ち止まる。足元を不意に見遣るけれど、そこにあるのは地に着かない見慣れた自分の足。顔を上げれば、そこにもいつもの景色があるだけだった。なんだろう?どうして私は足を止めたんだろう?自分の行動に疑問が過ぎる。私は視線を一巡させると、止まった足を再び動かしながら小首を傾けた。 森に囲まれた空虚な場所には一本の大木。そこに降り注ぐのは僅かな光。特別変わった様子はない。 「フッフッフ、だがまぁいい。成功はしたようだからなァ」 「(?)」 耳に届いた先ほどよりも鮮明な声。私はその声に「そうか」と違和感の原因を突き止めた。今日の尋ね人は今までの人たちとなにか違う。変な雰囲気だった。そう、この人は笑っていた。今までの人とは違って、声を上げて笑っていた。 「…ァア?誰だ」 「(……)」 芝生を踏み鳴らして、こちらに向けられる尋ね人の顔。じろりと光った眼は茶色いガラスに遮られていた。瞳が見えない。 「フッフッフッフ、お出ましかァ」 「(……)」 どうしてかはわからない。けれど、その人は私を視界に捉えると、その顔に深い笑みを浮かべた。綺麗な半月を描くように持ち上げられた口角が、此方に向けられていた。なんだろう?いつもなら、その巨木の下に座って尋ね人は腰を浮かすことはしない。なのに、なぜかこの人は立ち上がった。私の目の前に立ちはだかって、これ以上ないくらいにその笑みを深めていた。 「嬢ちゃんがこの森の番人ってわけか」 「(……?)」 番人?何を言っているのだろう?私はただ首を傾けて目の前の大きな人を見つめる。そしてその際に気づいた事実。この人ものすごく大きい。これまでの人たちもとても大きな身体を持っていたけれど、立ち上がったことはなかったから、ここまで大きいモノとは知らなった。怖くはないけれど、ここまで大きいと感嘆してしまいそうだ。 「フッフッフ」 そのまま茫然とその人を見つめていると、不意に降りて来た笑い声。それと同時にいつもの情感も降りてきた。その変化に私はその人の茶色のガラスに視線を移す。けれど、そこには芝生意外の何も映り込んではいない。私はその事実に茫然と見惚れると、さらに強められた殺気にその人の肩口を見遣った。 「随分と手間ァ掛けさせてもらったんだ、オメエにはやることァやってもらうぜ」 「(……?)」 やること? 「フッフッフッフッフ。言ってることがわかんねェか?わざわざこんな怪我負って、俺が直々に来てやったんだがなァ」 「(…)」 「オメエ、傷治せんだろ?知ってるぜ。ここが尋ね人の森だってことァ」 じり、と詰め寄られた尋ね人との距離。私は言われたことと、無くなった距離の事実にただその人の肩口を見つめることしかできない。どうしてこの人は自分から距離を縮めたんだろう。これまでなら皆「寄るな」と言って、遠ざけようとしてきたのに。それに尋ね人の森とはなんだろう?私はただただ疑問を過ぎらせることしかできなかった。 「口が利けねェってのもホントらしいなァ。ァア?届かねェのか?ほらここだ」 一瞬懐疑そうな顔をして、それからすぐに納得したような表情を浮かべたその人。そして、何を思ったのかその場にしゃがんで私に肩口を差し出している。私は、未だ途切れることのないこの人からの殺気と、その相反するような行動に「この人は何がしたいのか」と不思議に思ってしまった。 けれど、こういう人もいるのだろうか、と思ってしまえば、いつものようにスッと気持ちが落ち着いた。だから、目の前の人が大きな怪我をしているという事実には変わりはないのだから、いつものようにすればいいんだと思った。ただ、いつものように笑って、触れればいいのだと思った。 「(大丈夫です)」 「……」 手に届く位置に置かれた真っ赤な肩口。そこにはピンク色の羽がたくさん埋まっていたけれど、私は目の前の人にいつもの笑顔を向けると、そっと触れるように手を伸ばした。 「……っ」 「(もう大丈夫)」 そして、いつものように翳した手を退ければ、フッとふらつく今日の尋ね人。半月に形取られた口元が一文字に結ばれて、その眉間には二本の皺が寄っていた。不思議なヒトだったけれど、やるべきことをやってしまえば、後はいつもと同じ。私は、そう思いながら笑顔を顔に張りつけた。 「フッフッフ…これも聞いた通りだ、なァ?」 「(?)」 茶色く光る目の前のガラス。そこには本来見えるはずの双眼がない。だからこの人の瞼がいつ閉じるのかはわからない。笑顔を浮かべ続けていた私には、ただただ彼の行動を見ているしかできなかった。 「…フッフッフッフ」 グシャり、視界に飛沫した真っ赤なしぶき。私は細めていた目をゆっくりと元に戻す。すると、なぜか目の前の人の膝元に真っ赤な滴りがいくつも浮かんでいる。一瞬、柄物のパンツの柄かと見間違えそうになったけれど、それとはどうも違う。……なにを、この人はしたんだろう。そう思って、思考が追いつかなかった。だから、この人が再び笑って、もう一度私の目の前でその足に銀色の刃を突き立てるのを目にするまで、私はまったく事の理解をしていなかった。 「フッフッフ、まだ俺ァ帰らねェ。他人に眠らされるなんざ御免だ」 「(…え……)」 滴る真っ赤。それはこの人の膝から止まることなく落ち続ける。私は、そろりとその人の顔を見つめる。けれど、その人はいつの間にか再び携えていた笑みを深めるだけ。次にはその大きな手を私に伸ばして、何本かの指を動かしては「ダメか」と呟いているだけだった。だから、私は、笑いながら眉間に皺を寄せているその人の意図がさっぱりわからなかった。 「フッフッフッフ、時間切れだァ」 「……」 ポツリと落とした声に、その人は伸ばしていた手を引き下げる。そして、「こっちの怪我は重症じゃねェから治してもらえねェか」と再び笑い声を上げていた。 「フッフッフ、待ってろそこから出してやるよ」 ぷつりとラジオの音が切れたように、フッとその姿を消したその人。私は、不意に顔を掠めた風に意識を引きあげられた。……なんだったのだろう。 今日の尋ね人は本当に不思議だ。あんな人もいるのかと思ってしまうほど不思議。 私は、芝に残された真っ赤な滴りを、じっとその場で見つめると、再び頬を掠めた風にどこか呼ばれたような気がして顔を動かした。だから突と踵を翻すと、いつものように静かにその場を後にした。 誰もいなくなった空虚の場所で、巨木の葉がその真っ赤を消し去っていることにも気づかずに。 今日の尋ね人は不思議だった。