「…………んんっ?」
ロウの意識が浮上した。瞼を開けると、ぼやけた視界が徐々に鮮明になっていく。立ち上がりながら辺りを見渡し、ロウはむぅと腕を組んだ。
「こ…ここはどこじゃ……?」
何もない空間だった。遮るものが何もなければ、終わりも見えない。音もしない。
「わしはなぜこんな所におるんじゃ?……うーむ、おかしいのう。ちっとも思いだせんぞ」
思い出そうとしても、何も思い出せない。まるで、記憶がすっぽり抜け落ちたようだ。
思案するロウはふと目線を上げて、気づく。
遠くに見える、その姿――。
うさみみに、フサフサのまんまるい尻尾。彼女はうっふんと、お色気たっぷりのウィンクをロウにした。
「なんじゃと!まさか、彼女は……!?」
ごそごそと大事に持ち歩いている本を取り出す。真剣な眼差しで本の表紙のバニーガールと、彼女を見比べた。
「……おおっやはり!我が愛読書『ピチピチ☆バニー』のバニーちゃんに、ウリふたつではないか!」
ロウの目はまんまると見開く。見れば見るほど、本から飛び出してきたようだ。
本をしまうと、キリッと彼女を見据える。
「何が何やらわからんが……あのバニーちゃんなら、ここがどこかもお耳に挟んでいるやもしれぬな」
ならば、やるべきことは一つだ。
「……よし。そうと決まれば、突撃あるのみじゃ!」
キリッとした表情をニンマリと緩めて。
「おうい、バニーちゃ〜ん!すぐに行くから待っていてくれ〜い!」
ロウは多少の下心を抱えながら、バニーガールへと走り出した。もう少しで追いつくというところで、彼女もまた走り出す。
まるで「こっちよ」と導くように、バニーガールはロウの走りに合わせて走る。追いつきそうで追いつけない。
やっと捕まえられる、と思った瞬間。
ロウは目映い光に包まれた――……
「……うう。何が起こったんじゃ?」
反射的に閉じた目を開くと、先ほどの不思議な空間ではなかった。
目にした瞬間、さまざまな感情がロウの胸いっぱいに込み上げてくる。
目の前に広がっているのは、懐かしくて愛おしい光景。
「そんな……!いや、しかし見まごうはずもない。ここはありし日のユグノア城……」
かつて、自分が暮らしていたユグノア城の城内だ。兵士が巡回し、子供たちが元気に走り回っている。
当たり前であった風景――。
そこにロウは立っていた。目も口も大きく開けて、驚愕する。
「ふふ……似合ってるじゃない、王さま」
可憐な声に、そちらに視線を向けるとあのバニーガールがいた。
彼女は自分を指差すようにジェスチャーをして、ロウに教える。その仕草に、ロウは自分の格好に気がついた。
「この姿は、わしがユグノアにいた頃の……!?」
上質な布に、一目で王族とわかる華美で貫禄あるデザインの装い。マントの鮮やかなグリーンは、ユグノア国を象徴する色だ。
重さを感じて頭に触れると、被っているのは帽子ではなく、王冠であった。
ロウがまだ、ユグノアの王国の王位についていた頃の格好。何故、自分はこんな姿に……着替えた記憶などもちろんない。
「ううむ、ワケがわからんぞい。バニーちゃんよ……そなたは何か知っておるのか?」
「……私についてらっしゃい♪」
バニーはロウの質問には答えず、くるりと背を向けいってしまった。
「もし、ここが本当にユグノア城ならば、バニーちゃんが向かった先は、たしか玉座の間じゃったな……」
ロウはしばし思案し、
「……他にアテもないしのう。ひとまず人々に話を聞きつつ、バニーちゃんの後を追うとするか」
慣れ親しんでいた場所を歩き出した。
壁、天井、飾られている花も……あの頃とまったく同じだ。
熱心に掃除をしているメイドの姿も――
「あら、ごきげんよう、ロウさま」
「!」
「何をおどろいてるんですか。まるで、ユウレイでも見たようなカオをして。おかしなロウさま……」
突然話しかけられて、驚いてしまった。メイドは不思議そうな顔をしたのち、違う話を切り出す。
「それより、今日はご来客があるんですよね?早く玉座の間に向かわないと、大臣さんに怒られちゃいますよ!」
ご来客……?ロウははて…と首を傾げる。
「ごきげんよう、ロウさま。ロウさまの治世のおかげで、今日もユグノアは平和です」
「ロウさま、どうなされました?……もしかして、また2階の台所でつまみ食いですか?」
神父や兵士たちとすれ違う度にそんな風に声をかけられて、ふわふわと夢見心地だったものが、だんだんと現実味を帯びてくる。
「まてまてー」
「きゃっきゃ」
広い廊下でおいかけっこしている子供たちも、ロウの姿を目にすると一目散で駆け寄ってきた。
「あっ、ロウさま!ねえねえ、ボクがおっきくなったら、アーウィンさまとおなじぐらいつよいきしになれるかな?」
無邪気な少年の質問に、ロウは腰を折ると、優しく答える。
「アーウィンに憧れているのじゃな……。その夢をあきらめなければ、きっとなれるじゃろう」
「へへっやっぱりね!なんだか、たのしみになってきちゃった。はやく、おっきくなりたいなあ」
「ロウさま。きょうもオシゴトおわったら、またオママゴトして遊ぼうねっ!」
次に愛くるしい少女の言葉に、ロウはにっこりと答える。二人は再び楽しそうに駆け出していった。
……過去のユグノア城とまったく同じ光景だ。
ロウの胸が痛む。嘘をついてしまった罪悪感。あの少年がアーウィンのような強い騎士になれることは、決してないだろう。
何故なら――……。
「ロウさまに敬礼!」
「ロウさま、ばんざい!」
玉座の間に入ると、一斉に兵士たちがロウを出迎える。
ロウが歩く度に、整列している兵士たちは声をかけた。
「ごきげんよう、ロウさま。大臣殿が玉座の前でお待ちですよ」
「ロウさま!本日もユグノアのマントがいちだんとお似合いですね。全身から威厳があふれでていますよ!」
「頭上にかがやく王冠もステキですね。おヒゲも相変わらずりりしいです!」
そんな風に一様に褒められて、嫌な気になる者はいないだろう。そうかのぅ?とロウは平然を装いながらヒゲを撫でつけた。
「私のカンですが……これからお話しにくるらしいですが、たぶん、あのことだと思うんですよねえ……」
「……そうか、とうとう決意されたのか」
「……あらっ、ロウさま。なんでもない世間話ですのよ、うふふ」
「あっ!ロ…ロウさま!ごきげん、うるわしゅう……」
こそこそと立ち話をしていたメイドと執事は、ロウの姿に気づくと、慌ててごまかすように笑った。
ロウは不思議そうに思いながら、玉座に向かう。
玉座のそばでは、オロオロと動き回る大臣の姿があった。
「……おぬしは相変わらず落ち着きがないのぅ」
「あっ、ロウさま!探しましたよ!これからご来客があるというのに、どこに行っておられたのです!」
「うぅむ、なんと答えればよいものか……」
「間もなく、お約束の時間ですよ。早く玉座についてお待ちくださいませ!」
ロウの言葉はまったく聞く耳を持たず、大臣は「早く早く!玉座にお座りになって!」と急かす。
やれやれ、とロウは玉座に腰掛けようと……
「ちょっとロウさま!何をしてるんですか。ロウさまの玉座はそちらではないですよ!」
おっとと、久しぶりすぎて間違ってもうたわい。
「ささ。早くおとなりの席にお座りくださいませ!」
玉座に腰かけると、しっくりとくる座り心地。座って見える景色も、あの頃と少しも変わらない。
本当に、ありし日のユグノア城に戻ってきたようだ。
(……いや、それはない。ありえないのじゃ……)
ユグノア城は、16年前に魔物たちによって滅ぼされたではないか。
あの日、すべてを失って、失ったものは決して戻らない。
国を守ろうとした兵士たちも、自分を必死に逃がそうとした大臣も、あの少年も、民も……。
そして、我が娘のエレノアも――
「王女殿下に、敬礼!」
扉が開き、その姿がロウの目に飛び込む。思わず玉座から立ち上がった。
「そ…そんな……!?」
ゆっくりと気品あふれる足取りで、彼女は歩いてくる。美しい姿は亡き母親ゆずりだ。
「ごきげんよう……お父さま」
目の前に立って、エレノアはロウに恭しくお辞儀をした。その隣には、何故か緊張した面持ちのアーウィンの姿も……。
「お、お前たちは、若き日のエレノアとアーウィン!なぜ、ここに……」
「エレノア王女殿下の護衛隊長アーウィン……お、おそれ多くも王女殿下と連れ立ち、ロウさまの御前に参じました……!」
ロウの不自然な問いも耳に入らないようで、アーウィンは上擦った声で切り出した。
「ほ…本日こうして参りましたのは、ロウさまに大切なお話があってのこと……」
「な…何じゃ、話とは?申してみるがよい」
アーウィンの真剣な様子に、ロウは困惑しつつも話を促す。
「じっ…じつは……」
そこでアーウィンは口を閉じた。その場にいる者たちは固唾を呑んで見守っている。
深呼吸するアーウィンに、隣のエレノアが微笑みかけた。二人は頷き合う。
「じつは、この私と……王女殿下の婚約をお認めいただきたいのです!」
今度は落ち着いた声でしっかりとアーウィンはロウに言った。
「アーウィン……」
「一介の兵士に過ぎぬ私には、不相応な願い……それは承知しております。……しかし!不肖ながら、このアーウィン!王女殿下のため、鍛え上げたこの剣……そして、揺るぎなきこの想いの強さは、世に並び立つ者なしと自負しております!」
力強くアーウィンは、自身のエレノアへの想いをロウに伝える。
「ですから、ロウさま。今後は護衛隊長ではなく、夫として、生涯王女殿下を守り抜くことをお許しいただけないでしょうか!?」
アーウィンは頭を下げた。ロウは呆気に取られている。
「どんな困難があろうとも、王女陛下を守り抜いてみせます!ですから、この通り!」
その間を迷いだと思ったアーウィンは、再び言葉を重ね、誠意を込めて頭を下げた。
「……頭を上げよ、アーウィン」
ロウは穏やかに口を開き、二人に優しい眼差しを向ける。
「……断る理由なぞ、ありゃせんわい。わしは知っておるぞ。おぬしはエレノアの伴侶になる男じゃ」
アーウィンと結ばれたエレノアは、本当に幸せそうだったと、ロウは誰よりも知っている。
「ああ、お父様……!」
エレノアは歓喜のため息をもらし、アーウィンの顔にも笑顔が浮かんだ。
「アーウィンよ……我が娘を、よろしく頼んだぞ」
「はい……ありがとうございます、ロウさま。ありがとうございます……」
何度もロウにお礼を言うアーウィン。気づくと二人の周囲には人が集まっており、拍手と祝福の声に包まれた。
その日のユグノア城は、王女の婚約という幸せの一色に染まる――。
心からの笑顔を浮かべていたロウだったが……気づくと、その場はエレノアとアーウィンの姿がない。
二人だけではなく、人々の姿も忽然と消えて、玉座の間は静まり返っていた。
きょろきょろと周囲を見回すロウの目が、バニーガールの姿に止まる。
「お…おぬしはさっきのバニーちゃん!今までどこに行っておったんじゃ!?そして、この場所はいったい……」
驚きに跳び上がるポーズをするロウ。彼女は突然そこに現れた気がする。
「うふふ……なつかしかったでしょう。次も、楽しんでいってね♪」
そう意味深な言葉を残して、彼女は消えてしまった。
一体全体、なにがなんだか……。まるでキツネにつままれたようだ。
「ロウさま、どうされましたか。そのように戸惑ったカオをなされて……」
立ち尽くすロウは、兵士の一人が不思議そうに声をかけた。
まるで場面が変わったように、その場には人の姿が戻っている。摩訶不思議すぎるとロウは顔をしかめた。
「エレノアさまたちがいなくなった……ですと?……なるほど、さしものロウさまといえど緊張で気が動転しているのですね」
緊張……とな?
「アーウィンさまもやはり緊張されているのか、先ほど何かに悩む様子で玉座の間から出ていかれましたよ」
「あっロウさま!こんな大事な時にどこで何をされていたのです!?」
兵士と話していると、大臣がトタトタと忙しなく駆け寄ってきた。
「……えっ、アーウィンさまとエレノアさまの結婚を許可していたですって?まったく、いつの話をしているのですか!」
「つい先ほどの出来事じゃないということか……」
ますますロウはわけがわからなくなってしまう。
「先ほど、アーウィンさまも落ち着かぬ様子で玉座の間から出ていかれてしまったし……ふたりともソワソワしすぎですよ!」
「ソワソワとはなんのことじゃ」
とりあえず……ロウは状況確認と、ソワソワしているというアーウィンの後を追うことにした。
玉座の間を出てすぐの廊下で、アーウィンの姿を見つける。
「やはり勇敢な……いや、エレノアのように凛々しく育ってほしいという思いも込めたい……」
……確かに。アーウィンはブツブツと呟きながら、落ち着きなく廊下を行ったり来たりしている。
「ああっロウさま!」
ロウの姿を目にするや否や、アーウィンは小走りにロウの元へやってくる。
「ちょうどよいところに!もうまもなく我が子が誕生するにあたり、折り入ってご相談があるのです!」
「むむっ、アーウィンの子供じゃと?……つまり、今は我が孫が生まれるあの日ということじゃろうか?」
先ほどの婚約の出来事といい、過去に実際に起きた出来事を追想しているようだ。
ということは……
「ここは本物のユグノア城で、わしは過去に来てしまった……?」
「……ロウさま?」
自然と思い耽てしまい、アーウィンの不思議そうな視線に気づいた。
「……いや、なんでもない。ひとりごとじゃ。それより、わしに相談と言っておったな」
「はい……。じつは我が子の名前がどうにも決められず、非常にこまっておりまして」
はて……?自分の記憶違いでなければ、孫の名前は……
「名前のことを考えると、どうにもほかの仕事が手につかないのです。申し訳ないのですが、ロウさま……。どうか、私の代わりに王の仕事をやっていただけないでしょうか!?」
記憶を辿っていたロウは、この出来事は過去になかったと気づく。
確か落ち着かなくともアーウィンは国の王として、仕事はしっかりとこなしていた。
……だが、頼み込むアーウィンの姿に、その願いを無下にもできず、ロウは引き受けることにした。
「よかろう。公務はわしにまかせて、おぬしは生まれてくる我が子の名前をじっくり考えるとよい」
「あ…ありがとうございます!本日、予定されている、王の仕事は具体的にはふたつございます」
アーウィンはロウに詳しく説明する。
「ひとつは玉座について訪れた人や問題に対し、王として指示や答えを出す仕事です。大臣に事情は伝えておきますので、ご安心を」
かつて自分が務めていた国王としての仕事だ。……そうか。ちょうどアーウィンに国王の座を継承した後の時期だったと、ロウは思い出す。
「もうひとつは城内の人助けです!こまっている者は王が自ら助ける……ロウさまの築いた伝統ですな!」
「おお、懐かしいのぅ……」
「?」
「いや、こちらの話じゃ」
ゴホンとロウは咳払いをして取り繕う。
「では、私は2階の噴水のそばにおりますので、仕事がひと区切りしたらお声かけください。すみませんが、よろしくお願いいたします!」
最後にアーウィンはロウに頭を下げ、足早に立ち去ってしまった。
「……さて。まずは何から始めようかのぅ」
アーウィンから王の仕事を請けおったロウは、さっそく仕事に取りかかる。