それは本当に、本当の偶然から。 気づかぬうちに起こっていた。 Without Noticing 「あ゛ーぁ゛、マジで吐くわー…」 「ゴホッ…あと少しですから」 「いや、もっといける」 「…これ以上は、ゴホッ…控えてください」 「はぁーん?アタシに文句つけようっての?…ぅえっ…ヴッ」 「え、ちょっと…!」 「ぐえぇぇ…」 夜も更けたこの時分、ばたばたんッと突然に耳に届いてきた鈍い音。 かちゃん、と陶器が割れるような音も一緒に届いて。 一日終わりの清掃をしていた作業場で、わたしはエプロンの紐を解こうと背後ろに回していた手を止めてしまいました。 「…え」 なんの音だろう? 玄関先から聞こえた気がする。 わたしはエプロンをつけたまま、店内の方へと駆けて行きます。 けれど、夜特有の薄暗い店内には特に何の変化も見られない。 その事実に小首を傾げるけれど、わたしは不意に感じた人の気配に咄嗟に玄関先を見遣りました。 ガラス戸に映る黒い影がひとつ。 「…?」 お客さん…? でも、もうお店は数時間前に閉まっているし。 それに、人影だとしてもこの映り方はおかしい。 じっと見つめる玄関戸に映る影は、もぞもぞと動いてはいるものの、それは人の形をしておらず、地面近くで蠢いている。 わたしは、訝しみながらもそっと玄関の引き戸へと手を伸ばしました。 「……」 左手には、そばに置いてあった塵取りを装備。 右手は玄関戸の取っ手へ。 そして、ごくりと唾をひとつ呑み込んで、意を決して一気に扉を開きます。 「っ!」 「…っ!」 瞬間、この目に飛び込んできたのは夜だという事実を忘れさせられるほどに眩しく輝いた月明かり。 薄暗い電気ひとつの中で作業していたせいもあり、その月明かりに一瞬目を細めました。 しかし、それが功を奏したのか否か、わたしは突如聞こえてきた苦悶をこの目に収めることなく済みました。 「…う゛ええええええ……う゛えッ」 「「……」」 「うぐえッ、えぇー、だぁーチクショウ」 「…」 「…」 ―――硬直。 それが最も適切な表現かと思います。 なぜなら、扉を開いた刹那、この目に飛び込んできたのは、夜に出没する不審者でも泥棒でもなく。 店前で花菖蒲の鉢に顔を突っ込んで嘔吐する人間がいたから。 「……」 あと、その人間の背中をさする人間も。 「っ…」 つい、その光景に茫然としてしまった自分。 わたしは、ハッとしてその人たちに声を掛けます。 幸い、私が戸を開けたのと同時にこちらに気づいたらしいもう一人の“健康な人”。 わたしに気がつくと申し訳なさそうな表情を浮かべていたので、まずはその人に口を開きました。 「っあ、大丈夫ですか」 「ゴホッ、すみません」 「いえ…それよりもこの方体調が…」 「あぁ、大丈夫です…ゴホッ、いつものことなので」 「…え」 「ですが、今夜は行き過ぎたようですね」 「…行き過ぎた?」 「ゴホッ…ええ」 ごほごほと咳をしながら、鉢に顔を突っ込む人の背中を擦る目の前の人。 なんだかこの人も体調が悪そうな気がする。 けれど、それよりも「行き過ぎた」とはどういうことだろう。 「ぐええ」 「あ、大丈夫ですか…いま、お水か何かを」 「ゴホッ、申し訳ありません」 「いえ、水を取ってくるので少しお待ちください」 「すみません」と聞こえる声は小さいけれどしっかりした声。 よくわからない人たちの登場に驚きだけれど、わたしは、まずは吐き気を催している人の方が先決だと思い、急いで店内に駆け込んだ。 「…水、みず」 ガラスコップを掴んで冷水を注ぎます。 桶と数枚のタオルも準備をして、それを抱えれば店先に戻って行きました。 「あの、これどうぞ」 「あぁ、ゴホッお手数をお掛けして申し訳ありません」 「いえ、そんなことよりも、この方を店内に」 「ゴホッ…ええ」 伏している人を抱えようと立ち上がれば、わたしよりも早くに動いたその人。 体調が悪いように見えたのが気のせいかと思えるくらいの速さと、腕力?で鉢植えに倒れ込んでいた人を持ち上げた。 その事実に驚きながらも、私はその人たちを店内に案内した。 「…取り敢えず、ここで少し休んでいってください」 「ぐええ」 未だに鉢を手放さない人の背中をさすりながらそう告げれば、吐き続けるその人は呻き声で返事をしてくれた。 そして、もう一人の調子が悪そうな人と言えば、「申し訳ありません」と何度も言いながらその人の隣に腰かけていた。 「これくらいしかできませんけど…もしよろしければ」 「ゴホッ…すみません、ありがとうございます」 ことりと置いたお茶。 突然の来客に、わたしはお茶以外何も準備できなかった。 「すみません、夜更けに」 「いえ…それよりこの方大丈夫ですか?」 「ゴホッ、もうお気づきかとは思いますが、単なる飲み過ぎなので」 「…え、えぇ」 先刻から鼻につく香りは、お酒の香り。 そこから予想は着いていたけれど、このおびただしいお酒の香りは尋常ではない量のはず。 「いつも自重して下さいとは言うのですが、ゴホッ…今日は何かあったらしく普段よりも度が過ぎてしまったようなんですよ」 「…そうでしたか」 行き過ぎたとは、そう言うことだったのね。 ちらりと見遣る伏せっている人。 見てくれからわかるのは、おそらく女の人ということくらいなんだけれど。 「…あぁ、ゴホッ…そう言えば自己紹介がまだでしたね」 「え…」 「私は木の葉隠れ特別上忍の月光ハヤテと申します」 「…」 「こちらで伏せているのが…ゴホッ、みたらしあんこ。この方も一応忍びなのですが」 「この様子では信じていただけませんよね」なんて言っている目の前の人。 わたしは正直この時ほど硬直したことは、この世界に来てからまだ一度もなかった。 確かに忍びの里という世界に来てしまったからには、身近に彼らの存在がいることはわかっていた。 けれど、実際に過ごしてみれば、一般の里の人にとって、彼らは意外にも遠い存在だったから。 だから、こうして今目の前でかかわりを持ってしまったことが、ひどく自分にとって驚きとなっている。 「申し訳ないことは大変承知なのですが、少々こちらで休ませて頂けると助かります」 「…は、はい」 言われた言葉に、思考に落ちていた意識を取り戻す。 わたしは目の前の人、――月光さんに「もちろんです」と伝えた。 そして、いくらかお話をしていたけれど、不意に店の片づけ途中だったことを思い出した。 月光さんは「こちらに構わず続けてください」と優しく言ってくれた。 それに対して、わたしはなんだか申し訳なったけれど、みたらしさんの様子も、その時にはすでに落ち着いてきていたので、お言葉に甘えさせてもらった。 「…それでは、何かあったらすぐに仰ってください。あちらの作業場にいますので」 「ゴホッ、本当にすみません」 「いえ、みたらしさんもだいぶ落ち着いてきたようで良かったです」 「…ゴホッ、ほんとうに」 その言葉を最後にわたしは作業場へと消える。 そしてどのくらい経ったのか、感じていた気配がなくなるような感覚が不意に背筋を襲った。 わたしは動かしていた手を止めると、そろりと作業場から店内を覗いた。 「……?」 けれど、そこにあったのは、先ほどまでいた月光さんとみたらしさんではなく、しんと静まり返った夜の静けさだけ。 「…月光さん?」 そろりと店内に踏み込ませた足。 月光さんとみたらしさんが座っていた席に近づけば、そこには桶とタオル。 それと、一つの小さな巻物がありました。 「…」 はらりと落ちた帯紐。 月明かりの照らす店内で広げた巻物は、白ばかりが占める紙を映していた。 けれど、小さく黒で染められた文字がこう告げていました。 ―――ありがとうございました。お茶おいしかったです。 「……」 (…変な人たちだったなぁ)