part2

夢(ドリーム)設定しおり一覧
 内容は詳しく覚えていない。でも、郷愁を帯びたとても懐かしい夢だった気がする。
 愛おしくて、切なくて、甘くて、だけれど仄かな苦みを孕んでいて。幸せなはずなのに、まるでこの時間が長くは続かないことを知っているからこその苦悶を伴っていた。
 物語自体は、俯瞰して眺めていたのだと思う。仕掛け絵本のように、自らの指先で捲ると本から情景が浮かび上がるような不思議な感覚だった。
 もっとも物語と一概に言っても、ストーリー的には乖離を起こしている――例えるなら虫食いのような――断片的な画ばかりだったけれど、なぜかその夢は私の心に真っ逆さまにストンと落ちてきた。物語の登場人物である小さな女の子と感情がリンクしていたせいもあるかもしれない、兎角彼女が泣いているときは私も無性に悲しかった。
 そして女の子が泣いているとき、必ずといっていいほどの頻度で出てくるのは、目尻の泣きボクロが非常に特徴的な男の子だった。
 ふわふわの髪の毛に平均よりも低めな身長、人によっては女の子と見紛うような可愛らしい容姿だった。されど落ち着いてお兄さん然としていて、とても頼りになりそうな子だ。ううん、実際に女の子と同調して夢を見ていた私は、その男の子のことを『頼もしい』と信頼し切っていた。お兄ちゃんとしても、男の子としても、この人しかいないと幼いながらに感じていた。
 男の子はそんな女の子のことをどんな風に思っていたのかは分からないけれど――客観的に見れば、大切な女の子として丁重に扱っているようにも思えた。女の子が泣き止むまで傍に寄り添って、夕陽が照らす帰り道は手を繋いで、頭を撫でて。悲しい事柄から気を紛らわすように、他愛ない話も織り交ぜたりなんかして。ひとつひとつの些細な行動に、思いやりが滲み出ていた。
 けれど朝日が昇る頃には、男の子はいなくなっているのだ。もちろん住む家が違うというのもあるだろう。しかし、昼になっても夜になっても、男の子は女の子の前には現れなかった。
 最初はたまたまだと、忙しいだけかなとありふれた事情を予想していた。だけれどカレンダーの日付が変わっても、季節が一巡しても男の子は顔を見せず――女の子は、毎晩夜空を見上げながら『また彼に会いたい』と恋い焦がれていた。
 彼女はその想いを決して口に出すことはしなかったけれど、『寂しい』と、夜空を見上げる背中が何よりも雄弁に第三者である私に実感を伴って強く語り掛けてきていた。
 そこで鈍間な私はようやく察した。
 あの男の子は、女の子が泣いたときしか彼女の前に姿を現さないのだ、と。
 これまた明確な理由は分からない。夢はしょせん夢であるし、細部まで覚えているわけではないから、もしかしたら理由を知ったかもしれないけれど、きちんとは覚えていない。
 でもかつての男の子の身体には、新しい傷が無数にあった。まるでその傷は女の子を庇ってできた傷みたい、なんて何の根拠もなく、私はヘンテコな所感を抱いたのだけれど。
『……夾迦、俺にはもう――』
 私は、他人を傷つけるくらいなら自分の傍から突き放し、たったひとりでその傷を背負い込む優しい人を知っているから。
 だから……妙に胸に突き刺さっているのだろうか。男の子の痛々しい傷と、女の子の寂しげな背中に、自分たちの関係性と合致する部分が見受けられたと。そんな思い違いも甚だしい勘違いをして、感傷的な気持ちが揺り起こされたと、私は誰ともなしに哀訴したいのだろうか。

「……」
(――答えは、今更、だ)

 無感情な眼差しでスマートフォンを見下ろす。LIMEには父の名前と、食事会の日取りが決定したとの一報が載せられていた。
 文脈からしても拒否権など与えられていない。あまりにも隙のない、簡明直截な物言いだった。あの人らしいと言えばあの人らしいけれども、久しぶりに話す娘に対してもう少し……なんて、期待するだけ無駄か。
 分かり切っていた現実に浅く嘆息を落として、私は『承知しました』と義務的に返信を送る。それしか送らなかったのは意趣返しのつもりだけど、向こうは端から余分な脂肪となる会話など求めていないだろう。既読は、つかなかった。

「なーに、辛気臭い顔しちゃって」
「夏目君。外回り終わったの?」
「ご覧の通り。樹さんたちももうすぐ戻るって」
「そっか、お疲れ様」

 ならなおのこと早く終わらせないと。
 スマートフォンを横に置いた私は、報告書の最終確認作業に取り掛かった。この工程が終わったら手早く印刷して、関さんに提出しなければならない。退勤した後も仕事の延長線上で亜貴のアトリエに伺う予定があるし、せっかちな彼を長時間待たせるわけにもいかないので、やり直しを要求されないように念入りに添削しないと。
 小休止していた身体にムチを打ち、身を入れて最後の業務に集中する。ところがそれも長くは続かなかった。いつの間にか後ろに回り込んだ夏目君が唐突に私の髪で遊び始め、せっかく入れた気合いも集中力も雲散霧消と化していく。

「……夏目君や……」
「何、その婆やみたいな問いかけの仕方」
「……。なんで私の髪で遊んでるんですかね」
「樹さんたちが帰ってくるまでやることがないからじゃない?」
「私はあるんだ。たんまりあるんだ」
「へー。そうなんだ」

 おざなりな返事に、中断するという気はさらさら無いのだということは分かった。
 ふー、とこれ見よがしにため息を吐いて、致し方なしにそのままにしておく。今は目の前の仕事を片付けることが優先事項だ。彼の対応は後回しでもいいだろう。そう軽視しての判断だった。
 けれどぐい、と無遠慮に髪が引っ張られる感触に痛痒を覚えて、非難を含めた目でデスク脇の鏡を一瞥する。私の視点から映っている夏目君はそのうち鼻歌でも歌い出しそうなくらい上機嫌な面持ちだ。嫌いな外回りに駆り出されたときはゲンナリとしてたくせに、いったい全体どういう風の吹き回しだろうか。凡庸な頭で考えられる事訳とすれば穴場となるような目ぼしい料亭を見つけた、とか、関さんと今度飲みに行く約束を取り付けた、とか、せいぜいそのあたりだけれど。
(にしては異様に楽しそうなんだよなぁ)
 ……何だかけったいだ、と訝しんだ私は目で文字を追いつつも、丁寧に髪を編んでいる夏目君へと直球な質問を投げ掛けた。

「何かあったの?」
「…別に? これといって話すようなことは何もないけど」
「え……じゃあなんでそんなにニコニコしてるの……怖……痛!?」
「雉も鳴かずば、なんだっけ?」
「撃たれまい、です……」

 暗に『余計な口を叩くな』と夏目君は仰られている。駄目押しなのか鏡越しにニコォ…と微笑まれて戦慄した。ただの笑顔なのに凄みすら帯びている気がする。どうやら非難は承知の上で手荒な真似を致したようだ。相変わらず肝が据わっているようで何より。
 その圧に黙りこくって目を逸らすと、なおもつんつんと戒めのように引っ張られる髪に肩が震えた。これ以上追及したら引っこ抜くかもよ、という前触れ的なジェスチャーだろうか。いずれにしても恐ろしいことこの上ない手振りだ。
 私はスッと心頭滅却し、結果何も見なかったことにした。頭皮が引っ張られる甚振りを受けながらも淡々と、ひたすら無心でタイピングする。夏目君はしばし私の様子を窺っていたものの、次第に何事もなかったかのように私の髪いじりを再開した。怪しい暗雲は去った。

 そしてしばらくすると夏目君の明言どおり、続々と樹さんたちが帰社された。その頃には私も確認作業が終わっていて、印刷もとうに済んでいるのだけど、夏目君の拘束により物理的に動けない状態が続いていた。
 やむを得ずたすけてください、とまな板の鯉は双眸で訴える。でも頼みの綱である樹さんには「ふたりきりのオフィスでやることがそれか、色気もへったくれもないな」なんてなぜかガッカリされてしまったし、今大路さんに至っては「微笑ましいですね」なんてチグハグな変化球をぶん投げてくるしで、露骨に絶望した顔を晒してしまったかもしれない。さながら地図を見ながら行き止まりに当たった気分だった。
 分かってる。単なる人選ミスだ。ふたりは助けてくれないだろうことも薄々と感じ取っていた。けどマトリにはほかにも課員がいるし、落ち込むには時期尚早。
(玲ちゃん……たすけて……)
 ――と、先輩の面目も丸つぶれに、藁にもすがる思いで彼女の帰りを待っていたのだが。

「……泉、俺にも泉の髪をアレンジさせてくれないか。大丈夫、優しくする」
「いやいやいや、丁重にお断りさせていただきます…」
「今なら俺とおそろいに」
「次の機会に! お願いします!」
「前もそう言っていたな。ということは実質今日が次の機会だ。さぁ、髪を、皮膚片を…!」
「ギャー!?」

 後続で帰社して早々、玲ちゃんも髪抜きピンクに絡まれてしまった。
 孝太郎がああなると当分はブレーキが利かないので、彼女はきっとこちらにまで手が回らないだろう。むしろ私がピンクを食い止めるべきか、と考えあぐねて、でも生え際が突っ張る感覚に無理だと悟る。生憎とストッパーとなるような人物が現在のオフィスにはひとりもおらず、私と玲ちゃん以外は思い思いに過ごしていた。
 合間にも刻々と過ぎていく時間に眠っていた焦りが掻き立てられる。約束の時間までいささか余裕はあるけれど、どのみち関さんが戻るまでオフィスを出れないけれど、うーん。十分前にたどり着けるかどうか微妙なラインだ。
 念のため遅れそうな旨を連絡しておいたほうがいいだろう。そう思い立ってデスクに放置していたスマートフォンに手を伸ばすと、頭上から「もうちょっとだから動かないで」とストップの声が降り掛かる。もうちょっと、という発言を聞いて従順に従う私の身体。
 なんとはなしに鏡越しに夏目君をチラリと窺うと、美容師顔負けな手捌きで、私の髪をせっせと編んだり結んだりしていた。その姿にやっぱり手先は器用なんだなぁ、と感嘆の息を漏らす。
 夏目君は肉体労働以外ならお任せあれって雰囲気があるけれど、本当に何でもそつなく熟してしまうのだろうか。だって男性とは勝手が違う女の髪をこうも容易く纏めてしまうなんて。

「  はい、完成」

 【夏目春 万能説】をマイ辞書に登録したところで、満足げな当該者の声が鼓膜をつついた。同時にカシャ、とカメラのシャッター音が響いて、彼のスマフォ画面を確認させられる。髪で遊ばれるのは初めてじゃないから、任せても変な風にはされないだろうという信頼はあったけれど。
(……でもこれは、)
 見せられた後ろ姿の変貌具合に閉口する。シンプルにお団子にして纏めていた私の髪は、今や三つ編みと編み込みリボンの組み合わせアレンジを施されてすっかり形を変えていた。しかも髪に編み込まれているリボンがそこはかとなく高級感漂う青色なのだが、ひょっとしなくてもどこかで買ってきたのだろうか。…今回のために?
(……いや、いやいやいや、まさかね)額に冷たい汗が滲む。とにかく言葉を失ってしまうほど手の込んだ出来栄えであった。
 仕事終わりにこんなオシャレをさせられるのはさすがに予想外のことで、どういった反応が正解なのかいまいち悩む。まずありがとうとお礼を言って、その次にリボンについて突っ込……んでもいいのだろうか。軽くあしらわれて有耶無耶にされそうな気がするけど。
 うぅん、と瞬きを繰り返しながら唾を飲む。喉元まで出掛かっている声になかなか一歩を踏み切れずにいると、今大路さんと話し込んでいたはずの樹さんが代わりに言を発してくれた。

「へえ、いいじゃないか」
「もっと軽率に褒めてください、俺のモチベに繋がるんで」
「なんでお前だよ。椛だよ、椛。髪を下ろしたほうが女っぽく見えるんじゃないか」
「え、今まで女っぽく見えてなかったってことですか樹さん」
「それについては黙秘権を行使する」

 都合が悪くなったのかあからさまに口を濁す樹さんに愕然とする。確かに女らしさを見せるつもりで髪を結わえていたわけじゃないけど……!ないけども……!!
 世間一般が思い描くような理想よりも、遥かに格の高い女性をたくさん知っているであろう樹さんに言われるとよりいっそうダメージが増す。悔しさ半分、虚しさ半分って感じの心境だ。
 急速に削られていくテンションゲージに沈みかけると、偶然と孝太郎を自力で振り切ったらしい玲ちゃんと目が合った。玲ちゃんは同情のような共感のような眼差しでこちらを注目していて。
 考えてることが一緒で、お互いがお互いを嘱目していると気づいたとき、私たちはどちらからともなく口を開いた。

「玲ちゃん……」
「夾迦ちゃん……」
「仕事が恋人同盟、組む…?」
「…組もうか」
「名前からして悲壮感漂う組閣なんだけど」

 夏目君の茶々には耳を貸さず、似たような境遇に置かれている(厚労省に務める女性から目のたんこぶ扱いされてる的な意味で)私と玲ちゃんは、諦念を宿した目で頷きあった。
 仕事が恋人と割り切ってしまえば何も悲しいことはない。憂うこともない。私たちは自分の恋愛よりも仕事に全力です、という建前さえあれば、みんな興醒めこそすれ言及はしてこないだろう。本当はこの熱意が厚労省の女性全員に伝わるのが一番いいのだが、こればっかりは長い目で安全牌として見られるように待つしかない。新入社員は毎年入ってくるから先が不透明な戦いだけれど、先達に「彼女らは異性としてカウントされてないから大丈夫」と認識させれば私たちの勝ちなのだ。それまで耐え忍べばいいだけのこと。
 がんばろーね、と同じ悩みの種を抱えた私たちが固い結束を結ぶ横で、理解不能といった顔の男性陣が一様に小首を傾げる。
 明らかに派閥がふたつに割れた、その瞬間、幸か不幸かオフィスの扉が開かれた。

「――ああ、皆揃ってるな」
「関さん、おかえりなさい」
「ただいま」

 外での業務を終えたらしい関さんの姿を見て席を立つ。先ほど印刷した報告書を渡すためだ。
 立った拍子に夏目君と思いがけない衝突をしそうになったけれど、間一髪で彼のほうが身体を避けてくれて免れる。咄嗟に「ごめん」と謝れば、「次は気をつけなよ」と釘を刺されながら髪を乱さないように撫でられた。刹那、高そうなリボンがフラッシュバックして息を飲む。そういえば髪を編んでもらったお礼、まだ伝えてないな。

「今日はもう皆上がってくれ。明日からハロウィン警備強化週間に入るから、今夜は英気を養っていてほしい」
「関さんはどうされるんですか?」
「俺は服部さんのところに寄ってから上がるよ。明日の段取りで確認したいことがあるんだ」
「分かりました」

 私が立ち尽くしているあいだに、そちらは自然と解散の流れとなったようだった。決定された話を耳に挟んではからずも関さんと夏目君の顔を交互に見比べる。
 お礼も大事だけど、書類も蔑ろにするわけにはいかない。でも夏目君のことだから私が関さんと話しているうちに帰りそうだし、何なら明日以降に持ち越したら忘れてそうだし、と憶測に憶測を重ねてひとり不安を募らせる。そうやってグズグズと判断を決めかねていると、私の慌ただしい挙措を見て噴き出した夏目君から「行ってきたら?」と、とうとう背中を押されてしまった。
 ぴた、と彷徨う視線を目の前の彼に固定する。胡散臭さすら感じる笑顔に僅かな疑心を抱いたけど、早くしないと関さんが捜一に行ってしまう。その事実がぐらぐらと揺らいでいただけの天秤の秤を片方に傾かせた。
 あんまり効果を為さないと思うけれど、いちおう「待っててね」と夏目君に念押しして、私は荷を片付けていた関さんの元へ赴き、持て余していた報告書を提出する。
 関さんは真剣な面持ちで目を通すと、ふたつ返事で書類を受理してくださった。そのうえ私がこのあと亜貴のアトリエに伺うことを知っているからか、「転ばないように気をつけて」と注意までしてくれる。しかしそれは私のそそっかしさが認知されている証拠だとも痛感して、私は「肝に銘じます」と自戒の念を込めて頷いた。
 さぁ戻ろうと後ろを振り向く。振り向いた先にあれほど念を押したはずの夏目君の姿は――案の定、影も形もなくなっていた。




「……てなことがありまして」
「ふーん。それが遅くなった言い訳?」
「うっ、ちょ、ギブ、ギブ……!」

 れっきとした悪意を孕んだうえで容赦なくウエストを絞られている。メジャーの帯がお腹の肉に食い込む辱めを忍受しながら、私はお手上げの意も含めて降伏の姿勢を示した。
 切羽詰まった声を聞いたであろう亜貴はたいそう不満ですと書いてある顔を上げる。そんな風に睥睨されても約束の時間には間に合ったのだからちょっとは大目に見てほしい……なんて思いはしても、実際に滑り込みで訪れたのは私だからぐうの音も出ず。なおかつ、お冠状態の幼馴染みに真正面から立ち向かえる度胸は残念ながら持ち合わせていないので、これ以上波風を立たせないように専ら唇を噛んでいた。
 されど私の考えていることは雰囲気からして駄々漏れだったようで、真下で大きくため息をつかれる。と同時にウエストの締め付けが緩んで、採寸が終わったことを知らされた。さすがプロだ、手際が好い。解放感に身体を伸ばすと、尺を収めたメジャーを作業デスクに置く彼の姿が視界の端に映った。
 だが話はそこで終わらなかったようだ。依然として仏頂面を崩さない亜貴は用を済ますなりつかつかとこちらに歩み寄ってきて、私を威嚇するように見下ろしては、鬱積していた数々の不服をぶちまけるように口火を切った。

「だいたい連絡はこまめに寄越せっていつも言ってるでしょ? あんまり音沙汰ないものだから慶ちゃんと桧山くんが心配してる」
「それは……ごめん」
「しかもこのあいだ羽鳥とも出かけたって本人から話聞かされたんだけど」
「あれは弾丸お金持ちツアーみたいなノリで」
「君もいちおう実家は名家でしょ」

 いちおうね、と微苦笑する。皮肉で言ったつもりは毛頭ないのだろう、私が反芻した言葉に亜貴は一瞬だけ怯んだようだけれど、すぐにムッとした表情に変わる。…これは怒っている、というよりかは拗ねている、のほうが正しい言い回しかもしれない。要は慶太とも羽鳥君とも会っているのに、自分と桧山君を蚊帳の外に置くとは何事かと問い質したいのだろう。ぐに、と私の頬をつまむ亜貴の手は、大人の気を自分に引きたがるうちの姪っ子とまったく同じ動きをしていた。

「…ちょっと、ニヤニヤしないでくれる」
「いやぁ、亜貴にも可愛いところがあるんだなぁって思っ……痛った!?」

 慶太がこの場にいたらさぞ呆れ返っていただろう。「なまじ口に出すからだぞ……」と。それで夏目君にも痛い目に遭わされているというのに、懲りない舌だと我ながら恐れ入る。
 本気で抓られた頬袋を指先でマッサージしていると、怒り心頭に発してそっぽを向いた亜貴は悠然とした足取りで作業デスクに戻っていく。さっそく型紙作りを行うのだろうか、裁ち鋏やリストピンクッションの用意を始めていた。
 ならば私はお邪魔になる前に早々にお暇したほうがいいだろう。他人がいると気が散るだろうし、彼には落ち着いた環境で最高の仕事をしてもらいたい。そもそも今回採寸したのだって、再来週に控えている潜入捜査用の衣装を仕立ててもらうためだ。こちらが依頼している手前、作業妨害になるような行為はできる限り慎みたかった。
 従って私は脱いでいた上着に袖を通す。久しぶりに元気そうな様子が見れただけでも充分嬉しかった。だけど後ろから「え?」と心外そうな声が聞こえて振り返る。いつの間にか机の上に広げた型紙から目線を上げていた亜貴は、なんで?と言わんばかりの面持ちでこちらを凝視していた。つられて私も目を瞬かせる。

「……何してんの?」
「え? ……作業始めるなら帰ろうかと、思って……邪魔になるだろうし……」

 自分の意思とは裏腹に語尾が窄んでいった。視線の先に捉えている亜貴の顔が徐々に宜しくない色に染まっていったからかもしれない。何だか今日は彼の癇癪玉をつついてばかりだなぁと冷静な心裡が囁くが、決して笑いごとではなかった。無意識とは、無知とは時に自分の首を絞めることになる。不穏な空気の中で、自分の心臓だけが唯一ドキドキと喧しかった。
「……亜貴?」おっかなびっくり呼びかける。瞳を伏せた亜貴は何か考えごとをしているようで、私が立ち入って聞いてしまってもいいものかと、柄にもなく声が震えてしまった。がしかし、応答がないのでおそるおそる顔を覗き込むと、彼は私を一瞥して本日二度目のため息をつく。
 そうして吹っ切ったように握ったペンを投げ出しては、帰り支度に着手しようとしていた私の側まで寄ってきて、ただダランと垂れ下がっていただけの私の手首を音もなく掴まえた。
 息を飲んで彼を見上げる。偉く整った顔貌には、しょうがないなぁと譲歩したような穏やかな笑みが浮かべられていて。正直、怒ったわけではないのだと、心の底からホッとした。

「仕事は? まだ残ってるの?」
「ううん、今日はもう退勤したけど」
「そ。ならしばらくここにいなよ。帰りは送ってってあげる」

 ぽふりと頭に置かれた手に目を眇める。つくづく彼らには甘やかされているな、と無意識にも面映ゆさを帯びた笑みがこぼれた。
 いざという時の護身術は体得しているし、亜貴が社交界で相手しているような女性とは少し事情が違うのだから、終電で帰ろうが夜道をひとりで歩こうが全然平気なのに。こういうとこ律儀というか、紳士的だよなあ。
 なぁんてくすぐったい気持ちを呑気に巡らせていたら、緩んだ頬を見かねた亜貴に「いいかげんその締まりのない顔どうにかしてくれる」とやや厳しめのお叱りを受けてしまったけれど。

「……コーヒーでも淹れようか?」
「そうして。豆はそっちのカウンターに入ってるからお願い」
「はーい。温度は?」
「九十度」

 了解、と応じて指し示された場所に向かう。部屋の片隅に設置されてあるキッチンカウンターには、最新式のコーヒーメーカーや食器などあらかた必要な物が揃っていた。よかった、これならアシスタントさんの手を煩わせることもなさそうだと胸を撫で下ろして、コーヒー豆を探す。
 私の記憶が正しければ、一番上の引き出しはスプーンやスティックシュガーが入っていたはずだ。なら、と最もスペースが広い三番目の引き出しを開くと、予想どおりそれっぽい包装紙が収納されてあった。万が一にも間違えたら大変なので、念のためラベルを確認する。
(これは……、南インドのマンガロール産か)
 温度は九十度と高めの注文をされたから、じゃあ細挽きがいいかな、と斟酌して封を開いた。ミルケースに適量を入れて蓋を閉じる。タンクの水量は不足してないみたいだから、フロント部分のダイヤルで温度と量のチューニングを一緒に済ませて、手数は完了。紙のフィルターなしで抽出できる優れものだから後はスタートボタンを押して、私は近くの椅子に腰掛けた。
 亜貴は作業に傾注し始めていたので話しかけるのは憚られる。かといって年甲斐もなく作業場をウロウロするのも迷惑になるし、どう暇を潰したものか……。
 こんなことなら都築先生の新刊持ってくればよかったなあと今更ながらの後悔に苛まれるが、人が真剣に物事に取り組んでる横で自分は優雅に読書、というシチュエーションも何だか躊躇われてしまう。だってほら、車の運転中に助手席の人に寝られたら不快だって人もいるだろう。その感情に近い心証を抱かれるんじゃないかと思うと、実行するのはいささか抵抗がある。
(……うーん)
 でも夏目君にお礼のLIMEを入れるくらいは許してくれるだろうか。ずっと携帯触るわけじゃないし、今の時間帯ならまだ夏目君も起きてるだろうし、送るなら今のタイミングしかない。
 デスクに向かっている亜貴の横顔を覗うと、こちらにはほぼ関心を向けていないようで。

「……ごめん、ちょっとスマフォ触るね」
「……ん」

 こっそりと囁くと、聞いているのかいないのか、判別がつかない生返事が返ってきた。それでも返事をしようとしてくれただけ有り難い。
 私は来客用のソファーに置いてあった自分の鞄に忍び足で近寄って、私用のスマートフォンを取り出した。起動したLIMEの上部には昨夜もやり取りしていた夏目君の名前と――
(忘れてた)
 忘れたままでいたかった、父の名前が並んでいる。あのメッセージ以降、何の音信もないトーク画面を開いてみれば、やはり既読はついておらず。ああ、本当に用はそれだけだったんだなと急速に心が冷えていく。期待するなと何度も自分に言い聞かせているのに、何をがっかりすることがあるんだか。的外れな願望にすがろうとする浅はかな自分に嘲笑が浮かんだ。
 これからも鳴ることはないだろう画面からバックして、当初の目的としていた夏目君とのトークを開く。テキストエリアに文字を打ち込み、お礼と、リボンを明日返す旨を送信すると、幾ばくもしないうちに既読がついた。

「早っ」

 口走って、咄嗟に唇を手のひらで覆う。怖ず怖ずと後ろを振り返れば、亜貴は気づいた様子もなくサラサラとペンを動かしていた。愁眉を開いて視線を手元に下ろす。ポン、と小さな音をさえずらせながら返信を知らせたそれを、私は思わず食い下がるような勢いで顔に近づけた。
(……、ええ……)
 画面には『真面目か!』と揶揄するような言葉と、『リボンはラッピングで着いてきたヤツ使っただけだからいいよ、あげる』などと、扱いを託すような言葉が連なっていた。
 この内容はつまり、捨てようとしていた物を再利用したってことだろうか。ぱっと見高そうに見えたけれど、ボンボンの夏目君ならしょっちゅう高いお店で買い物してるだろうし、それだったらラッピングだって当然センスのいい物があしらわれるわけだし……、ますます答えに窮した。
 本当にいいのかな。このまま夏目君の言うことを鵜呑みにするのは簡単だけれど、もし誰かにプレゼントしようとしていた物なら私が我が物顔で使うわけにはいかないから、迷った。夏目君はいかにも剽軽っぽく振る舞ってるけど、文面上ならいくらでも取り繕えるだろうしなあ。単純に私の過慮だったら、いいのだけれど。

「誰とやり取りしてんの?」
「うわっ! あ、亜貴……作業は?」
「おおむねイメージは膨らんだから後は形にするだけ。で、裄丈と首回りの採寸も追加で行いたいんだけど」
「ああ、うん、わかった」

 そういうことなら、とナーバスになりながらも頷いた。
 持っていたスマフォを鞄に仕舞って、メジャーを携えた亜貴の正面に立つ。肩口から袖口の長さを両方測って、速やかにメモをしたあと、亜貴は私の頬に掛かっていた髪をそっと耳の後ろに退けてくれた。こそばゆさに身を捩るけれど、動かないで、という言葉にぐっと堪える。
 これから首回りを測るのだから致し方ないことだとはいえ、日常では滅多にない距離の近さにどうも腰が引ける。こんなに接近したら肌荒れがバレそうというのも恐縮する理由のひとつだ。強い言いつけで手入れは怠らないよう努力はしてるけど、どうしても仕事の都合上、徹夜をキメることも頻繁にあるので率直に言って気が気でない。
 かといって逃げることもできないので、早く測ってもらおうと自分から編んでもらった髪を掻き上げる。されど背に回り込んだ亜貴は「あれ、」と意外そうな声を上げていた。何?と問いかければ、掻き上げた髪の尾をつままれる。

「これ結んだ人器用だね。上手に編めてる」
「…私がやったとは毛ほども思わないんだね…」
「夾迦はそもそもこういうの面倒臭がってやらないでしょ。素材はいいんだから、もっとおめかしに気を配ればいいのに」
「ん? え? 亜貴が褒めた…? 明日槍が降らない…? 大丈夫…?」
「ハァ?? 言っとくけど夾迦を褒めたんじゃないから。その顔に産んでくれたお母さんに感謝しろってことだから」
「アッ、ハイ」

 僅かに浮き立ったものの、やはりこの幼馴染みはどこまでもブレなかった。そして面倒臭がってやらない、という見当も大当たりだった。私の思考パターンが把握されすぎていて若干慄然とするほどだ。それだけ私が昔から変わっていないという証左なのだろうけど、二十代後半となった今は喜ばしいという感情はない。むしろ焦りを覚えるばかりだ。
(髪、髪か……玲ちゃんも毎日工夫してるみたいだしな……)
 社会人になってからワンパターンな形に偏りがちだけど、そろそろ真剣にヘアアレンジを学ばなきゃいけないようだ。高校のときは自分で遊んだりしたけれど、前と今では似合う髪型も違ってくるだろうから、思い付きついでに骨格診断も受けてみようか。幸い樹さんにもこうしたほうが好いとアドバイスを賜ったことだし、今度の休みは美容室に行って専門のプロからも助言を願おう。
 と、こちらが思案顔で一計を案じる一方、未だに亜貴は編まれた髪をまじまじと見ていた。何か気に懸かることでも、と心配したが、職業上身なりには厳しい彼が珍しく上手、とまで言っていたことを振り返ってそれは無いと自己否定。
 けれど夏目君の髪結いスキルは着実に練度を上げていると確信していいだろう。頻りに遊ばれている私は内心複雑な心境だが。

「それで、結局誰がやったの?」
「夏目君。……ふたりに面識あったっけ?」
「いや、……けど、へえ。夏八製薬の御曹司がこのリボンを、よりにもよってこの子に、ね……」

  僕らへの、延いては慶ちゃんへの宣戦布告、ってわけ。
 ヒヤリと首に触れたメジャーの冷たい感触と相俟って、心底面白くなさそうな声色が奇妙に胸をざわつかせる。怖くないと意地を張ったら虚勢になるけど、それ以上に亜貴が呟いていた言葉は要領を得なくて、聾桟敷に置かれている私は何がなにやら訳が分からなかった。夏目君がRevelに喧嘩売るような真似をするはずがない、する理由もない、……はずなのだけど。
 顰めっ面をした亜貴はこの青いリボンのことを宣戦以外の何物にも思えないようだった。真偽は定かでないけど、夏目君はラッピングで着いてきたものだと主張していたし、亜貴が目くじらを立てるような代物でもないと思うのだけど、物事はそう些末なことでもないみたいで。
 痛くない腹を探られるような心地で首をひねる私に、亜貴はちっとも眉から険しさを取り除かないまま、不承不承と順序立てて話を切り出した。

「今、若者の間で話題になってる……まあ、いわゆる恋愛に効果があるっていうジンクス付きのリボンがあるんだけど」
「うん」
「売り出してるのはうちがライバル視してるブランドでさ。ハロウィン効果も乗じて、結構人気出てるみたいなんだよね」
「うん。……うん??」
「まだ分からない?」

 察しが悪い私の後頭部にジトリとした視線が突き刺さる。否、正しくは『察してきてはいるのだけど認めたくない頭』が正解だ。先に続く言葉が巧まずして分かってしまって、血も凍るような寒さを感じ始めたとき、けれど私の変化に気づいていない亜貴は無情にも畳み掛けてくる。この青いの、正真正銘そのブランドのだよ、と。
 喉の奥に指を突っ込まれたような衝撃に眩暈がしたのは言うまでもない。いっそのこと気絶でもしていれば、と思考が安易なほうへ楽なほうへと流されかけるけど、都合のいいときだけ意識を飛ばせるスキルは疎か、現実的に考えてもそんなことは不可能だった。…完全にキャパオーバーだ。眉間が矢でも刺さってるかのように痛む。

「身の回りには充分気をつけなよ。意想外のところから狼が狙ってるかもしれないし」
「夏目君はアサシンか何かなの? そんなこと言われたら明日どんな顔で会えばいいのか…」
「……いい機会だからハッキリさせておくけど、僕は慶ちゃん以外の男を認めるつもりなんて端からないから」

 いつになくキッパリと言い切った亜貴に意表を突かれて瞠目する。彼の口からこんな言葉が出てくるなんて、昨日までの私は夢にも思わなかった。
(だって、諦めろって言ったのは亜貴なのに)
 学生時代、まだ自分の恋に振り回されていた頃を想起して、心に翳りが差す。今思えばその言葉は凄く真っ当で、慶太の心情を汲めば言われて当たり前のことだったのだけど、当時はどうしても納得できなくて、子供のように自分の部屋でわんわん泣き喚いたっけな。
 あのときは母にもずいぶん迷惑を掛けてしまった。産まれて初めて子供の癇癪を起こしてしまったようなものだし、年を重ねた今でも苦い思い出として海馬に刻まれている。
 だがそれにしても今更どんな心境の変化かと自由になっていた身体を翻すと、声と同様に凛とした眼差しをこちらに向けていた彼と視線がぶつかった。菫色の双眸は嘘偽りなく、本心をありのままに語っていて。
 誠実なその瞳と向き合える自信も心の清さもない私は、逃げるように顔を背けた。

「いきなりどうしたの、そんなこと言って」
「……。別に、思ってたことを言っただけ」

 それよりコーヒー、もうジャグに溜まってるから持ってきて。
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